感想!

主として社会情勢に対する感想。

止まる人間は危険

2004-11-28 10:13:42 | Weblog
生きるということは止まらないことなんですね。
「止まる」と「止まらない」では われわれの想像を超えたちがいがある。
「止まる」人間には要注意です。
たむろする人間 閉じこもり人間 よい子すぎる人間 は危険です。
共通点は人間としての営みが止まっているということ。
かれらはいつキレルか分からないという意味で危険です。
ごく最近あった2件の親殺し家族殺しにもこうした傾向をみることができます。
断っておきますが危険というのはあくまで可能性をいいます。

事件があると決まってシグナルを見落としてはいなかったかが問題となります。
人間としての営みが止まっているのは重要なシグナルです。
止まる人間への対処は、そうした状況を認識できた時点で、家庭内の問題として
封じ込めないで周りの人に相談し協力を仰ぎ改善への努力をすることが大切です。


社会学においては次のようなことも言われております。
求めるものがすぐ手の届きそうな環境にある者はそうでない者と比べると不平不満
が多い。俗に言えばキレやすい。
このことはたとえば金持ちで大事に育てられた子ほど沸点が低いことを意味します。
あくまで一般的なはなしとしてですが。

生物学において言われていることに、
個体発生は系統発生を繰り返す。と、いうのがあります。
胎児は母の体内において進化の過程を再現しながら成長すると言います。
何かの事情で進化の過程がたどれなかった場合障害がでる可能性があるということ
を意味しています。
これは子どもの成長過程においても同じようなことが言えると考えられています。
たとえば反抗期にそれが出ないというのは歓迎すべきことかどうか疑問だと
いうことです。
前述したようによい子すぎる子はそれなりに心配であるといえます。

ゆとり教育がこのところきつく批判される理由の一つがここにもあるのです。
必要になったときに勉強すればよい。これがゆとり教育の主張です。
これはまったく成長過程というものを無視した主張で、学力の問題も然ることながら
沸点の低い子を育てることになるという大変な問題を孕んでいるのです。

権威が学校には必要

2004-11-13 09:36:41 | Weblog
日本史を鳥瞰するとき、権力と権威の分離がなされたのは鎌倉幕府ができたときである。
それまでは人民支配は土地支配とイコールであった。支配者はいうまでもなく天皇を
頂点とする公家階級であった。
鎌倉幕府は彼らから土地支配権を奪ったのである。これ以降、人民(精神)支配は権威
によるが、土地(物)支配は権力によることとなった。
この支配の二重構造は鎌倉幕府の内部においても同じであった。
鎌倉幕府(頼朝)には直轄領地も直属の軍隊もなかった。あったのは北条氏の領地と
武力だけだった。頼朝は権威と政治力(「名簿提出」と「本領安堵」)のみで天下を制
した。軍団が必要なときは号令一下、「いざ鎌倉」の体制を作り上げたのであった。
この武力によらない政権というものは、以後の日本歴史の特徴となるのである。
この形は
室町期、江戸期においてもそうであったし、明治維新の変革期を経て、現代にまで連綿
と続いている。

さて教育問題であるが。日本人の血の中には、権威にはよろこんで服するという精神が
脈々として存在していることをご理解いただけたであろうか。
要するに権威は、自発的服従心を醸成するのである。
ところで人間には、また、自己の拡張欲・変革を願う「人間の本性」というものが存在
する。それは「努力」や「競争」、その結果結実したものを認めてもらいたいという心
の存在があるということである。
すなわち、自発的服従心や営為の結実を無視して人を従わせることはできないのである。

整理してみよう。
権威の存在があり、その権威が競争と競争の成果を認めてくれてこそ人は動く(従う)
のである。

「戦後民主主義教育」は権威を排除した。その副作用は自発的服従心をも消滅させた。
その結果、学校や教師の命令は奴隷労働の苦痛を強制するものと受け止められるように
なった。
子どもにとって学校は無間地獄と化してしまったのだある。

今日の学校の荒廃は、その主原因が権威の喪失にあることは間違いない。

権威はよろこんで命令に服させる力であり、権力はうむを言わさず命令に服従させる力で
ある。
歴史は権力が時を肥やしに権威を醸成することも教えている。
それは「事実の規範力」というものによる。「斯くある」はやがて「斯くあるべし」と
いう力を持つようになるということなのである。

学校は権威を回復しなければならない。よき「斯くある」の事実の積み重ねが大切なので
ある。
伝統を大切にするとはそういうことなのである。



元号について

2004-11-08 09:46:10 | Weblog
元号か西暦か。が、よく議論される。
私は二者択一の論には反対である。
西暦主義者は、元号は天皇に関係する(天皇制を承認する)年号だから
人権主義者なら、これを用いるべきではないという。
ここで人権主義者とは、天皇制を否定することでもって個々の人の真の
人権が保障される社会が来る、とする人たちのことである。

天皇制の是非を私はいま論じるつもりはない。

ただ、西暦のみを用いるとなると歴史の学習を非常に無味乾燥なものに
するだろう。
元号にはそれぞれの時代を特徴付ける「風」があり、歴史の学習におい
てはこの風を感じる・汲み取ることが特に大切なのである。

