中年男のエレジー 郷愁

yahooブログとの交差点にしたいと開設しました。ヤフーブログ終了により、アメーバとライブドアから発信を始めました。

讃岐・七ヶ寺まいり

2013年02月27日 01時38分35秒 | 遍路
古来より、四国八十八ヶ所各霊場第71番札所から第77番札所までの7ヶ寺を一日で巡拝する「七ヶ所まいり」という参り方があります。「四国八十八番寺社名勝」という絵図に「足よはき人は 此印七り七ヶ所をめぐれば 四国巡拝にじゅんずといふ」と、この「七ヶ所まいり」を勧めてもいます。この7ヶ寺には、皆様をお守りくださる本尊様がお祀りされており、お大師さまと共に「同行二人」の信仰をもって巡拝されると福運が授かるといわれています。
 
      讃岐屏風ケ浦・七ヶ所まいり http://www.zentsuji.com/nanakasho/
 
 添付した案内の中に、約16キロと紹介されている事から、これなら日頃から不摂生な生活をおくる運動不足の自分でも歩けると、第71番札所から第77番札所までの7ヶ寺を歩いてみました。平成23年11月1日の顛末記です。
 
 車を道の駅「ふれあいパーク みの」に置いて、第71番弥谷寺を目指しますが、ここで一日歩くために必要と思われるタオルなどをリュックサックに詰め込みます。 出発は8時半
 
 意外に忘れ物があり、弥谷寺の本堂に参拝した時に賽銭と数珠を車に忘れている事に気づき、納経所で輪袈裟をかけていない事が判り、車に戻った時にカメラを置き忘れていた事と、私の身体にとって一番重要な血圧の薬を飲んでいなかった事が判りました。気を取り直して再度参道(石段は本堂まで530段)を登ります。
 
 第71番弥谷寺については、かつてはこの道の駅の隣にある駐車場から徒歩で登っていましたが、最近は車で途中まで登れるようになった事から、参門から上って行く人は少なく、参門前にある茶屋も久しぶりに通ります。
 
 もっとも、ここから歩いたことで、竹と竹が重なって「ギー、ギー」と音を奏でる事や、風の香りまで実感できます。
 
 第72番曼荼羅寺までは細々とした山中の遍路道を下り、途中で日頃は高速で走りぬけていく国道11号を歩き、途中からは車遍路と同じでしたが、約3、8キロを1時間ちょっとで到着します。
 
 第72番曼荼羅寺と第73番出釈迦寺までは300メートルしか離れておらず、車よりも駐車する手間がかからないために歩き遍路が先行して到着してしまいます。
 ここは弘法大師が7才の時に山から身を投じたと言われる奥の院『捨身ケ嶽禅定』がありますが、先が長いため省略(往復2時間はかかります)です。
 
 ここから第74番甲山寺までは約3、2キロあり、ガイドブックで徒歩50分となっていますが、ほぼ車遍路と同じ道程です。ここから第75番善通寺までは1、4キロとなっているものの、あっと言う間に到着です。
 
 善通寺に到着すると、偶然にも記念写真を撮影する広瀬さん(写真屋さん)と出会い会釈したものの、菅笠をかぶって疲れ果てている歩き遍路を私とは認識されず、話し込む体力も時間もムダにできないため、幸いとして通り過ぎます。
 
 時間はここで午後1時となっていましたが、食欲は無く水分補給だけで十分です。本来は本堂から大師堂の順に参拝しますが、本堂の広大な善通寺を2往復するのは辛いため、御影堂(大師堂)から本堂に参拝してそのまま第76番金倉寺に向います。
 
 車では判りやすい簡単な行程ですが、地図を見ながら昔からの細い遍路道を進んだところ、途中で何度も道を見失い、電柱に張られた進路を示すシールを見つけて歩いていくと、最後には進路が左右両方を示しており、結局は現地の人に聞きながら歩く事となりました。
 
 この頃には足が痛く、道路の信号が変わっても走ってわたる脚力もなく、はるか遠くに金倉寺が見えるものの、一向に距離は縮まらず、やっとのことで到着しましたが、迷って遍路道を探すよりも、自分の知っている道を歩いた方が効率が良く、この間は歩道がある事から安全です。
 
 ここから第77番道隆寺までは約4、5キロで、案内によれば徒歩で70分となっていますが、足が痛んで棒のようになっており、「ここが最後だから」を連呼して進むものの、一向にたどり着けません。
 
 まもなく道隆寺という所で、背後から大きな声で、「お遍路さーん」と繰り返しながら、手を振って人が追いかけてきます。
 
 手に握っておられたのは手作りの「お地蔵様」の焼き物で、息子さんの手作りを歩いて巡拝する人が通る度に渡しているとの話に、追いついてきた息子さんの顔を見ると、私の緩んだ涙腺が氾濫しそうな危機です。こんな嬉しい場面は車遍路にはありませんし、疲労でヘトヘトだった身体にエネルギーが補充されました。
 
