寛永通宝の
2018年 2月19日 私の記した一言です。
お寺で人が殺されたり、人々が普通に生活する場所で切腹する残酷な歴史が数百年前は普通に行われており、私の住む津島市に近い七宝町にある「桂の六地蔵」についても、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたと言われています。
この蟹江合戦についても、織田信長が本能寺で倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いですから、信長や秀吉の出身地である愛知県の尾張地方でも残酷な殺し合いが行われていたことが判り、三男の信孝を秀吉と一緒になって切腹させた次男信雄も、徳川と連合を組んで戦っていることを考えると、小汚い秀吉や家康に対して兄弟が多い織田信長の子供たちが団結して信長の意思を継承して欲しかったと思うのは私だけとは思えません。
我家の住む土地から4キロしか離れていない場所で生まれた信長や、歩いて2時間の距離に生まれた秀吉の声が聞こえそうな年齢まで歳を重ねたことも実感するようになりました。今から1200年前の空海の声が聞きたいと四国の僻地を訪れているだけに、400年前の信長や秀吉の声が聞こえそうに思えても不思議ではありませんね。
自宅で五平餅を焼きました。
21年11月29日
中山道上松宿 中村の五平餅
長野県木曽郡上松町大字小川 (,寝覚) 2443-1
電話 0264-52-2183 10時~17時(時期により異なる) 定休日 不定休 |
3個分入っていました。
↓↓ 過去の五平餅や団子の記事一覧です。↓↓クリックしてご覧下さい。
昨年夏から訪れた奥三河や木曽路の五平餅の中で、私の身勝手な評価で最高点をつけた旧中仙道上松宿にある「中村」で、11月末に購入して持ち帰った真空パックの五平餅でしたが、店内で食べた味と遜色ない柔らかい焼きあがりになりました。
かつて、お土産の五平餅を自宅で焼いたことがあり、餅の一部が煎餅のように固くなった記憶がありましたが、レシピにあった電子レンジで温めたためか、近くの街角のスーパーで売られる五平餅よりも柔らかく、自分好みに焼いたため香ばしくなりました。
もっとも、購入してから時間は経過していたものの、餅は真空パックで保存され、タレも容器にテープを巻いて密封してあったため、餅さえ店と同じ食感になれば、タレは本職の自家製のため美味しくて当たり前なのかもしれません。
近くのスーパーで売られている普通の五平餅より美味しいことは間違いがありません。
1月19日の一言
私が戴いた書
現在は三男の接骨院に掲げてあります。
平成元年(1989年)9月発行のふるさとアサヒ第10号
私が編集発行していたミニコミ紙です。
昭和51年文部大臣就任祝賀パーティの1枚
津島青年会議所のメンバーと
平成2年1月のふるさとアサヒ第13号
懐かしい顔です
議員時代 箱根のホテルで夕食に招いていただきました。
朝日新聞社の看板記事「天声人語」
朝日新聞の天声人語を執筆する論説委員Yさんから横井庄一さんの取材を受けました。
創刊140周年にびっくり
私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。
なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。
その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。
その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オーシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません 横井庄一手記「明日への道」
「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。
世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。
グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。
現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。
1月7日の一言