もし西暦オンリーということになれば、それこそ彼らのよくいうところの学習
権の保障を侵害することになりはしないか。
また、そのことは歴史や文化を否定することになりはしないか。

道徳教育は人権教育で代替できない

2004-11-08 06:41:28 | Weblog
人権学習(人権についての授業)に熱心な教師ほど道徳の授業に対す
る関心が低いのはなぜだろうか。

それは過去の修身を思い出させるというだけの理由によるのだろうか。
どうも道徳に対する誤解や偏見があるように思えてならない。ときに
道徳に対する悪意すら感じるのである。
 
人権は法に依拠しており、侵害があれば法的強制力をもつて排除され
る。
一方、道徳はそれを守らなかったからといって罰せられたりすることは
ない。これはだれでも承知していることである。
であるから、法的な存在である人権には価値を認めるが、そうでない道
徳には価値を認めないとでもいうのであろうか。

勝手に想像するのであるが、おそらく儒教に根ざす道徳に封建的なも
のを思い、フランス革命以降世界を席捲した人権思想に近代的な解放
感を抱いている。と、いうことであろう。

もしもその辺に道徳をやりたくないという根拠があるとすれば、それは
学校の教師の姿勢としては好ましいことではない。

「教員は全体の奉仕者であり教育は普遍的なものであらねばならない」
からである。
個人的な主義主張は許されてはいないのである。

そもそも、道徳は個人や社会、また自然との付き合い方の知恵である。
人権はいわば個人や社会から受ける害(攻撃)に対する防御装置である。
このように道徳と人権は本質的に違うものなのである。

今日の、いじめ問題、環境問題を見るとき、道徳教育の必要性を強く感
じるのである。
道徳教育に期待される内容を、人権教育で可能であると考えるものがい
るとすれば、それはとんでもない間違いである。
 
いま道徳教育と人権教育の価値の優劣などを詮索しているのではない。
人権教育と道徳教育は互いに補完し合うものであるとして、ここでは論
をすすめたい。

とはいえ、少なくとも小学校においては、しつけ教育に重点を置く道徳
教育がなされるべきであると考えている。
低学年の児童・生徒に人権教育のみを行うと、かえって、いじめ問題は
深刻なものになると思えるからである。
なぜなら本来的に人権なるものは、本能的なものであり、そもそも自分
本位なものだからである。

人権と被害者意識は表裏をなすものであり、被害者意識を増大させるこ
とは本能のレベルで強い攻撃性を醸成することになるのである。

人権教育に、その意識はなかったかもしれないが、それをやってきたわ
けである。
判断力や抑制機能の未発達、未成熟な子どもにとって、それは使用法
を知らない兵士に重火器を扱わせるようなものである。
教室や学校の秩序が保てないという大きな原因は、こうした教育の間
違いがあるように思われてならない。

道徳教育と併せて人権教育のあり方についても、しっかりと考えてみる
必要があるのではなかろうか。

道徳教育は人権教育で代替できないのである。



善意が庶民を苦しめる

2004-11-05 18:28:09 | Weblog
有識者とよばれる人たちの善意が庶民を苦しめている。最近では介護保険制度
や男女共同参画基本法の成立にそれを見る。
少しさかのぼると売春防止法による赤線の廃止や少年法の制定による少年の保
護がある。
他にもあるだろうがテーマを象徴するものとしてこの4つを挙げてみた。

①介護保険の適用を受けている人が数にしてどれほどあるのだろうか。介護保険
事務関係で働いている人の数と適用を受けている人の数の比はどうなっているの
か。
わたしの周囲を見回してみて事務関係の人の数のほうが多いように感じているの
だが実際はどうなのだろう。
介護保険制度を維持するための人件費に庶民が納めた介護保険料が多く費やさ
れているというのでは庶民としては納得できない。しかも昇給制度がある限り人件
費は年々膨れ上がる。そして介護保険料がまた増額される。そうなるともはや福
祉の完備などといえる代物ではない。庶民を苦しめるだけのシステムといわざる
を得ない。

②男女同権を旗印に男女共同参画基本法なるものが作られた。これは
後にだんだん分かってきたことだが、革命思想家達の術中にはまった代物であっ
たのだ。それが証拠にこの法はジェンダーフリー運動の理論的拠りどころを担っ
ているのである。専業主婦を無能力者のように考える思想を秘めているのである。
家庭崩壊の思想の砦でもあるのだ。庶民にとって決していいものではない。
それどころか日本を衰退させる悪法なのである。

③赤線の廃止。きれいごとだけでできた売春防止法により実施されたものである。
結果はどうか。ご存知のように性道徳は地に落ちその道のプロと素人の区別がで
きないところまできている。いわゆる援助交際の蔓延で外国人に日本女性は総売
春婦だと言わしめているのである。性感染症(性病)は一般家庭のなかにも入り
込んできている現状をどう思いますか。売春防止法はこれまた亡国の悪法なので
ある。赤線復活論も決してタブー視すべきではないのだ。

