日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

価値 5

2010-10-31 17:19:35 | 私とは何か
 私を規定することは難しい。私は、立場であり、物の見方であり、受け止め方であり、反応である。
 私は刻々と変化しているが、総じて同じ私でもある。小学生の私も、高校生の私も、社会人の私も皆私である。
 何が私を継続させているのだろう。記憶なのであろうか。それとも規定された思考方法なのだろうか。
 私は今、泡で構成された社会の、一つの泡だ。泡は他の泡に影響を与え、泡が引き起こす振動は、他の泡へと波及していく。私の波及効果は小さなものだが、確かに波及効果を引き起こしている。
 この振動が、社会から見た私だろうか。私自身は、振動していようがいまいが、私として存在する。だが、振動なしに生き続けることはできない。私とは、社会の側から見た側面と、私の側から見た側面があるのか。
 社会の側から見た私は、私を役割、立場の側面から見た私であろう。この私は、自分自身では一側面に過ぎないが、社会の側から見ればこれが全てであり私に期待されていることだ。
 私から見た私は、もっと私的な存在だ。社会とは隔絶した価値の中で私を保ちたい。社会的な価値は尊敬に値するが、それは自尊心を満足させるが一時しのぎにすぎない。ではどのうような価値を私は私に求めているのか。
 私に対する価値を、社会的な評価を抜きにして定めることは難しい。風呂屋に行けば、どのような人も、ただの肉のあつまりにしか見えない。それが均整がとれているか、とれていないかその程度の差でしかない。外面的には人間の価値に相違はない。
 私が持つ多くの価値は、社会的側面を有した価値だろう。私が裸になって、社会に対して私の存在自体に価値があると、いくら叫んだところで無意味だ。誰も相手にしないだろう。
 私は、自身の価値を規定するときには、私自身が私に満足していることを価値とするほかないのではないだろうか。私は、私には不満足だ。不満を常に持っていること、これが私の価値だろうか。空しい気がするが、無から有を生み出しているような気がしないでもない。いつか違う満足を見つけることができれば、私というものをもっとうまく規定できるかもしれない。だが、満足を見つけるとすれば、そこで成長が止まるのかもしれない。あくなき成長への要求これに価値があるのか。ないのか。これも自分で決めるしかない。どちらに決めても、これが価値の根源なのかもしれない。
 この点は、いつかよく考えてみたい。
 
 先に、社会とは隔絶した価値と書いたが、そもそも価値とは社会的な存在ではないか。あくまで個人だけの価値というものを持つことが可能なのか。社会から隔絶した私的言語が存在できないように、社会から切り離して私的な価値を私自身が維持できるのだろうか。価値という言葉を使用している時点で、価値自体が社会性を帯びている。
 何が重要で、重要でないかを私の中で整理付けたとして、この階層は私の中に小さな社会を生み出すことになるのでは。この私の内の小さな社会が、社会とどう違うのか。
 社会から影響を受けない価値は有することはできないだろうし、影響がないことの立証のしようがない。
 社会的側面での私の価値(私への社会の評価と私が思っているもの)と、私が私的に私の価値と思っているものは互いに影響を与え、総じて私を構成しているのだろう。
 私が何か。これを解明、十分に説明することはできないだろうが、引き続き考えよう。
 
 
 
 

見方 4

2010-10-31 08:28:12 | 私とは何か
 私を私が観察することで、観察している私と観察された私、どちらも私だが、次元が一つ上の私が生まれてしまう。観察された私は、過去の私となってしまう。観察しているのは今であるので、過去の私を思い出しているに過ぎない。どうしても記憶の中の自分、想像上の自分しか見ることができない。自分の目で自分の目を見ることが出来ないのと同じだ。
 私を層の中の泡と考えると、私という人物の社会的位置づけ、精神的な位置づけができるが、これはリアルに出会う出来事ではない。私が持っている世界についての理解でしかないのだろう。
 私を見るには、私が出会う人の反応を見るのが良いのかもしれない。私が出会う人は、私に対して何らかの先入観、構え(固定概念)を持っているだろう。初めて出会う人であっても表情に私に対する意識が見えていることがある。よくよく出会う人物であれば、私に対する構えを十分に読みとくことができれば、それが私なのだろう。
 私に対して、無関心、好意、反感、尊敬、軽蔑、恐れ、信頼、期待いろんなものが交錯している。それらの他人の意識は、私が呼び起こした心象であって、そのすべてに私が責任を負うことはないが、その心象の発生の一因ではある。
 私が、他人に対して持っているこれらの心象も私だろう。
 私が持っている他人への心象は、一つのできごとで簡単に変化してしまう。これまで信頼していた人について、期待を一つ裏切られたと感じれば、怒りに変化する。
怒りがあれば復讐を考えることになる。
 この心象を色であらわすことができれば、刻々と変化する虹のような模様が生まれるのかもしれない。
 
