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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

感謝

2018-03-25 07:20:53 | 日記
  昨日、上の子から手紙と花束をもらった。卒業を一区切りにして、感謝をしてくれた。こんなことをしてくれるとは思っていなかったので、少し驚いた。
  この日から2年、大学院を卒業して今年の4月にこの子も就職をして家を出た。一人で暮らしているが、何とかやっているようだ。
  大学院でも、よく勉強をして就職も結局はそれが活きた。これまで、一緒に生活できたことに感謝。
  

プリンを作る

2018-03-17 11:00:41 | 日記
  休日にプリンを作る。最近、時々やっていることだ。卵と牛乳と砂糖があれば、基本的な焼きプリンが作れるので、時間がある時に作っている。子に親の味を覚えさせようという気持ちもある。昔、食べさせてもらったよな。ということ。
  プリンは、買うと結構高い。作ると結構安い。牛乳500mlに卵が2つ、卵黄4つ。砂糖が、120gでカラメルを含めて作ることができる。卵白が余るが、これは冷凍しておいて、たまったらお菓子を別に作る。
  これで、量的には4人で食べるのだとたっぷりとある。1回で食べるには多すぎるくらいだろう。
  下の子が、春休みを利用して、家に帰ってきている。今は友人のところに泊まりにいっているが、まあ帰った時には、美味いものを食べさせてやろうという気持ちもある。去年の今頃は、大学に合格して、引越しの準備をしていた頃だ。


見た目の大切さ

2018-03-11 18:17:00 | 日記
  下の子は大学生なのだが、今朝、ヒッチハイクの旅行から帰ってきた。国内旅行なのだが、今時、ヒッチハイクで止まってくれる車があるのかと思ったので子に訊いてみると、けっこう、すぐに乗せてくれる車が見つかったそうだ。早い時は、1分で見つかったそうだ。子も、何故、乗せてくれたのかドライバーに訊いていた。小ぎれいで、ニコニコしていたから。孫に似ていたとか、息子に似ていたと答えてくれたそうだ。
  下の子の経験では、ヒッチハイクは小ぎれいとニコニコが大切ということ。
  下の子は、おしゃれもそれなりにしているし、持ち物は、私が持っているものよりも新しいし、私よりは上等なものが多い。その上、若い。きっと笑顔も話してみようという気になる表情をしているのだろう。
  この話を聞いて思い出したのが、下のユニセフの動画。
  1人の子供を違う身なりにして街に出す。小ぎれいな服装をさせた時、汚い服装をさせた時、1人で街角や、レストランに立たせる。この時の人々の態度を遠くのカメラで写している。
  小ぎれいな時は、皆、人々は子供に話しかけ、親切にしてくれている。汚い服装の時、人々は誰も声をかけない。汚い服装の時、人はその子が近づくと手荷物をそばに引き寄せる。
  誰もが、自然にそういう行動をしている。本当に助けがいるのは、汚い服装の子の方なのだが、助けてもらえるのは小ぎれいな子供、遠ざけられるのは汚い服装の子供、どちらも同じ人物なのだが。
  親切心が働くのは、小ぎれいな者に対してなのだ。しいたげられた者に対して、親切心は働かず、むしろ、警戒心が働く。
  たぶん私も、汚い服装の子に、手助けや食事を与えることはしないだろう。本当は、その者の方が必要としているにもかかわらず、それどころか、公平に、同じ子供のように、小ぎれいな服装の子と同じように扱うことをしないだろう。
  私は、何年か前に、ビッグイシューという雑誌の街角販売をしている人を見かけたことがある。その当時は、買う場所が決まっていたので、その場では買わなかったのだが、その人の見た目の汚さにもう少しきれいにすれば良いのにと考えたのを思い出した。
  私は、服装は大切だと思う。自分が着る服で不快感を人に与えてはいけないと注意している。しかし、汚い服装をしている者を見る時、私はいつもどう考えていただろうかと思う。
  小さな子供であれ、大人であれ、服装でその人を判断しているように思う。
  どうすればいいという訳ではないが、ここには考えるところがあると思う。