 「頼むから住所と名前を教えてください」と手帳に書き込み、私の納め札を手渡して別れましたが、この善意を貰いっ放しにはできません。 
※写真は道隆寺の近所で、焼き物を頂いた松井さん親子です。掲載する事も伝えてあります。
 
 そうして最後の道隆寺に到着しましたが、そんなことのあった後だけに、正面から見る光景ははじめて見るように新鮮です。
 
 納経所で朱印をもらい、七ヶ所まいりは終わりましたが、ここから車を停めている弥谷寺まで戻るのは大変な旅程となり、多度津駅から電車を使って戻っても善通寺駅からは大変な距離になる事から、私は観音寺行きに乗車し、海岸寺駅で降車し、別格二十霊場第18番海岸寺に参拝してから戻るコースをとりました。
※菅笠をかぶった白装束のお遍路として電車に乗るのは初めての体験で、女子高生と一緒に緊張して乗車しましたが、四国では自然の風景で誰も奇異の目では見ません。
 
 海岸寺に参拝して朱印をもらったのが午後5時で、すでに薄暗くなっており、夕陽が沈めば真っ暗となるのは必然ですが、住職から、私の歩こうとしている近道は山道のため迷って危険と言われ、「2時間はかかる」と言われる車が連なる国道を歩き、行程は約6キロ弱で途中からは坂道を登っていく事となりました。
 
 ここからが大変で、歩いても歩いても距離は延ばせず、真っ暗になったために大きな標識はあるものの、車が来てライトを照らしてくれないと全く見えず、過去の巡拝で予想はできるものの、間違えて下ってしまえば戻る体力もありませんから、車が来るのをずっと待って看板を確認しながら、車に到着した時には午後6時半になっていました。
 
 真っ暗な茂みから獣の唸り声も聞こえ、捨て犬である事を願いながら、この近くに私の親しい人が住んでいる事から、何度も救いを求めたい気持ちがよぎりますが、自分が自ら決めた事と苦痛に顔をしかめながらの到着です。
 
 反省は靴が悪かった事と、リュックサックに不必要な荷物を詰め込んだ事から重く、朝の出発が8時半であったものの、準備不足で忘れ物を取りに引き返すなど、あと1時間早く万全に出発しておれば、沖に浮かぶ津嶋神社の背景となる瀬戸内海に沈む夕陽もゆっくりと見られたと思います。
 
 簡単に考えていましたが、「四国巡拝にじゅんず」と宣伝されているだけあって、久々に身体に堪える苦行となりました。
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上高地 世界の交差点

2013年02月24日 00時31分35秒 | 上高地

 
 
 
 
 
 
 
 
 
小梨平から見る北アルプス穂高連邦と「世界の交差点主人」の渡辺勝夫氏 
 
 住まいから顔を出すと清々しいカラマツ林があり、林を通りぬけると眼前には日本アルプスの銀嶺の山並みが壁となっており、足元には汚れを知らない梓川の清流が押し寄せてくる。この地で穂高連峰や焼岳をはじめ上高地を描き続けて半世紀となる人物が存在する。
 
 その人物は、小梨平にテントを張り、河童橋のたもとに油絵のキャンパスを立て、一年間の大半をこの地で絵の具を塗り続け、出会った人々との縁を大切にして会話に花を咲かせています。 
 一度は訪れてみたい上高地。訪れた方には是非とも足を運んでいただきたい場所がここにあります。
 
 上高地には番地が無く、観光と仕事で滞在する人はあっても住民は一人もおりません。
 
 しかし、この地に1年間のうち100日は滞在して油絵を描き続けているのが千葉県旭市の渡辺勝夫さんです。
 
 自分の仕事を後継者に任せ、小梨平のテントで生活して穂高や焼岳を描き続け、「ホームレスの画伯」として、上高地を訪れる人々の人気者となっています。
  現代版「仙人」とも言うべき夢のような生活を続けられる画伯をうらやましく思いますが、雷雨や台風もあり、よほど上高地が好きでないと居れません。
 
 こんな生活が続くのは、画伯が人一倍社交的で、誰とでも気軽に話しかける性格にあり、上高地を訪れる人々との会話が交遊に発展し、住所番地のないテント宛に全国から手紙が送られてきます。
 
 「松本市上高地」の住所と、「渡辺画伯」の名前だけで、「テントなんかに郵便が届くはずがない」と思うのが世間の人々の常識ですが、そんな常識を覆す非日常的な世界が上高地にあり、我々を待っていてくれるのが「世界の交差点」と渡辺画伯です。 
                 
