日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

人生の目的の在り方

2021-06-19 06:40:23 | 日記

    山本芳久氏「世界は善に満ちている。」を読んで自分が考えたことです。注意、以下は紹介でもありません。私が思った内容です。本の内容とも異なります。

    人生に潤いを与える物。愛する物。物から人に働きかけがあり、それを好きになる。そういう小さな愛、それで人生は豊かになる。この小さな事の積み重ねが大きな愛になる。

    人生の目的や生きる目的、そういう普遍的な問いは、時々、目の前の現実が気に入らないと考えたくなる。つまらない人生と考えて、人生の目的を探し続け、目の前の物を見ない。これは何も見つからない。

   普遍は、個物の中に無ければ何処にも無いのだろう。普遍が、何処か天上にあると考えると、人生の目的が天上の何処かにあると考える。普遍こそが真実と考えるのは、善そのものが何処かに存在する。至近に言うと、理想の「犬」が何処かに存在すると考えるようなものだ。「犬」そのものなど存在しない。普遍的な「人生の目的」を探すような事は、「犬」そのものを探す事に似ている。

   犬が、それぞれ現にいる犬、「ポチ」や「ハチ」であるように。「ポチ」や「ハチ」が犬であるように、人生の目的は、現にある物や出来事の中か、そのものにあるのだろう。その個物の抽象された結果が犬であったり、人生の目的と呼ばれることになるのだろう。

   目の前の個物や出来事に愛が無いなら、何処にも愛など存在しない。ただ、個物そのものは、人生の目的でない。ただ、それを愛することに人生の目的があるのだろうか。

 

 


時間は大切

2021-06-06 16:15:00 | 日記

  グーグルマップを使って懐かしい場所を見る。昔の職場だったり、子どもが小さかった時に行った場所、学生時代に行った先を眺めることができる。

  懐かしい気持ちになる。あの時は、つらかったとか楽しかったとか思い起こすことがある。思い起こすことにより、記憶が言語化されてより懐かしいという気持ちと結びつくのだろう。

  昔の記憶を辿ることは、おもしろいが失くしたものを再度、手に入れよう、味わおうとすることだ。一度、起こったことは過ぎ去ればもうもどらない。それを出来るだけ保持しようと、写真やビデオに残すのだろうが、そこには懐かしいという気持ちが残るだけだ。それを見て楽しむことは別に悪いことではないが、今はそこにはないと思う。

  時々、そうやって昔を懐かしんでいるのだが、大切な今があるわけでもない。この今が大切なことは自明のことだが、その今を大切に使っているわけでもない。時間をつぶしながら、何をしようかと考えることが多い。

  時間を大切に使うということは、どうすればそう言えるのだろうか。のんびり過ごしたら、時間を大切にしたことになるのだろうか。それとも、忙しく何か仕事をしていれば時間を大切に使うことになるのだろうか。

  時間は、無駄にしようが、大切にしようが勝手に過ぎていく。どのように抗うこともできず、ただ過ぎていく。取っておくことは出来ない。そのことを知っていても、そもそも何が無駄という基準すらがないだろう。

  人生は短い、やりたいことをやれた人は幸せな人だ。私は、自分の人生を見て、やりたいことをやったと言えない。出来なかったことがあるし、出来たこともある。その出来たことにとりあえず満足していこう。

  そう、そう言って、毎日をだましだまし暮らしているような気がする。