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暑い夏の過ごし方のひとつに、昼下がりや夜に家でエアコンを弱く入れ、映画を観ることがある。
”ディーバ”に続き、同じ80年代の映画”バクダット・カフェ”を観た。
どちらも、当時話題の映画であったのだが、へそ曲がりな自分はリアルタイムで観てはいない。
”ベルリン・天使の詩”も、何年かしてから観たほどだ。
乾いた風が吹き付けパサパサと埃っぽく、強い陽射しに焼き付けられた不毛の大地、砂漠は、人のエゴの象徴。
そこにいる者の心を、干からびさせ、排他的なぎすぎすとした味気ない音を立てる。
太った異国の女は、愛と豊饒の象徴。
自らに溢れ出す、悲しみとやり場のない愛情を砂漠に注ぎ込む。
まずは、埃を払いガラクタを取り除く掃除から。
こざっぱりと整えられた環境は、人の気持ちに余裕を与える。
幼い者を愛しむことから、他を思いやる愛と理性が醸し出される。
何よりも、他者の悲しみを目の当たりにすることで、無自覚だった悲しみに向き合うことが、人としての心を取り戻させる。
湧き出る泉は、ただ湧き出るだけでは己の存在を保てない。
水を湛える池や器がなくてはいられないのだ。
池や器も、湛える水がなくてはその存在意義をつかめない。
互いに、補完しあうものなのだ。
砂漠に現れたオアシスには、皆が引き寄せられていく。
心地よい楽園だ。
かつてのこの映画の評論に取り上げられていた印象的な言葉。
「みんな、仲がよすぎるのよ。」
タトゥー師が、バクダット・カフェを去ろうとして言った言葉だった。
なるほど、その気持ち、わかってしまう。
深入りすると、その反動が怖いのと、いつまでもその状態が続く保証もなく、自分のペースが乱れ干渉される恐れがあること。
または、そこまで入り込めない自分の異質感を突きつけられることなどがある。
しかし、なんと言っても人は孤独に耐えるのは難しい。
誰もが、人に受け入れてもらいたいと望んでいる。
人はいびつな生き物。
人の輪は、決して真円ではない。
重なり合いずれ、いびつな輪を作っていくもの。
仲が良くてもそうでなくても構わない。
寄り添わなくては、生きてはいけないのだから。
80年代、個人的心の充足を求めた映画が多く作られたのではないか。
神の不在が、こう仕向けたのかもしれない。
あれから30年あまり、相変わらず神は不在のままだ。
我々の心は、乾ききった土埃のように、風に煽られ舞い上がり、吹きだまっている。
オアシスは、出現するのだろうか。