感想!

主として社会情勢に対する感想。

教育はどうあるべきか

2006-05-31 10:37:18 | Weblog
それを考えるには手順を踏むことが肝要である。
まず第一に、いかなる家庭・社会・国家を理想とするか。これが描けていないところに教育は始まらない。
教育の目的は何か、何のために何を目指して行うのかということを明確にしなければならない。
第二に、「こども観」についてのコンセンサスが必要である。それは何事をするにも出発点(前提)がしっかりしていないことには、目的を達成することは難しいからである。
第三に、「教育の手段・方法」である。世の中にはさまざまな思想や価値が存在する。その中で目的達成のために有効なものを選択するのである。
このことはそんなに大変なことではない。目的地(目的)と出発点(前提)がはっきりしているなら、この段階ではたとえばどの乗り物にするかというようなことを考えればいいだけのことになる。
以上のステップを踏んだ上でいよいよ第四段階に入る。第四段階は教育実践ということである。
教育者が教育現場で何をどのようにすればよいか。もはや迷うことはない。「何を」は「教えるべき内容」であり「どのようにすればよいか」は教育者の「とるべき態度」のことであるから。
「教えるべき内容」は国が示すだろうし(そうすべきだし)、「とるべき態度」は教育者が置かれている地位・立場の認識をちゃんと本人がしていれば問題はない。


以上に照らしてみたとき、現実の学校教育の中に問題点を見つけることはさして難しいことではないだろう。
すなわち、今日の日本の学校教育においては、前提となるべき教育の出発点が実にあいまいであったことに気づかされるのである。
欧米においては「こどもは野獣である、まだ人間ではない」。その前提で教育が始められる。日本は「こどもは無垢で善、神のような存在」が出発点になっているる。お分かりのように180度「こども観」が違っているのである。
日本では「こどもにも人権」がある、「こどもの人格」を認めるべきだ。などの議論があるが、そんな議論は欧米にあっては噴飯ものと一笑に付されるだう。したがって、欧米においては基本的なルールは強制的に押し付けられることになるのである。これは一例である。このようなわけで、「こども観」について日本も、いま一度見直し検討してみる必要があるのではないか。
目的地(目的)に関して言えば、記憶間違いでなければ、たしか「多様な人間を育成する」というようなことを文科省は奨励していたように思う。
この表現は実に不適切であるように感じるのである。なぜかというと、どんな人間が育ってきてもいいのだ、と受け止められかねないからだ。どうしてもこの表現は必要というのであれば、非常に限定的に具体的に示すべきであろう。

ここでは問題点のひとつふたつを指摘するにとどめるが、挙げればきりがない。
日本再生は教育に負う以外にないのだから、政治家は勿論、国民一人ひとりがしっかり考えることが大切だと思うがどうだろう。
家庭・地域社会・国家の良き構成員を育てることが教育でなくてはならないのだ。

日本外交の欠陥

2006-05-30 07:25:03 | Weblog
アメリカとの蜜月旅行が長すぎた。そのこと自体を非難するものではないが、ここに来てその弊害が見えてきたのも事実である。
それは日本外交を考える人たちが自分の頭で世界情勢を分析せず、権威あるアメリカ人がどのように言っているかにだけ気を配って日本の国益さえ省みない外交に終始するようになったからである。
日本の外務省、学者、記者などの知識人たちは、アメリカの高官や学者、記者が発する言論を、絶対の真実として重視する習性を身につけてしまった。これを悪しき「翻訳主義」と言う人もいる。
このような「知的対米従属」については、よくよく反省しなくてはならないように思われるのである。
もうひとつは、俗にチャイナスクール関係者と呼ばれる人たちを中心とした親中・媚中外交である。
いずれにせよ良い意味でのナショナリズム(国益主義)を持たない人たちによって外交が行われているということ。ここに大きな日本外交の弱点・欠陥がある。これでいい筈など絶対にない。

世の中いい加減

2006-05-28 16:53:04 | Weblog
アメリカ合衆国独立宣言の中身、
「我々は次の事実を自明とする。すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の追求など侵すべからざる権利を与えられている」
起草はトーマス=ジェファーソン。そのかれはアメリカ先住民を大々的に迫害し、黒人奴隷を百人以上も所有していたと言うから吃驚だ。
今日、最高に普遍的価値あるものとして、地球上の隅々にまで普及し崇められている自由主義、平等主義の発信源は、実に、こんなにも偽善に
満ちたいい加減なものであったのだ。