④凶悪犯罪を起こす少年たちは少年法でまもられている。
無残に殺されたものよりも生きている極悪人に手厚い保護とはだれが考えてもお
かしい話ではないか。それが少年であろうとなかろうと関係ないのだ。

有識者という人たちの考えは庶民の考えとあまりにもかけ離れている。
大雑把ではあるが以上4つの例に見るように有識者任せは危険である。そのことを
庶民は認識すべきである。

有識者といわれる人たちも善意でいろいろ一般庶民のために尽力してくださった
に違いない。そう思いたい。
そこで有識者諸兄にお願いする。
結果がおかしいとなれば勇気を持ってそれを是正することをやっていただきたい。
ぜひお願いしたい。

さもなければ日本は滅びてしまうであろう。





人権の主張は時代遅れ

2004-11-03 16:56:48 | Weblog
人権の主張はもはや時代遅れになりつつある。それは「より悪い形」で自分にかえって
くるということに世間が気づき始めたからである。
学校現場で数十年にわたり人権教育として行われてきたものはすべて間違いであった
ということである。すなわち
強制は人権侵害である。
競争させることは差別である。
男女を区別することは差別である。
相対評価は差別である。
国家を愛することを教えることは憲法違反である。
そうしたことが如何にばかばかしいことであったかがここにきて明確になってきたの
である。
そのことを世間が理解するようになったというわけである。
ここに来るまでにあまりにも時間がかかりすぎたことは否めない事実であるのだが。
そのことにおいて、
何が意識を変えたのだろうか。
国際的に見た学力の低下。
未成年者の犯罪の凶悪化。
拉致事件の顕在化。
国旗国歌をめぐり学校でおこったさまざまな事件。
アメリカで起こった9.11テロ
イラクへの自衛隊派遣。
繰り返された謝罪外交。
中国韓国が執拗に迫る歴史認識(靖国)問題。
中国の強行(やりたい放題の)外交。
革命思想(ジェンダーフリー)の蔓延。
次々になされる改竄された歴史の(裁判所による)認定。
等々。
をあげるることができると思う。

さらにいえば、
「人権の主張・福祉の要求は王政国家においては、王の持ち物を自分たちの持ち物に
するという形で実現が可能であった。
しかし民主主義国家においては、王の地位にあるのは国民自身であるからそれらの要求
は国民一人ひとりのの何かを犠牲にしなれれば実現可能とはならない。
(民主主義国家のシーソー構造)」
このことに世間が気づいてきたということであろう。

図らずもこの一文を書き始めたときに、
全国学力テストが近じか復活するというニュースを聞いた。
少なくとも強制・競争・相対評価はここに完全に否定されることになったのである。

最近幼児がおかしい

2004-11-02 18:02:00 | Weblog
[三歳児崩壊]  こんなことが最近ささやかれている。
なんでも、乳幼児期および児童期に「五感への正しい刺激」がなされていないのが原因のようだ。
以前から問題行動の低年齢化がいわれてきたが、ついにここまできたかという思いがする。

ちなみに30年も前から始まった問題行動を大雑把に時系列でみると、
「高校生の暴力犯罪等→中学生の不登校・引きこもり→小学生の学級崩壊→三歳児の落ち着きのなさ」
とまさに低年齢化が進んでいるのが一目瞭然である。

なぜ乳幼児期および児童期に「五感への正しい刺激」がなされないのか。そのわけは、
①母親が授乳その他子の世話をしない。②テレビが子どもの脳を破壊する。③環境ホルモンが
子どもの脳の発育を阻害する。④育児の社会化による親子関係の希薄化。⑤自由主義社会における
女性の人生観の変化。⑥現代社会における家庭崩壊。
等のことが考えられる。といわれる。

これらを具に検証するとき、それらの背景に「女性の地位の向上という社会思想」があることが
判るだろう。

それは具体的には、「権利の主張」と「福祉の要求」という形で表現される。

それらの主張・要求は王政国家においては、王の持ち物を自分たちの持ち物にするという形で実現
がなんとか可能であった。
しかし民主主義国家においては、王の地位にあるのは国民自身であるからそれらの要求は国民一人
ひとりの何かを犠牲にしなれれば実現可能とはならないものである。この場合、
己の子どもを犠牲にすることでもってそれらの主張・要求(女性の地位の向上)ははじめて実現できるということになるのである。

そうした構造を民主主義国家のシーソー構造といえば判りやすいかも知れない。

こうした国家や社会(シーソー構造のもと)においては、価値の優劣が非常に重要な意味を持つことになる。

さて現状はといえばすでに申し上げたように、
子どもや家庭よりも女性の地位の向上(「権利の主張」や「福祉の要求」)のほうが価値があるという結果になっているのである。


そこで問いたい。
老いた自分をだれに見てもらおうというのだろうか。いろんな福祉施設がつくられたとしても人間
の心をもたない人たちに見てもらうことになりはしないか。
また、そのときはたして国家は存続できるのか。

このようにみてくると、もっともっとわれわれは賢くなる必要がある。
そう思われてしかたないのである。

むやみやたらにする「権利の主張」や「福祉の要求」は、ともすれば己の地獄へも道を拓く結果になることを知らねばならない。