分かったよーなこと、言ったって~!!

中途半端な知識で適当ぶっこく無法地帯へようこそ( ^-^)ノ

天気予報が当たる確率は……?(;^-^)

2013-05-18 23:29:52 | 思考の散歩
 ええ~、○月○日、○曜日の天気予報です。

 暖かい太平洋高気圧に覆われた日本列島に北からの強い寒気団が迫り、大気が大変不安定な状態となっております。

 偏西風がうんたらかんたら。張り出した前線がうんぬんかんぬん。


 で。


 曇のち時々晴れ、所によってにわか雨が降るでしょう。降水確率は30%です。(^-^)




晴れるのか雨降るのか曇ってるのか、どっちやねーーーーん!!! ヽ(`Д´)ノ


 って話になるわけなんですけれどもね。そもそも降水確率ってのも、なんだか釈然としません。(^-^;)


 もし、降っても「30%の確率だったからね」ですし、降らなくても「30%の確率だったからね」なわけです。

 こういうの、ねぇ…………例えば、運動会を決行するか、延期するかなんて時には、非常に胃にキリキリ来そうですよね!


 昔は降水確率なんて発表されていなかったんですが、それじゃ、どうしてそんなものを数字として出すようになったのか。

 ただ単に、気象庁へ「外れたぞゴラーーッ!!!」ってクレームが入らないように逃げているのか。


 その”謎”について解説された記事がありました。もう、結構前のものなんですけどね^^;




天気予報が予報してるもの




 まー、だいぶ前のYahoo!さんの記事ですから、もしかしたらまたそろそろリンク切れるかもしれません(^_^;)

 さきほどの運動会の例でも、場合によってはお金が動きますし、本当に仕事として天候がキーを握る職業もありますよね。

 そんな、損失をなるべく抑えようというのが意図なのだ、と書かれていました。





 あくまでも参考程度とは言え、これが損失を抑える判断材料にはなりそうです。

 仕事としてもですね、例えば、商売なんかでも天気・気温・湿度によって、何が売れるかガラッと変わるお店なんかは、仕入れをどうするかという問題に直接関わってきます。冷やし中華、始めました~なんて言いましてもね、雨がざんざか降って、気温が下がれば注文する客も減り、雨が降っても蒸し暑いようなら逆に売れるでしょう。


 ま、リンク先の下の方、Facebookでもいろいろ言われてますが、本当は逃げかもしれないし、そうでもないかもしれません。

 災害の例が出ていましたが、気象庁は地震、津波まで予報を手掛けていまして、やはり確率は低くともそういった災害が起きる可能性のある時には、注意を喚起しなければなりません。確率が5%未満だからいいや、では済まないので、例え1%であっても予報として発表すると思います。しなかったらしなかったで、災害が起きてしまった時の責任追及たるや相当なものになるでしょう。先程貼った引用画像の通り、後はそれを受けた国民が判断することになります。


 金銭的損害を考えることもあるでしょうし、健康・生命的損害に関わる予報もあります。まだまだ人類が100%、完全に知ることの出来ない事象に対して、受けるかもしれない損害に応じて判断をすることになります。それは気象庁の責任逃れと非難もありましょうが、日本人はなかなか『自分の責任で動く』という事が苦手だと言われていますよね。海外の企業は、日本企業との取り引きに苛立ちを覚える事が多いそうです。誰か、自分以外に『責任を取ってくれる存在を探す』ようでして、この天気予報に対する非難も、気象庁に対して最終的な責任を委ねすぎる風潮があるように思うんですよねぇ。


 商売で、本当に気象条件が売り上げに直結するような会社は、気象庁以外の『天気予報会社』から情報を得ると聞いたこともございます。

 普通のテレビなどで得られる天気予報はタダなわけですが、そういった予報会社にお金を払って、より精度の高い情報を手に入れるのだとか。そこにかける出費を上回る利益が得られる、という事なのでしょうねぇ。



 ま~~、一般的な天気予報が『当たらない』とまでは申しません。

 タダで得られる情報は、当たるかもしれないし、当たらないのかもしれない。そんな、あくまでも『参考程度』のものだと考えておくべきなのかもしれません。








 あ。ちなみに、ですね。(^-^;)



 全然、関係の無い話なんですが、むかーし地元に『天気予報』って名前のラブホテルがございまして。


 出来ちゃうのかな~。当たっちゃったらどうしようかな~。








「ウチを使えば、そうそう当たんないよっ!!(^-^)」



って意味なのかなと、今、思った!!!(;^-^)







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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こちらも真面目に持論を展開してみましょう。 (わんた)
2014-10-01 02:42:11
万物に通ずる究極真理、というものを突き詰める時、答えは至極シンプルになるべきだと思っております。
物理学の分野など、高名な学者さんはよくそう仰いますね。アインシュタインのE=mc2乗など、「美しい」とまで言われます。つまり、説明・解説が長くなるのは『人間の言い訳に他ならない』というのが私のスタンスです。