1922年に創立された解放運動の先駆けである全国は、太政官布告(解放令、明治4年)を「明治天皇の聖旨」として全面に押しだし、
差別言動を糾弾する運動を展開した。天皇の下での平等という主張は、当時非常に強力で説得力のあるものだった。
そこに、反天皇をもちこんだのが、国際共産主義運動の総本山たるコミンテルンの32年テーゼであった。
日本の天皇制をロシアの皇帝とだぶらせたのだ。これが戦後の運動に受け継がれ、今日の反権力的スローガンの象徴になってしまっている。

究極の平等主義といわれるジェンダーフリー、すなわち性差をなくする運動が猛威を振るっている。その源流は共産主義である。
男女共同参画社会基本法がジェンダーフリーの砦・要塞になっている。
こんなとんでもない革命思想が表通りを闊歩するようになったのは国民ひとりひとりの油断があったからだろう。
今日多額の国家予算を得て、あちこちにいわゆる箱物と呼ばれるものをつくり、それを拠点に支持者の拡大を図っている。いまや単なる思想ではなく、
利権絡みの活動を展開しているのである。

三重でも不正免除 国民年金保険料で社保局 [ 共同通信 05月25日 13時34分 ]
国民年金保険料の不正免除問題に絡み、三重社会保険事務局(原和雄局長)が三重県内の約7500人に対し、本人に無断で保険料の免除など
の手続きを進め、承認していたことが25日、分かった。手続きは同事務局が県内全5カ所の社会保険事務所に指示して行っていた。
また、千葉、滋賀、兵庫の三県では社会保険事務所が電話での意思確認だけで免除などを決定していた事実も判明した。
三重社会保険事務局によると、三重県内の2005年度分の保険料未納者のうち、免除や猶予の対象となる約9500人に対し、昨年12月以降、
申請手続きを取るよう通知。約2000人が申請したが、連絡のなかった残りの約7500人についても、各事務所を通じて勝手に処理したという。

これはなんなんだ!思わず笑ってしまう。

これでも中国は脅威ではないのか

2006-05-24 15:55:16 | Weblog
これでも中国は脅威ではないのか。
小泉総理は中国の軍備は脅威ではないなどと言った。果たしてそうか。

現実の中国をしっかり直視するなら
1.あくなき軍事力増強を進める中国(軍事費が十七年間、10%以上伸びている)
2.日本周辺海域での潜水艦による度重なる海底調査
3.毛沢東の「無から有」「小から大」「低から高」の思想を出発点とする中国共産党一党独裁国家
4.帝国主義的領土拡張の野望
  ・1951年かつてのチベット政府は、中国の軍事的脅威のもとで中国政府と「17条協定」を結ぶよう強いられ、この協定によってチベットは名実ともに中国の一部にされた。
  ・南シナ海において、1992年に中国は一方的に「領海法」を制定し独自の領海線を設定、その後狡猾な手段を駆使しじわじわと南沙群島等の実効支配を完成させて行った
  ・東シナ海ガス田問題は中国にとってこの上ない幸運、これを梃子に南シナ海での経験を生かしさらに狡猾に尖閣諸島の実効支配の画策にも着手している
5.台湾の名実支配に向けた布石(中国とロシアによる初の大規模な合同軍事演習もそのひとつ)
6.中国の悲願、三度目の正直で日本占領を果たすこと(ちなみに、1274年の文永の役、1281年の弘安の役に日本は侵略目的の攻撃を受けた)
*6.については決して妄想などではない。中国の歴史、現在の政権、為政者の行動様式・領土拡張主義からみての必然的帰結である。
視野の狭いわたしが思いつくだけでも、これだけのことがある。

これでも中国は脅威ではないのだろうか。
脅威と観て国家として十全な手立てをするか。脅威でないとして何もしないでは180度結果が異なる。
国家の存亡にかかわるこの上ない重要な問題であるのになぜそんなに総理は冷静でいられるのか。
それとも政治や外交には表と裏があるんだよということであろうか。


