感想!

主として社会情勢に対する感想。

学級経営といじめ

2006-11-24 09:23:14 | Weblog
今朝のテレビに注目すべきニュースがあった。
教師は「生徒と同等」。というスタンスで学級経営を進めているクラスには学級の中にいろんなグループが出来易くいじめが多発するという調査報告がある。
と告げていた。「馴れ合い」は危険ということである。

評論家の皆さんはよく管理しすぎるからいじめが起こるといってきたが、その非難は当たらないことがはっきりしたのである。少なくとも教師は教師らしくないと学級崩壊が起こるということだ。
生徒と同じ立場に立つことが民主的で人権尊重の上からも望ましいことと考えられてきたが、この神話が崩壊したのである。

考えてみればそれは当たり前のことで、なぜこれまでそのことに気付かなかったのか不思議である。

動物の世界に教育のヒントがあるのではと前々から思っていたことだが、学級は一つの社会だ。
サル社会を想起されると分かることだが、サル社会は必ずボスをつくる。さもないと秩序が保てないからだ。
老いたボスが力をなくし新しいボスが決まるまでの期間はサル社会は不安定でアノミー状態に陥るのだ。
それもしばらくの間で、新しいボスが集団に受け入れらる瞬間からもとの平穏な状態を取り戻すのである。

人間社会もこの点は同じだ。どんな集団にもボスは存在する。それ故にその集団は集団として機能するのだ。
一般社会の規範と集団内の規範は重複する部分もあるが独自のものも作られる。そこでは一般社会の規範よりも集団内の規範が優先するのである。こうしてその集団は維持されていく。

そうしたことに照らせば、教師が学級の中でボスであらねばならないのだ。そのためには教師には力が必要だ。
それは権威であり権力である。ときには腕力が必要なときがあるかもしれない。これらの力を教師は自ら放棄すべきではないのだ。教師であるからにはむしろそれは許されないことである。
いずれにせよ秩序無きところには平穏や自由や平等も存在し得ないのである。

教師よ強くなれ!そうしたエールを送りたいと思う。頑張ってください。

何かがおかしい

2006-11-16 09:51:17 | Weblog
学級崩壊、いじめや自殺、青少年の非行。公務員の頻発する不祥事、知事や警察官までもが逮捕されるという事件まで。
職場の要職にある人の相も変わらぬ性的行為、盗撮。親の子殺し、子の親殺し。・・・
ほんとに世の中おかしい。後先考えない衝動的・刹那的行動はいったいどういうことなんだろう。
何を意味しているんだろうか。このままでは日本は完全に崩壊する。

斯くも抑制力の無い人間がどうしてこんなにも多く発生したのだろうか。
夢や希望、人生の目的が持てないからだろうか。どこに原因があるのだろう。

限りなき自由な社会、人権尊重社会。
高度な福祉社会。
格差社会。
現代社会の諸悪の根源はきっとこうしたものの中にあるに違いないのだ。

現代社会は刑務所の中にあっても受刑者の人権は尊重されるというし。
子育ては社会が遣ってくれるし。
職に就かない人たちでもなんとなく食っていける。
援助交際は低年齢化し。小学生でもピアスやお化粧をする。携帯電話はところかまわず。
人権団体はいまや社会の最大の権力者、関係者の名刺は黄門様の印籠に匹敵する。
世の中狂っている。どこかがおかしい。

思考するうちに「建前と本音」ということに行き当たった。
政治は建前で行われる。法律は建前で作られる。
男女共同参画社会基本法がその典型的な見本である。この法律の成立に建前では反対するのが難しかったから、しぶしぶ成立させてしまった。後の祭りだ。この法律によって世の中が着実に悪い方向に進んでいるのは確かである。
こうした法律はほかにもたくさんある。
老人福祉法、介護保険法も悪法だ。老人は社会が面倒を見るという方向性を家庭に植えつけた。
家庭の絆を喪失させるという点で悪法という以外に言いようが無い。
理念なき政策、行き当たりばったりの政治が社会をどんどん悪くして行く。
今日教育(しつけ)は家庭で遣れというが家庭崩壊の方向に政治は向いているのだ。
子育ての基盤である家庭はすでに崩壊しつつあるのだ。いや崩壊している。
家の中にあって自分のことだけを考えればよい。家族のことなど思わなくてすむ社会になったのだ。この傾向は益々強くなって来ている。

限りなき自由な社会、人権尊重社会。高度な福祉社会。これらはほんとにユートピアなのか。
何の前提も考えないで無原則にこれらを追い求めると、とてつもなく不安定で危険な社会が到来すると思うのである。
他人を尊重するという前提は最小限必要である。

遠い昔からどこの世界にあっても人々は、掟とか定めとか今日で言う法律に類するものに縛られその枠内で平和を享受してきたのだ。

しかし現代社会においてはマナーとか道徳はとうの昔に消え失せて自由や人権が法律を超えて求められる時代になってきている。
家の中でしか出来なかったようなことを外で平気に行えるという風潮である。
下着ルックや臍だしルックさえ誰も咎める者は居ない。傍若無人な振る舞いもルールを守らない行動も身なりの自由さの延長上にある。
そう思えて仕方ないのである。原則なき社会それが現在の社会なのである。
自由や人権の思想はもっと高級な人間社会におけるユートピア思想なのではないだろうか。
そう思えてならないのだ。
人間には行動に対する枠がどうしても必要なのだ。その枠を超えると有無を言わさず罰せられるというそうした規範なり法律が求められる。
長い人類の歴史はそう教えているのである。


いまどきの学校

2006-11-08 17:54:46 | Weblog
いまどきの学校
昨夜のTV で想像以上にひどい状況にあることを知った。子どもは傍若無人。おとなしくしていると思えば携帯に夢中。生徒におもねる教師。彼らには覇気も権威のひとかけらも見られない。
こんな学校を正常化するにはどこから手をつけていいのか。大方の大人は途方に暮れてしまうだろう。

ここまで荒廃したのは、やはり「自由」や「人権」に対する大人のいい加減さ・ご都合主義が背景にあると思わざるをえないのである。

自由や人権はいわば人間の性善説に立脚した高尚な思想である。ところがそれは秩序や道徳の共有が前提に無い社会ではとてつも無く悪思想に変身する。せめて宗教に力があれば人はそれほど野蛮にはなれないが。
しかし現代社会においては宗教はいまや無力である。だから自由や人権は人を際限なく野蛮に駆り立てるのである。

秩序は力により道徳は教育により生み出される。自由や人権は生来「その力」を排除しようとする。
「その力」とは権力や権威である。

権力や権威をむやみに排除する運動にわれわれは与してはならない。人を野蛮にしないためには最小限の権威や権力は認めなければならないのである。

学校の正常化には「生徒を服従させる力」をまず教師に付与しなければならない。世の大人たちはそれをあたりまえのこととして承認しなければならない。
つぎに皇室を敬うことから権威を教えなければならない。国旗を大切に思う心を養うことを通して公共心や公徳心を育てるなどすることが必要である。

教科内容を考えることも大事である。しかしその前に遣らねばならない、取り組まなければならないことがある。
そのことを上で述べたのである。