兼業役者の猫とバイクとヴァナ・ディールな日常

舞台中心、TV.映画.CM等を少々。そんな無名役者の仕事とバイト。猫とゲームのぐうたらな日々と云いたい放題。

晴天でよかったね

2006年10月30日 19時00分40秒 | 猫たちの話
今日の午後、慈恵院に電話を入れました。
合同火葬は午前11時に執り行われたそうで、私が電話した時には既に、ロン君は煙りとなって空に昇った後だったようです。
私は自宅で、ロン君の写真に「お線香」ならぬ「お香」をあげて、ロン君の冥福を祈りました。
昨夜は、ララが天井を見上げて鳴いたり、いつもとは違う不可思議な行動を取ったりしていました。多分、怖がりで寂しがり屋のロン君が、家に帰って来てたんだと思います。
ロン君が寝ていた猫ベッドには、ララもアッシュも近寄ろうとしません。ベッドに染み付いた「死」の匂いに怖じけづいているのか、まだそこにロン君がいるのか…
49日が過ぎたら、ベッドを洗って匂いを消し、また2匹が使えるようにしてあげるつもりでいますが、それまではロン君の席を残しておいてもいいかなぁ、と。
昨夜遅く、友人からメールが届きました。

しばらくは居なくなってしまった悲しみにさいなまれて辛いと思うけど時間が気持ちを和らげてくれるよ!きっと…

私も、本当にその通りだと思うよ。ありがとう。

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2 コメント

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悲しいだけじゃないらしいよ! (ZZR400)
2006-10-31 01:33:13
私の父の実家の村では(村人全員が同じ苗字!)、未だに、土葬が普通に残っており、祖母が亡くなった時も土葬でした。そりゃ近しい人たちは鎮痛な表情も時にしていましたが、ただ、総じて皆、普通なんです。ご飯をつくるとか、洗濯をするとかと同じように、葬儀を進めていきます。

<田舎なので、葬儀は朝から始まり、家での読経、親族による玄関先での杯割り、棺を担ぎ言い伝えに従った役割分担で色んな持ち物を手に行列で村内練り歩き、寺での読経、村はずれでの土葬、土葬場での読経、家での百万遍(直径5メートルの長大な数珠を大勢で100回、回し続ける!)、大餅割(最若年層の子供たちによる大鏡餅の引き割り)、と一連の葬儀行事が終了するのは、夜遅くとなります。>

なんで、皆、葬儀時にそれほど悲しげじゃないのか、土葬の際に少し判りました。‘死’を‘終わり’と思っていないんです。人間の形を‘仮に借りてた’けど、その形をまっとうしたので大地に返して、魂は空間も時間も自由に動ける、本来の姿に戻ったと考えているんです。

学者に言わせると「素朴な原始性を残した宗教性」といった表現をするようですが、難しい話は抜きにして、すごくいい考え方・感じ方じゃないかと思います。

祖母の葬儀以来、私もこの田舎の考え方に近いものを持っています。

人も動物も同じ。確かに見慣れた‘姿’が消滅するのは寂しく、悲しいものですが、その‘生’に一種の‘格・尊厳’を感じていたなら、逆に姿にとらわれない自由な形に戻ったことを少し羨望の気持ちも込めて、感じてあげていいんです。その‘生’があなたの中に何かを残したのなら、その‘死’は‘終わり’じゃないんだって。



まだまだ悲しい時だとは思いましたが…。
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ありがとう (ronraraash)
2006-10-31 15:37:26
励ましの言葉、本当にありがとうございます。
コメントを読んで「フィールド オブ ドリームス」を思い出してしまいました。自分が一番望んだ時代の姿で過ごしている、あちらの世界の住民たちが出ていました。
また、あちらでは肉体を持たないため、同じ人物でも、見る側が一番見慣れた姿が投影されて現われる、と云う話も聞いた事があります。
ロン君も、不自由だった老いた肉体を離れて、一番元気だった頃の自分に戻っていると思います。そして、ロン君が幸せだった時代を旅する時、私たちの膝で寝ていたり、ララやアッシュと遊んでいる場面だったら嬉しいな、と。
私もロン君を思い出す時、悲しむのではなく、笑って思い出したいと思います。
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