中国、日本を牽制

2006-05-23 07:40:38 | Weblog
下の記事に大変不愉快さを・厭味をを覚える。
ドイツの国連安全保障理事会常任理事国入りを支持の中国の態度は、まさに日本を虚仮にしているとしか言いようがない。中国は露骨にこれ見よがしに日本を牽制しているのだ。靖国問題や東シナ海油田問題を抱える日本を強く意識しての振る舞いである。これぞ中国の御家芸(遠交近攻策)と言うところか。

独の常任理入り支持を示唆(共同通信 2006年05月22日 21時55分)
 【北京・共同】初訪中したドイツのメルケル首相は22日、北京で温家宝首相、胡錦濤国家主席と相次いで会談、華僑向け通信社、中国新聞社電によると、温首相と胡主席はそれぞれ「ドイツが国連など国際機関でより大きな役割を果たすことを支持する」と表明し、ドイツの国連安全保障理事会常任理事国入りを支持する考えを示唆した。




この教育に期待できるか

2006-05-22 10:04:21 | Weblog
初の公立「幼小中高一貫校」…北九州市が設置方針(読売新聞 2006年05月21日 20時06分)
 北九州市は、幼稚園から高校まで15年間にわたって系統的な教育を行う公立「幼小中高一貫校」を設置する方針を固めた。

 2010年度をめどに規模や運営形態などの全体像を打ち出す。文部科学省によると、幼小中高の一貫教育を実験的に実施しているのは広島県と奈良県で計2例あるが、いずれも3年間限定の実施で、常設の公立「幼小中高一貫校」の創設が実現すれば、全国で初めてになる。

 北九州市では05年2月、市教育長の諮問機関が、幼児期からの集団生活のルールを学ぶ重要性や、心身の成長が著しい小学校高学年~中学校の課程の相互乗り入れなどを評価し、幼稚園から高校までの一貫校の必要性を答申した。



この教育に期待できるか

普通行われている教育を小中高と同一校で行うというようには言わないで、あえて系統的な教育と付け加えるのは、何か特別な意味があるのか。
普通行われている教育は系統的な教育ではないのか。「系統的」という言葉は教科の内容に関し使われるものと思っていたが、その辺のところはどうなんだろう。
大胆に勝手に想像させてもらうが、この一貫教育はおそらく厄介な受験勉強なしに高校まで行けることを保障する仕組みと理解して、大きなはずれはないのではないか。そう思っている。
それは、受験勉強がこどもの心を歪めているという考えから思いついた対策・仕組みであろう。いじめ・校内暴力・学級崩壊・ひきこもりなどはここでは消える・起こらないとの計算(言葉が不適切かも)がなされているのだろう。
たぶん、じっくりとこどもの成長過程を把握でき一人ひとりを真に大切にする教育が行える筈であるから、そういうことだと思う。

しかし、わたしにはプラスイメージよりもマイナスイメージばかりが思われて仕方ないのである。

その理由は、
1.生徒は固定的・排他的環境に長期間おかれる
2.空気(環境・雰囲気)の澱みがおこる
3.序列意識が醸成される
4.上下関係の固定化による状況の力が作用し始める
  その結果、陰湿ないじめが必然的に発生する

水を差すようでわるいが、この教育は上に示したような理由で挫折する。そんな気がしている。




学校はよくなるか

2006-05-21 13:34:09 | Weblog
いじめ・校内暴力は依然として続いている。あまりにも日常化してきた為にそれはいまやニュースにもならなくなった。
こうしたなかで、05年11月文部科学省がゼロ・トレランス方式の研究を始めているということを聞き、「ゼロトレランス」とはいったい何か。ちょっと調べてみた。
以下のようなものであることが分かった。文部科学省の研究に期待したい。


「ゼロトレランス」とは、

学校が明確な罰則規定を定めた行動規範を生徒・保護者に示し、
破った生徒にはただちに責任を取らせる生徒指導の方法。

ルールを破った生徒には、容赦ない罰則を与える。

一九九七年、クリントン大統領(当時)が全米に呼びかけ浸透させた。

それまで教育現場で支配的だった、生徒の事情をよく聴き、
生徒理解に重点を置いて指導する「ガイダンス」と呼ばれる手法とは
一線を画し、絶対に許容しない厳格さで臨む。