【真理と自然観】
《真理》
真理の定義をどこに置くのか。
曲がりくねった大蛇を、人間は『曲がっている』と言う。大蛇にとっては直線である。
つまり、人間が描く直線を大蛇は『曲がっている』と言うのだ。
《志向性》
人間の志向は複層的な物が葛藤して具現化された現象である。
心理的に健康な者であっても、自分の正確な志向性を認識するのは困難を極める。
他者に対してもそれは同等と言えよう。
《生命観》
赤ん坊は、子宮内でフォーマットされたハードディスクのような物だ。
産まれた瞬間より『この世界』『自者と他者』の情報を記録し始める。
記録は『自者と母親』から始まり、それが『この世界』の全てであった。
【世界創造の真実】
全ての認識は、人間の都合によって決められる。
神に類する存在を崇める宗教は世界の理を説こうという試みに過ぎず、教祖はその伝達者であり、その者自体が神ではない。
万物を創造しようとする意思が『発生する』と考えるのは人間の都合であり、神とは意思・感情と無縁な、無機的な存在であると考えた方が物事は整合する。
【真善美】
人間の定義する善は、人間の欲する善でしかない。
ハードディスクの記録が善の志向性を決定してゆく。
大脳新皮質が発達する前の人間は、現代の人間よりも神に近しかった。
社会性を保つ目的で人間は、絶対不変たるべき善の定義に志向性を持たせてしまったのである。



こんなとこですか。


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真善美の探究 (阿頼耶)
2014-09-30 07:52:48
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。
返信する
高山も懐かしいw (わんた)
2014-06-17 00:57:50
高山には4ヵ月ぐらい住んでましたねー。
あそこも不思議なところでした。

今は他の町村を吸収合併して大きくなっていますが、基本的に高山市民の行動圏って限られてくるんですよね。
なので、知っている人とそこらじゅうですれ違います。
「昨日、○○に居たでしょ」とか。
「誰々をあそこで見た」みたいな話がよくありました。


飛騨地方は、走り屋が喜ぶ道路がいっぱいありますぜ?( ̄ー ̄)+
返信する
親の話しで (ひろちゃん)
2014-06-16 13:35:13
昭和30年辺りまで、天気予報はあたる外れる以前に何を言ってるのか解らなかったって言ってましたね

何だが大学の講義を受けているようだったと


だいぶ前ですがね
オイラ

富士山に登った事が無い(笑)

行こうと思えば直ぐにでも行ける静岡市なんですが

あっ5合目までは有りますよ、そこから先の6合目からは行った事が有りません

体力的?

いやいや


何せ嫌われてる?

一回目 7月快晴
登頂開始 6合目までもう少し

突如 雨が下(足元)より激しい降り雨が降るんじゃ無いです上がってくるんです(笑)

断念。 


二回目 7月快晴

登頂開始 しようとしたら
ただいま落石です本日の登頂はお控え下さい 


断念。



しかし
逆もございまして

岐阜県では大歓迎されておりまして

高山で飛騨牛を何故か、ただで食べられたり(焼きすぎで) 

同じく高山で、連休真っ只中に行ったのにほとんど誰も居ない
(((・・;)奇跡

有意義に滞在出来ました 高山の人もびっくりしてましたね 


リトルワールド内にあるインドカレー店で『インド人もびっくり』と働いていたインドの人に言ったら

ウケちゃってナンをサービスしてもらった 


そして何より
天気が荒れた記憶が無い

岐阜に行くと快晴です
返信する
大昔はこんなもんじゃなかったらしい? (わんた)
2014-06-12 01:01:57
これは、聞いた話ってだけなんですけれどもね。

現代のように、データ収集やらデータ解析やらの環境が整っていなかった大昔は、今と全然雰囲気が違ったようです。


昭和中期ぐらいまでですかね。
テーブルの上に載せられた気象写真を、何人もの職員が囲みまして、ウンウン唸ってたわけです。意見を激しく交わすわけでもなく、沈黙の中でただ、ウンウン言ってるのだけが響いていたのだとか。

相当、近寄りがたい雰囲気だったようでしてね、突然「曇のち晴れ!!」みたいにエイヤと叫んで予報が決まる、みたいな。まー、どこまで実話なのか定かではありませんが。



「こんなん出ましたけどぉ~(^-^)」
って、アレみたいなもんですねw
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0% (ひろちゃん)
2014-06-11 10:02:37
だいぶ前ですがね

なにかの番組で司会者が森田さんに

『昨日は確か降水確率0%でしたよねぇ!でも降りましたね貴方を信じて洗濯もの干したんですがね(笑)』
と冷やかしみたいなツッコミいれてたのを思い出しましたが

森田さんいわく

あの降水確率0%って言うのは

0~29%つまり30%未満を0%と言い

決して降らない訳じゃ無いとか言ってましたね

気流の変化ってのは解らないらしく【実に気まぐれらしく】ピーかんな天気だったのに突然雨雲が発生して降るなんてのも珍しく無いとか 


的中率は8割だっけ?天気予報

かなり高い確率です

野球で言えばイチローとかあの位ですかね

もっとすごいのかな?

でも
三振も、凡打もあるでよ!


そんなものでしょうかね 
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