 上高地公式ウェブサイト      
            http://www.kamikochi.or.jp/
 
 上高地のイベントスケジュール 
        http://www.kamikochi.or.jp/events/
 
 北アルプス山小屋交友会 
          http://kita-alps.yamagoya.gr.jp/
 
  松本市公式サイト「新まつもと物語」 
 
  高山市観光情報  http://www.hida.jp/
   
 
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鶴田浩二の唄に代役はない

2013年02月22日 15時44分09秒 | 日記
 テレビ東京の番組で「木曜8時のコンサート2時間スペシャル」が今夜放送され、小林旭さんや西郷輝彦さんの懐かしい歌声を聞きながら久しぶりにのんびりとしていました。
  しかし、画面に作詞・宮川哲夫、作曲・吉田正のテロップとともに、「街のサンドイッチマン」の曲名が紹介され、タンタン、タララララ、ララララララララ、タンタン、タラ…と懐かしい演奏が始まったまでは良かったものの…
 
 「お父さん、良かったねー」
 「なァに、がー」
 「歌ってもらって」
 「何を言っとるんだー×××」
 
 歌うのは私が生涯のファンとなる「鶴田浩二」さんではなく、渥美二郎なる演歌歌手ではないか。昭和28年に発売された曲ではあるが、この歌を歌うことを作曲者の吉田正さんはどう思い、何よりも鶴田浩二さんはどう思うのか。難しい著作権とか、法律は許しても、似ても似つかぬイメージで歌われては鶴田浩二さんのために作られた曲ではなくなってしまうではないか。
 
街のサンドイッチマン http://www.youtube.com/watch?v=p_Pc9hGe-m8
 
 「映画俳優の鶴田浩二でございます」…鶴田浩二さんがステージで歌う場合に必ず冒頭に挨拶した一言ですが、この一言を巡って鶴田さんは吉田正さんと大喧嘩をし、歌についてはプロとしての厳しさ、難しさを熟知していたことから生涯貫きとおした哲学でもありました。
 
 街のサンドイッチマンについても、昭和28年に吉田正さんがビクターのスタジオで「これはダメな曲だ」と断って弾いた曲であったが、この曲を聞いた鶴田浩二さんが「この歌はいい歌だ」と宮川哲夫さんの詩の一編を気にいって引っ張り出し、「さすらいの湖畔」のB面で発売されている。
  鶴田浩二さんにとっては代表作となるこの曲も、すぐには人気がでず、発売された翌年になって当時のサラリーマンの心理と重なり合って大流行し、翌年の「赤と黒のブルース」から31年の「好きだった」の大ヒットにつながっていきました。
 
 「酒でも飲んで少し砕けろや」との鶴田さんの一言が、それまでほとんど酒の飲めなかった吉田さんを変え、「大衆歌謡は、書斎に閉じこもって書くものではない。絶えず世の中に肌で接していてこそ書けるものなのだ」と、この曲の誕生が作曲家の人生も変えていきました。
  曲の誕生秘話については、大学の後輩となる杉井輝応さんが、平成9年に発行された「鶴田浩二」に詳しく記されているが、作曲家の吉田正さんと俳優の鶴田浩二さんが酒を酌み交わしながら世情とともに誕生して披露されたもので、鶴田さんの曲は映画の主題歌となっている例が多く、映画のイメージにも影響することから、プロの歌手であっても、金(ギャラ)をもらって人々に歌って聞かせられるものではなく、金を払ってカラオケで歌うしかないのである。
 
 現実に、吉田正さんや鶴田浩二さんが現存していたら、絶対に渥美二郎がテレビで歌って聞かせることはできなかった曲で、「歌は人間の心を伝えるものだ。人間の肌の温かさを感じさせるものだ。生身の人間の愛おしさを感じさせるのが歌だ」と語っていた鶴田浩二さんしか表現のできない曲でもあり、本日の歌声には寂しさとともに、怒りが込み上げてきました。
  少なくとも渥美二郎が、杉井さんの「鶴田浩二」を熟読しても、鶴田さんの曲を歌えるのかを知りたいものですが、何でもかんでも現役で、しかも、盛りの過ぎた歌手が歌う必要もなく、当時の映像と鶴田浩二さんの実声を聞くしかないのである。
 
 ただし、久しぶりに、鶴田浩二さんのことが家庭の話題となり、家内は「勝手に言っててよッ」とかなり立腹のようですが、過去に記した一言に添付したユーチューブが無効になっており、改めて添付してテレビの前で(車内では毎日聞いております)唄声を聞けたことには感謝です。
                                  2月21日の一言
 
名もない男の詩  http://www.youtube.com/watch?v=df2PokRsRps         
 
                                       ヤフーブログからの転載です
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