アメリカでは、この方法を用いて、荒廃した学校の再建に成功した
例が挙げられている。

「ゼロトレランス」とは、もともと、「不良品を許容しない」
という産業界の考えだったが、「子供を不良品にしてはいけない」
という意味で、その考えが応用された。

ほくそ笑む中国

2006-05-19 18:11:09 | Weblog
アナン国連総長、靖国問題に懸念「緊張増している」(読売新聞 2006年05月19日 00時37分)
 来日中のアナン国連事務総長は18日、都内で記者会見し、小泉首相の靖国神社参拝問題について、「日本の安保理常任理事国入り問題(に影響している)だけでなく、(日中・日韓間の)緊張を増してしまっている」と懸念を示した。

 事務総長は「隣国同士にはそれぞれの考え、立場がある」と首相の靖国参拝に一定の理解を示しながらも、「域内の国々は互いに相手を理解しており、何が相手を挑発しているのかわかるはず。各国首脳が寛大なジェスチャーを示す必要がある」と、当事者同士の歩み寄りによる解決を促した。

 事務総長は訪韓後の16日に来日。小泉首相や安倍官房長官らと会談し、国連改革やアジア情勢について話し合った。19日に日本を離れ、中国を訪問する予定。


上の記事を読んで思うこと、

靖国問題の波紋はいまや世界中に広がっている。仕掛けた中国の高笑いが聞こえてくるようだ。靖国を問題視しているのは中・韓だけだとしてきた日本政府の対応は果たして正しかったのか。確かに、はじめの時点では中・韓だけであっただろう。そのとき、日本政府は「大人の対応」とか言って傍観しすぎた嫌いはなかったか。
蟻の一穴でさえ堤防を破壊する原因になるという譬えもある。初期消火が大切だと言う教えもある。ここに来て、日本政府としてやるべきことを怠ってきたと言えなくもないのだ。
靖国問題の譲歩すなわち政治決着することは、かの戦争が侵略戦争であったと断定付けることになるということを思わないといけない。さらに、そのうえ中国や韓国の虚偽・改竄の歴史を日本は認めることにもなるのだ。百人切りや南京大虐殺をも、あれは真実なんだと世界中の人たちに思わせてしまうことにもなる。そういうことを覚悟しなければならないのである。
マッカーサーでさえのちに、かの戦争は日本にとっては明らかに「あれは自衛のための戦争」であったと言いきっているのだ。勝者の立場で勝者の論理で終始した東京裁判に毒された人たちは、中国や韓国の言うことにも一理あるなどと言ってはばからないが、そんなやさしい気持ちがあるなら、なぜわれわれの先祖の必死の努力を知ろうとしないのか。理解しようとしないのか。なぜだ?それを聞きたい。
中国は手段を選ばない国である。だまされる方が悪いと考える国柄である。世界中にスパイを送り込み政治的工作活動を倦まずたゆまずやつているのだ。アメリカ議会においてさえも日本の靖国問題を口にする者も出てきている。
中国のやり方は、日本に対しては「夷を以って夷を制す」で、他国に対しては「合従連衡・遠交近攻」策を駆使しているのである。

わたしがここで言いたいことは、「間違っても政治決着だけは避けるべきだ」ということを申し上げたいのである。
さらに付け加えれば、これは武器を使用しないれっきとした戦争なんだという認識・自覚を持たなくてはならない問題であるということだ。

台湾の反日化

2006-05-10 07:19:28 | Weblog
「抗日記念日」検討、台湾の与党が日本統治見直し(読売新聞 2006年05月08日 22時46分)
「【台北=石井利尚】台湾の陳水ヘン総統の与党・民進党は8日、日本の植民統治時代に台湾住民が日本軍と戦った歴史に光をあてるため、「台湾人民抗日記念日」制定の検討を始めたことを表明した。(陳水ヘンの「ヘン」は編の右側)」

「楊長鎮・民進党族群事務部主任は本紙に対し、「(1937年の)盧溝橋事件を抗日出発点とする従来の外省人(中国出身者)の視点ではなく、植民地時代の抗日運動は台湾人主体で行われた事実を示すためだ」と述べ、反日が目的ではない点を強調した」

