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相反する滅私と不死の願望、池澤夏樹”夏の朝の成層圏”

2012-07-03 22:32:52 | 本たち
子供の頃から、なぜだか仙人に憧れていた。
何をも所有せず、身一つでそのときどきの空腹を満たす。
または、最小限のものだけで暮らし、本を読み絵を描く。
少しの時、異国に暮らしたが、スーツケース一つほどの持ち物でしのげるものだと実感し、持たない生活が可能だと思った。
今、畑と田んぼのある環境にきて、生きるために食べ物を作る生活に移行するのはいつでもできる。

生まれ、食べ、眠り、働き、子を生し、そして死ぬ。
人の一生を簡単にしてしまえば、ただそれだけのこと。
働くが、他の動物では捕食、つまり狩りになったりするが、その一生は人のそれと変わりない。
人が、文明文化を築いてきたのは、それだけでは物足りなかった、生きた証を残したかった衝動、これから続く人たちに自分達の存在を知らしめたかった。
それは、忘却そして消滅を何よりも恐れたから。
生きるも死ぬも、自分が存在したことを誰かに伝えなければ、その存在は何もなかったことに等しい。

自分は、仙人になりたいと憧れた反面、絵描きや文筆家になりたいとも思っていた。
自分を滅したい気持ちと、存在を誇示し存続させたいという相容れない気持ち。
そのどちらともつかず、心は引き裂かれ続ける。
もっとも、こうして毎日のように文を書き綴っているのだから、後者にかなり傾いているのは明白だが。

池澤夏樹の”夏の朝の成層圏”、そのジレンマを俯瞰して書き表していた。
そして、今の自分の成り行きに、なんとなく重ねてみた。
そうだ、絵を描くときも、文を綴るときも、誰かが気に入ってくれて、それがまた誰かに受け渡されることを願ってしているのだ。
名は消えても、描き、綴ったものが、どこかの家にひっそりと生き残る夢を抱いている。
食べて無くなることのないビスケット、枯れることの無い実を結び続ける木、命を生み続ける大地になる願望。
しかし、何より必要なのは、食べてくれる人、認めてくれる他者だと。
存在するためには、相対化する他の点がなくてはならないから。

夏の朝の成層圏に浮かんでいるとしたなら、まぶしい光に満たされた空間では、前後左右どころか上下の区別もつきにくいにちがいない。
光源である太陽の光の強さだけが頼り。
さしあたって、影しか頼るものが無いだろう。
全ての拠りどころとなる基点は、他者に求めるしかないのだから。