それを考えるには手順を踏むことが肝要である。
まず第一に、いかなる家庭・社会・国家を理想とするか。これが描けていないところに教育は始まらない。
教育の目的は何か、何のために何を目指して行うのかということを明確にしなければならない。
第二に、「こども観」についてのコンセンサスが必要である。それは何事をするにも出発点(前提)がしっかりしていないことには、目的を達成することは難しいからである。
第三に、「教育の手段・方法」である。世の中にはさまざまな思想や価値が存在する。その中で目的達成のために有効なものを選択するのである。
このことはそんなに大変なことではない。目的地(目的)と出発点(前提)がはっきりしているなら、この段階ではたとえばどの乗り物にするかというようなことを考えればいいだけのことになる。
以上のステップを踏んだ上でいよいよ第四段階に入る。第四段階は教育実践ということである。
教育者が教育現場で何をどのようにすればよいか。もはや迷うことはない。「何を」は「教えるべき内容」であり「どのようにすればよいか」は教育者の「とるべき態度」のことであるから。
「教えるべき内容」は国が示すだろうし(そうすべきだし)、「とるべき態度」は教育者が置かれている地位・立場の認識をちゃんと本人がしていれば問題はない。
以上に照らしてみたとき、現実の学校教育の中に問題点を見つけることはさして難しいことではないだろう。
すなわち、今日の日本の学校教育においては、前提となるべき教育の出発点が実にあいまいであったことに気づかされるのである。
欧米においては「こどもは野獣である、まだ人間ではない」。その前提で教育が始められる。日本は「こどもは無垢で善、神のような存在」が出発点になっているる。お分かりのように180度「こども観」が違っているのである。
日本では「こどもにも人権」がある、「こどもの人格」を認めるべきだ。などの議論があるが、そんな議論は欧米にあっては噴飯ものと一笑に付されるだう。したがって、欧米においては基本的なルールは強制的に押し付けられることになるのである。これは一例である。このようなわけで、「こども観」について日本も、いま一度見直し検討してみる必要があるのではないか。
目的地(目的)に関して言えば、記憶間違いでなければ、たしか「多様な人間を育成する」というようなことを文科省は奨励していたように思う。
この表現は実に不適切であるように感じるのである。なぜかというと、どんな人間が育ってきてもいいのだ、と受け止められかねないからだ。どうしてもこの表現は必要というのであれば、非常に限定的に具体的に示すべきであろう。
ここでは問題点のひとつふたつを指摘するにとどめるが、挙げればきりがない。
日本再生は教育に負う以外にないのだから、政治家は勿論、国民一人ひとりがしっかり考えることが大切だと思うがどうだろう。
家庭・地域社会・国家の良き構成員を育てることが教育でなくてはならないのだ。
まず第一に、いかなる家庭・社会・国家を理想とするか。これが描けていないところに教育は始まらない。
教育の目的は何か、何のために何を目指して行うのかということを明確にしなければならない。
第二に、「こども観」についてのコンセンサスが必要である。それは何事をするにも出発点(前提)がしっかりしていないことには、目的を達成することは難しいからである。
第三に、「教育の手段・方法」である。世の中にはさまざまな思想や価値が存在する。その中で目的達成のために有効なものを選択するのである。
このことはそんなに大変なことではない。目的地(目的)と出発点(前提)がはっきりしているなら、この段階ではたとえばどの乗り物にするかというようなことを考えればいいだけのことになる。
以上のステップを踏んだ上でいよいよ第四段階に入る。第四段階は教育実践ということである。
教育者が教育現場で何をどのようにすればよいか。もはや迷うことはない。「何を」は「教えるべき内容」であり「どのようにすればよいか」は教育者の「とるべき態度」のことであるから。
「教えるべき内容」は国が示すだろうし(そうすべきだし)、「とるべき態度」は教育者が置かれている地位・立場の認識をちゃんと本人がしていれば問題はない。
以上に照らしてみたとき、現実の学校教育の中に問題点を見つけることはさして難しいことではないだろう。
すなわち、今日の日本の学校教育においては、前提となるべき教育の出発点が実にあいまいであったことに気づかされるのである。
欧米においては「こどもは野獣である、まだ人間ではない」。その前提で教育が始められる。日本は「こどもは無垢で善、神のような存在」が出発点になっているる。お分かりのように180度「こども観」が違っているのである。
日本では「こどもにも人権」がある、「こどもの人格」を認めるべきだ。などの議論があるが、そんな議論は欧米にあっては噴飯ものと一笑に付されるだう。したがって、欧米においては基本的なルールは強制的に押し付けられることになるのである。これは一例である。このようなわけで、「こども観」について日本も、いま一度見直し検討してみる必要があるのではないか。
目的地(目的)に関して言えば、記憶間違いでなければ、たしか「多様な人間を育成する」というようなことを文科省は奨励していたように思う。
この表現は実に不適切であるように感じるのである。なぜかというと、どんな人間が育ってきてもいいのだ、と受け止められかねないからだ。どうしてもこの表現は必要というのであれば、非常に限定的に具体的に示すべきであろう。
ここでは問題点のひとつふたつを指摘するにとどめるが、挙げればきりがない。
日本再生は教育に負う以外にないのだから、政治家は勿論、国民一人ひとりがしっかり考えることが大切だと思うがどうだろう。
家庭・地域社会・国家の良き構成員を育てることが教育でなくてはならないのだ。