この記事を見て、
台湾当局者は「反日が目的ではない点を強調」しているそうだが、台湾が反日に翻意するのは時間の問題だ。ひとまず偽装の器を用意したということであり、本当の中身が盛もられるのはこれからである。
現在台湾のなかに親中派が勢力を拡大してきている中で、この「抗日記念日」設定の動きが出てきたこと事態、そのように考えるのが自然だ。
台湾において中国の反日工作が相当なところまできていることがこれで明白になった。中・韓・台の日本包囲網が形成されつつあるのみならず、この動きは日本をアジア全域において孤立化させようとする中国戦略の第一歩であると捉えることが重要だろう。

中国は、すでにアセアンの親中・反日工作を水面下で弛まず進めていることも視野に入れて対処しなければならない。こういうことに日本は鈍感で動きも非常に鈍い。

2006年4月26日 (水)の廬武鉉大統領特別談話では「北東アジアの平和」のために「過去の歴史清算と歴史認識、自主独立の歴史と主権守護の次元で」日本に物申すのだといっている。竹島問題は単に日韓の問題だけではない。もっと広い視野と認識に立つ必要がある。
と、周辺諸国に連携して日本に「過去の歴史清算と歴史認識」を要求・主張しようと呼びかけている。
この談話から二週間と経たないうちに台湾の抗日記念日云々のニュースである。明らかに廬武鉉大統領特別談話とこの「抗日記念日」設定の動きは連動しているのだ。

中国や韓国は広くアジアにおいて歴史認識で日本包囲網を作り上げようと工作していることは明々白々と言わねばならない。
ふと、1941年のABCD日本包囲網の悪夢を想起する。

わたしの思い過ごしでなければよいが。

再度少子化について

2006-05-08 15:19:35 | Weblog
少子化について書くのはこれで3度目である。
一度目は少子化の大きな原因は学校の性教育と人権に基づく自己決定権に有りはしないかと、
二度目は家庭にも人権思想が入り込み、家庭と社会すなわち内と外の垣根が低くなって男女の役割が消失したのが原因だろうなどと書いた。
今回は、それらのことに加えもう二点どうしても書いておきたいと思うことがある。
ひとつは、子育て支援不十分説に対する疑問。もうひとつは、家族制度・家父長制の見直しについてである。

まず、一つ目の子育て支援不十分説は、保育環境を整え子育て手当ての支給などを行えば女性がこどもを産む気になるというのであるが、とんでもない。それはNOである。
なぜなら、多くの女性は子供を産むと子育てに縛られ、いまの自由がなくなると思っているからである。環境や制度の問題ではなく、まさにマインド(mind)の問題だからである。
ちなみに、一昔前、人権主義が普及してなかった社会においては、所得水準と人口の増加は同じ動きを見せていた。しかし人権主義の徹底した今日の社会ではそういう動きにはなっていない。
ただし、中間所得層(400~700万円)においてのみ、所得水準と人口の増加には相関関係が例外的に見られる。それも格差社会が進むなかでこの層がだんだん
少なくなってきているから、今後一層の少子化が加速されると推測されるのであるが。

二つ目は、これも人権主義という背景があっての歴史の必然といえばそのとおりであるが、戦後、家父長的家制度にかわり核家族化が進んだことによる少子化である。
○○家として継承し守るべきものが希薄になり親を扶養し祖先祭祀の主宰者の地位に就くことさえ子供たちの間で互いに厭うようになってきた。
要するにあらゆる係わりを断ち切り自分は自由に生きたいという風潮、またそれを容認する社会のあり方、ここら辺に少子化の隠された原因をわたしは嗅ぎ取るのである。
家父長的家制度のもとでは、夫婦がこどもを産むことは言わば至上命令である。祖父母も子育てに参加するので多くの場合数人儲けるのがふつうである。

ところで、人権主義・男女同権主義がどれだけ社会を荒廃させたか、また荒廃させているか。将来もっともっと荒廃の度を大きくさせていくか。
そんなことを考えるといたたまれない気になる。
そろそろ人権主義・男女同権主義について、しっかり検証してみるときが来たのではないだろうか。
斯くあれば幸せと考え国や社会がそれを導入・制度化・容認することが、現実には逆にどんどん不幸を呼び込む結果になっている。

そのようにわたしには思えるのである。