「こころ」と責任というもの

2018-02-10 15:47:15 | 日記
  「こころ」を大学生の頃に読んで以来になるのだが、最近、読んだ。上の子の卒論のテーマになっているので、この卒論を読んでみたくて読み直したのだ。高校生の頃は、何が面白いのか分からないという感想だった。最後、唐突に先生が亡くなって終りというあっけなさが、面白みを感じなかったのだろうと思う。
  今、読み直すと、全然違う面白さがある。多くの失敗と、失敗について何か一つ違えばと思うことが分かるようになって読むせいだろう。高校生の頃に、人生に影がつきまとうことの意味は体験としては理解できないというか、共感がなかったのだと思う。
  先生の体験とは異なるが、もう少し違えばと思うことが色んな面である。人生に影が差すそうゆう言葉の意味を実感として捉えるようになった。
      ここに今思うことをメモしよう。
      人の死は残された者に影を与える。良い記憶を与えることができればそれでいいのだが、自分の死によって人に暗い影を落として行くことは、詰まるところ、完結した利己主義のように思う。
      先生は、Kに対して、謝罪もできなければ、抗弁することもできない。さらに、このことをKに対して非難できない。Kの行為は、自分と周囲の人々に対する非難すべき暴力なのだが、このことをKに対して非難したくとも彼はすでにいないのだ。それでも、彼を非難することは、死者を非難、鞭打つことになってしまう。残された者は、Kの行為を非難する場を持つことも出来ず、自分や、関係する者の責任を問うことになる。
      Kは一人死んだように見えるが、精神的には一人で亡くなったのではないと思う。私は、死ぬ時は人は一人だと思う。精神的には一人で死にたいと思う。これを残された者への最後の贈り物にしたい。本当にそう出来るかは、時が来るまでは分からないが。
      自分の死に、人は責任を持つべだと思う。こういう意味でKの死は、無責任だと思う。こう言うことを残された者は誰に言うこともできない、そういう強制力が働くので、残された者はつらい。
      ただ、先生は、墓参りをして自分を慰めることになる。

      
  

夢と現実

2018-01-20 17:26:31 | 日記
  P・K・ディックの小説を読み終えたところ、彼の小説は読み終えたところでどよーんとした気分になれるので、それが好きで読んでいる。爽快感のようなものはなく、彼が書いた小説の未来と、現在がどう違っているか。それを考えるのも面白い。
  彼の話には、巨大な官僚機構、毎日、くだらない小説や、雑誌、TVドラマを見る人々。愚民は、政府のプロパガンダを信じて、真実は知らない。そういう道具だてが多いのだが、現実もそうだなと思う。小説は1960年代、70年代くらいに書かれたものだろうか。すでに50年以上が経っているが、すでにそのころからかわっていない。
  オーウェル1984のように大衆は管理される。マックス・ヴェーバーが言う鉄の檻に大衆は閉じ込められているのだが、むしろ、そのことを喜ぶような世界。1984のような世界になっているのだろうと思う。
  現実の大衆が好きななんとかランドは、待ち時間が数十分で、アトラクションを楽しむのは数分。キャラクターに入っているのは人間に過ぎないのに、真夏のさなかでもその姿、その上、その中にいる人間は使い捨て部品、時が来れば契約は打ち切り。キャラクターの中身は若者の夢を喰い物にする雇い止め、非正規の雇用関係。夏休みには、子供達や大人が喜んで、中にいる人のことは考えずに楽しんでいる。私には、想像力の欠如としか言い様がないが、多くの人がそれに満足している。
  この喜んで、その体制を受け入れているところ。私には悪夢のような世界に思えるのだが、多くの人はそれこそ、管理された鉄の檻による安心に満足している。