まだ、ヨーロッパ的暗さの残る時代1981年の映画作品”ディーバ”を、回顧的な気分で観た。
初めてヨーロッパを訪れたのは、1987年だったか、バブルに浮かれ始めた日本とは違う、ちょっとうらぶれた感じのあるパリだった。
映画に登場するパリもほとんど違わず、モンパルナスの長い動く歩道、たぶんサン・ラザール駅、コンコルド広場など、十分な暗さを湛えている。
今のパリと比べるならば、きっと”ディーバ”に出てくるパリは、東欧のどこかの街と勘違いするだろうと思われる。
それこそ原動機自転車といっていいモペットで街を駆け回る、しがない郵便配達員でオペラオタクの主人公は、どこにでもいそうな青年。
憧れのオペラ歌手は、天井の人。
病み疲れた売春婦。
お決まりの風体の殺し屋たち。
裏のありそうな警察の幹部。
べトナムの移民の女。
謎のギリシャ人の男。
台湾マフィア。
バラエティーに富んだ役者は揃った。
そのどれもが、パリに実在しそうな者たちだ。
テープをめぐる二重螺旋の構図が、どこでどう重なるのかと、話の運びもなかなか良く、緩急のつけ方もうまい具合に、良い作品になっている。
歌姫と郵便配達員の青年が傘を差し、夜から朝のパリの街を歩き通すところは、詩的で実に美しい。
本当は怖くてなかなかできはしないけれど、自分もパリの街を、夜から朝にかけて歩き回りたいという願望に、この情景はぴったりと当てはまったから、なお美しく感じたのかもしれないが。
”ディーバ”は、歌姫は、人の心をむき出しにする。
純粋な狂気、それに憑り付かれた青年が、意図せずになにかのスイッチを入れてしまい、螺旋が回転しだすのだ。
くるくると回り、近くのものを巻き込んでいく。
突飛なことでも、小説や映画のフィクションの世界のことでもない、案外そのスイッチはそばにあるかもしれないのだ。
”ディーバ”によって揺り動かされ、露わになった狂気。
それは、誰にも潜んでいるものだから。
初めてヨーロッパを訪れたのは、1987年だったか、バブルに浮かれ始めた日本とは違う、ちょっとうらぶれた感じのあるパリだった。
映画に登場するパリもほとんど違わず、モンパルナスの長い動く歩道、たぶんサン・ラザール駅、コンコルド広場など、十分な暗さを湛えている。
今のパリと比べるならば、きっと”ディーバ”に出てくるパリは、東欧のどこかの街と勘違いするだろうと思われる。
それこそ原動機自転車といっていいモペットで街を駆け回る、しがない郵便配達員でオペラオタクの主人公は、どこにでもいそうな青年。
憧れのオペラ歌手は、天井の人。
病み疲れた売春婦。
お決まりの風体の殺し屋たち。
裏のありそうな警察の幹部。
べトナムの移民の女。
謎のギリシャ人の男。
台湾マフィア。
バラエティーに富んだ役者は揃った。
そのどれもが、パリに実在しそうな者たちだ。
テープをめぐる二重螺旋の構図が、どこでどう重なるのかと、話の運びもなかなか良く、緩急のつけ方もうまい具合に、良い作品になっている。
歌姫と郵便配達員の青年が傘を差し、夜から朝のパリの街を歩き通すところは、詩的で実に美しい。
本当は怖くてなかなかできはしないけれど、自分もパリの街を、夜から朝にかけて歩き回りたいという願望に、この情景はぴったりと当てはまったから、なお美しく感じたのかもしれないが。
”ディーバ”は、歌姫は、人の心をむき出しにする。
純粋な狂気、それに憑り付かれた青年が、意図せずになにかのスイッチを入れてしまい、螺旋が回転しだすのだ。
くるくると回り、近くのものを巻き込んでいく。
突飛なことでも、小説や映画のフィクションの世界のことでもない、案外そのスイッチはそばにあるかもしれないのだ。
”ディーバ”によって揺り動かされ、露わになった狂気。
それは、誰にも潜んでいるものだから。