中年男のエレジー 郷愁

yahooブログとの交差点にしたいと開設しました。ヤフーブログ終了により、アメーバとライブドアから発信を始めました。

久々の上高地は雨続きだった

2013年08月27日 00時15分06秒 | 上高地

8月22日から25日まで上高地に行ってきました。

  私のお気に入りの場所 小梨平から梓川と穂高連峰を望めます。川辺に立つ1本のカラマツの近くのベンチに座り、正面は添付した写真の景色で、右を見れば明神岳、左を見れば焼岳が見られます。

 今回はテントを3個持ち込み、家族7人で訪れたものの、初日の夜から激しい雨に見舞われ、朝の起床時にはテント前は池のような状態になっており、怒り心頭の家族はそのままアルプス観光のBケビンに移動して行ったため、残されたのは私一人となり、相棒と一緒のテント生活を送りました。

 雨のテントの中で、今度はどうやって来るかを考え、一人でテントを撤収していると、家族全員の食料や食器から寝袋などを持参して行くことを考えると、一人なら下の写真のように、リュック(衣類や食料など)とキャリー(テントや携帯ガスなど)だけで数日間は過ごせそうです。 

 さて、小梨平には、4月から上高地にテントを張って、油絵を描いている千葉県のホームレス画泊こと渡辺さんが有名人ですが、実は多くの人々が一ヶ月とか半月程度の間隔でテント生活を楽しんでおられます。
 
 今回、渡辺さんの「世界の交差点」のテント脇にテントを張りましたが、その横にテントを張られていたのは、大阪豊中市のHさんで、7月に続いて今月中旬から月末まで上高地へ滞在されていました。
 
 Hさんは食料品などを上高地の郵便局止めで送り、松本経由で上高地入りされていますが、仕事を引退された第二の人生を、悠々自適に生活されており、今年還暦を迎える私にとっては参考になる話でもあり、元気な高齢者でいられることから、私は施設に頼る福祉政策にもヒントになると実感させられました。 

上高地1日目 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47506587.html

上高地2日目 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47508006.html

上高地3日目 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47510130.html

上高地4日目 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47512940.html

こんな環境で4日間を過ごしました。

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横井庄一さんと母親が新聞一面に

2013年08月06日 00時20分51秒 | 日記

 7月30日の中日新聞一面に、「横井庄一さんの戦死公報信じず」と題した記事が掲載され、戦死公報を受け取った横井さんの母親つるが、「まだ生きとる」と死んだことを否定し続ける一方で、お寺に立派なお墓を建てたり、我家の隣のお寺に永代供養を依頼していたことから、息子が死んだとは認めたくないものの、周りで多くの戦死者が出ている現実から、死んだと思うしかない複雑な心境が記されています。

 横井庄一さんは生後なもなく母親の離婚によって、母親の実家である我家に連れてこられ、当時は出戻りでは田舎にはおり辛く、母親は奉公先に住み込んで働いたため、母親の姉(私の曽祖母)と娘2人(私の祖母たち)の3人と、我家の大鹿庄一として小学校5年生まで生活しました。
 
 母親の再婚によって横井家に入ったものの、義父以外の親族には辛くあたられ、やっと洋服屋として独立したものの、戦争によって満州からグアム島に転戦し、昭和47年まで帰国できず、帰国したときに母親は他界していました。
 
 新聞記事にも記されていましたが、息子が戦死して横井家の後継者が無くなり、頼りとした夫も亡くなった中で、親族からいじめられ、追い出そうとしたり資産を狙う親族の横槍に、「息子は生きている」という一言が封印し、生きていると信ずることが生きて行く活力になったと私は推察しています。
 
 グアム島のジャングルで28年間も自給自足生活をしたことで、横井さんを逞しい野蛮人のように思われる人も存在しますが、現実には寡黙でしんの強い女性のようなタイプで、それとは逆に母親は大柄で声の大きい男勝りの性格でした。
 
 そんなことから、息子を連れて横井家に入りこみ、戦争で戦死した公報が届いた中で、夫も亡くなった当時の話では、親族に厳しい罵声や嫌味を言われ続け、頼りは所持するお金だけとなり、そのお金で私の叔母(故人)を養子に迎えようと騒動も起していました。
 
 「庄一は行きとる」の一言は、誰もあてにできない母親の生きていく活力になり、子供の頃から出戻りの子供として学校や横井家でイジメられ、耐えることに慣れていたことも横井庄一さんがグアム島から生還する力になったと思いますが、「母親が待っている」との一念も生きる活力になりました。
 
 学校や親族にイジメられと記しましたが、私の住む大鹿家では横井さんの従兄弟となる私の祖母たちが可愛がって生活しており、私の父親たちにとって横井さんは頼もしい兄貴分のような存在でした。
 
                      (下記は横井さんによる幼少時の記録です)
 の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
 私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 
 
 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
 「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません。
                                    横井庄一手記「明日への道」から
 
 私にとっては、高校生になって突然出現した親族ですが、私の学生時代に家内と出来ちゃった結婚については、横井さんが私の両親を説得しただけでなく、家内の在所に出向いて両親に謝罪してくれ、夫人とともに結婚式の仲人も務めてもらいました。
 
 今回の中日新聞の記事についても、横井さんの幼少時の苦しかった生活や、我家の苦難の時代については、夫人や第三者にも語っておらず、当時を知っている親族が亡くなってしまったことから、横井さんから幼少時の話を聞いているのが私一人になっていたことから、母親と2人の写真が新聞の一面を飾ったことで肩の荷がおりたように思います。私の名前と、隣の住職も、新聞の一面に名前が載ることも、これが最初で最後になるでしょう。

 

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