 この心象は、私に対する他人が持つ評価を、私がさらに評価し発生している。とすれば、この心象を観察しても、私自身が行う私に対する評価が得られるだけか。
 これでは、つまるところ、観察している自分と、観察された自分が生まれてしまっている。この方法は一定他人の評価を交えたようだが、やはり私を外から見ることができたわけではない。観察した自分が観察された自分を正しく評価をしているという保証はない。むしろこの評価でさえ、自分の思考の枠である一定の構えを通してみていることは確かだ。
 他人の怒りや、侮蔑の反応を読み間違えることは少ないと思う。ただ、好意や喜びについては読み間違えることもあるだろう。
 観察方法としては、リアルタイムに近い自分の反応をよく見ることができるのは優れているが、これは一つの方法ではあるが私を規定するのには足りない。
 私を、他人との反応だけで説明することに無理があるのかもしれない。 
 
 
 

層と泡 3

2010-10-30 07:26:32 | 私とは何か
 私を場所や関係として考えるとどうだろう。
 私が見ている風景は、今は自分の部屋だ。この部屋の風景と音が全て、ドアを一つ開ければ、違う部屋に続いているが、ドアを開ければ、そこが月の上であろうが、水の中であろうがドアを開けない限り、本当にそこに自分の思っている部屋が続いているかは分からない。
 自分が移動すれば、違う風景が見え、確かに認識できる世界がある。高いところから町をみると、たくさんの家が見える。今、たくさんの家を見ているが、その家がどんな家かを見ようとすれば、その家の前まで訪ねて行き、よく見なくてはならない。望遠鏡があれば、それを使ってもいい。ただ、家の中を見たい。その家にどんな人が暮らしているのだろう。その家でどんなことを考えているのだろう。と思えば、突然だがその家の呼び鈴を押してみるしかない。
 こんな、やり方の訪問は実際にはできないが、普段自分がしている訪問は、自分が持つ社会との関係性の中での訪問だ。
 自分が興味を持つ(観光や趣味)、持たざるを得ないこと(仕事、さまざまな義務)へ訪問して行き、そこで世界を確認して、また自分の家、自分の部屋に帰っていく。
 多くの人が、自分の場所を移動しながら、世界を確認しつつ、他人の世界、場所と接触をしている。一般的な意味での世界は、個人的な認識上の世界(自分の場所、円形上の自分の影響力の範囲)が、個人を示す円を互いに重ねあわせ、その集合と考えられるのか。世界は個人を示す泡がいくつもいくつも重ねあって層をなし、層が違っていると、ある個人と個人は出会うこともない。この層は、上下もあれば、左右、前後もある層だ。
 旅行が楽しいのは、いつも自分がいている泡の層から抜け出して、違う泡の層へと突っ込むからかもしれない。今いている層は、男であり、日本人であり、労働者の層だ。この層は、好きに分類できるアイドルおたくの層でもいい。
 自分がいる層をどこにするか。今いる層を捨てて、違う層に突っ込で行くことが、冒険で、冒険からいつも自分が帰る層が決まっていればそこが、私なのかもしれない。この帰る層が、自分の家、部屋かもしれない。
 知的に冒険をしているなら、考えが最終的に帰ってくるところが自分が位置している層なのか。私の層は、何か悲しげな層だ。悲しむことを楽しんでいる層かもしれない。この層は、労働者というような分類ができない。これを名づけてしまうと自分をなんとか主義者とか言わなくてはならなくなってしまう。たぶんこの名づけをしてしまうことが宗教なのだろう。
 一度名づけてしまえば、その層は気持ちがいいものかもしれない。いつも帰る場所が決まっていて、そこに帰れば考えはまとまり、方向性を示すことができる。ただその層から、出て行くことは難しい。何せ、知的に帰ってくるところ決めてしまったものだから、帰ってきたところが正しいのかどうか何て考えようがない。
 
 世界は消えつつある泡のあつまり。また発生しつづける泡のあつまり、この泡の一つ、一つに価値がある。この泡一個の価値は、その泡を覗き込んでみないと、関係を持たないと分からない。実際に今も、自分の層と違うところで泡が消えたり、生まれたりしているはずだが、悲しくもうれしくもない。
 ただ、本当に身近にあった泡がなくなったときに、寂しさを感じるのかしれない。
 こう考えると自分は、泡なのか。どんな風に、この泡は消えていくのだろうか。
 層と泡まで考えたが、これでは私というにはまだ足りない。思考の枠を私とすることがいやで、私を考えたが思考する枠の泡ぐらいにしかなっていない。
 また続きを考えよう。 
 
 

世界 2

2010-10-29 06:01:33 | 私とは何か
 私が見る世界。私を構成する世界。私を構成する世界とは、私が眺める風景、風景には、言葉どおりの視覚を含めて私が理解する世界のことだ。
 世界は、私から見た世界しかない。反対に私を世界の側から見ることはできない。自分の目は自分で見ることはできない。
 私が見る世界は、私を規定する。学習によってこれまで世界の見方を規定され、言葉を使用して世界を見ている。日本語を使用して思考している以上、日本語で規定できる思考しかできない。世界によって、私は構成され、私は「私という思考する枠」を通して世界を見るしかない。
 私を規定するものはなんだろうか。私は、職業人であり、父であり、夫であり、子でもある。社会的な役割を自分自身と同一視することは、簡単な自己理解だ。物欲、権威、単純さを喜ぶ人はこれでOK。これ以上の私はいらないのかもしれない。
 「思考する枠としての私」は、決して社会的役割ではない。社会的役割はいつか喪失するし、喪失を恐れる限り、私は社会的役割を超えた視点を持つことできないだろう。
 ではどのような「私」を思考する枠とすればいいのだろう。私の個性だろうか。個性は、社会的に規定された結果にすぎないかもしれないし、社会的役割と変わりがないのかもしれない。私を規定するのに個性を持ち出しても同じ意味を違う言葉に置き換えただけだ。
 こうすると私を規定できるものなど、ないのかもしれない。私が空だとすることはできない。規定はできないが私は確かにある。少なくとも言葉を語っている。
 規定できないものが私だ。思考の枠で私を見ることが無理なのかもしれない。
 言葉で、考えるほかないが、言葉で私を示すこともできない。
 シンプルさを受け入れなければ、こんなことを考え続けなければならないのか。
 探し続ける意味もないのかもしれない。
 これが楽しくて探しているだけなのか。探すことが私なのか。
 もう少し時間をかけて考えていこう。やっぱり思考でしか「私」を語れないのか。
 「私」はことばでしかないのか。
 
 
 

わたし 1

2010-10-26 07:17:19 | 私とは何か
私って何だろう。
 
鏡なしに私が見える姿は、自分の手足くらい。目をつぶればどうなるか。
目を通して見えるところから、世界が見える。見えた世界が自分か。
 
視覚がなければ、音、思考が自分か。思考は自分だろうか。思考は言葉で成立しているが、言葉が自分となれば、自分を形成する論理が成立するのだろうか。
 
人は、言葉を成立させるのに論理だけで形成させているのではないだろう。
言葉を生み出す感情、感情も言葉で表現するが、感情は言葉ではない。
 
見える世界は、言葉に依存している。言葉、先入観なしにものを見ることはできない。
 
言葉と世界をつなぐものは何。世界と言葉をつなぐものは私だろうか。
感情、感覚と言葉と世界が私。
言葉をつなぎ、つむいでいく。