日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

実在というもの

2015-11-28 19:50:02 | 日記
  神は何故、悪を作ったか。キリスト教に関する本を読むと、よく出てくる話題なのだが、満足な答えはないように思う。一説は、神が存在する時には悪が存在していた。だから悪は神に起因しない。もう一説では、神は全能だから悪は神が作った。前者は、神が全能ではない、神の力の及ばない世界があることになる。後者は、全能だけど、何故悪を作ったのとなる。
  これを、神の存在を前提にして説明するのはどこかに矛盾が生じることになる。悪が存在するのは、人が悪と呼ぶもの、対象、概念を作ったから悪が存在するのであって、悪そのものは存在しない。こう考えると、すっきりするのだが、信仰上はこのような考えは肯定できないのだろう。
  中世に普遍論争というものが巻き起こるが、普遍は存在するかしないか、普遍とは名称に過ぎないのか、実在するのか、という議論である。「薔薇」は名称であって、「薔薇」そのものは存在しない。「薔薇」そのものがあるという人は、その「薔薇」が何色をしているか説明できるか考えてみれば良い。普遍論争とはこのような議論を指すのだが、悪の次元も悪と言う普遍は存在しない。悪とは名称に過ぎないと言えば、分かりやすいだろうか。
  いや、悪は確かに存在するという人もいるだろう。私も、ある意味で悪は存在していると考えているが、その存在のレベルが、悪は普遍(普遍が名称であったり、概念とする立場から)として存在するのであって、具体な実在ではないと考えているのだ。
  実在のレベルでこれが悪というものは、存在しない。人はそれぞれの事象を見て、悪と呼んでいるのだ。物理現象自体は、悪でも善でもない。これを起こす人の行為、意思を悪と呼んでいるに過ぎない。
  では、善も存在しないのか。これも悪と同レベルの存在と考えている。ある意味存在しているのだが、実在ではない。
  現実に、私が実在を信じている物も、相当に言語を通して実在を認めているのだから、実在と言っても厳密にどこからが実在と言えるかは難しい。カミオカンデで見つけた素粒子なんかは実在なのだろうが、あらゆるものを素粒子レベルまで分解して実在を捉えることは、人にはできない。むしろ、素粒子レベルの実在の方が、常識的な認識を超えている理論的な存在のようにしか見えない。人は、実在を認めるには、どこか概念でくくった存在を言葉の上に認めるしかない。
  その存在の中に悪や善を認める人は、悪や善は実在するというだろうし、そこまで実在を抽象的にとらえない人は、私のように悪や善は実在ではないというだろう。
  実在の抽象性、この抽象のレベルをどこまで認めるか、悪や善の実在を認める人は、神の実在を認めることになるのだろう。信仰と認識を完全に切り離す人は、必ずしもこうとは言えないかもしれないが、悪と善の存在と神の存在は同一の軸の上にあるように思う。悪や善の中で、中に神を人は見出すのだろうと思う。
  このことを考える時、よく思い出すのがジョンレノンの「イマジン」だ。彼は、天国も地獄も存在しない。空が存在するだけだと、そして皆が今日を生きてると言う。私が考える実在のレベルというのは、こんなもののような気がする。
  

  








久しぶりのCDを聴く

2015-11-22 08:38:17 | 日記
  20年ぶりにカラヤンのベートーベンの交響曲第4番を聴いた。昔に数回聴いて、そのままにとなっていたのだが、ふと目についたので聴いてみた。
  20年以上前に買ったのだが、今でも楽しめるのが面白い。古いや新しいというのが、ほぼない。古くても、見劣りしないどころか、今よりいいんじゃないかと思う。
  カラヤンも、晩年はオーケストラともめて、ウィーンフィルで指揮をしているが、やはりベルリンのカラヤンの方が覇気があって良い。晩年のウィーンフィルブルックナーの演奏もいいんだけど、枯れているというか逍遥とした音楽になったような気がする。
  この人の音楽を聴くといつも思うのだが、栄枯盛衰、初期の頃の元気いっぱいと、晩年の枯れた感じ、そして音楽には、何か曲のイデア、理想形を追い求めているかのような感がある。独特の世界観があるのだろうと思う。
  その世界も、この人が亡くなったことによって失われ、記録だけが残っている。多くの人が亡くなるが、その人の見識、技能というものはその人にしか属さない。その人が亡くなると、一つの世界が終焉することになる。その情報量は膨大なものがあるのだが失われるだけだ。一部は、波紋のように共通世界、人の知識に残っていくのだろうが。この失われていく世界は、ただ失われるだけ。そこに永続性はない。だからこそ、生命なのだと思う。
  何らかの名前や、記録で永続すること、子供が残ることもそうだが、本当はそこに永続はない。世界は断絶している。あなたの属する世界と、子供が属する世界は全く別のものなのだ。失われる世界は、あなたの世界でしかない。 
  一つの世界を泡に例えるのなら、共通世界というものは無数の泡が同じ地平上にひしめいている。そこには、消える泡に、生まれる泡がある。
  カラヤンは、泡の一つなのだが、他の泡に自分の泡のコピー、小さな一つを落とし込んだのだろう。世界は、他の世界にも影響を与えることができる。だが、永続することはできない。演奏される音楽のようなものだ。



人生の意味

2015-11-14 17:07:28 | 人生の意味

  人生の意味が、行為の後についてくる。行為は一つ一つに意味があり、行為の後に意味が付与される。付与される意味は、人が付けるものだ。この意味では、一つの物語がなされることになる。分かりにくければ、解釈がくだされ、それが言葉になる。意味は人がつけるものであって、何か意味を付ける前に意味なるものが存在するわけではない。こういう意味では、意味は実在ではない。一つの語りなのだ。

  人生に意味があるとすれば、それは実在ではなく、一つの語りである。人生の意味なるものが、初めから実在するのでなく、その人の人生に対する語り、それが人生の意味になる。私の人生に意味があるのか、ないのか、そういうことを考えても、語る者がいなければ、意味は存在しない。語られる者が有名人であるならば、語る者も多数いるだろう。それぞれに意味を語ることになり、その数だけ意味が存在する。私は有名人ではないので語る者はほとんどいない。私自身が私について語ることになるだろう。それも独白のようなものだ。
  他人が私について語る人生の意味など、無意味なものだ。私の独白は、私が聴くことになるのだが、これが私が私の人生についての意味を付与することになるのだろう。
  私が人生について、何か意味を付与するとき、そのときは行為について意味を付与するわけだが、まず行為があり、それについて意味を付与していくことになる。人生で何かの意味をなすために、何かをする訳ではない。生きること、それ自体が行為なのであり、目的なのだ。
  私は、生というもの自体には、先に言うように意味があるとは思わない。生における行為、これが意味を持つ。私がしたこと、行為とは何らかの意味を有さざるを得ない。人は、過去を見れば必ずそこに意味を照らしだす。照らし出された意味こそが、私の人生の意味となる。
  私が、過去を見る時、多くの過去が忘却の彼方にある。忘却した過去は意味を失い、思い出された過去だけが意味を持つ、現在は過去の積み重ねから現在の環境というものがあるので、次々とある行為は過去の積み重ねでもある。そして回想可能な過去が意味を新たに持つことになり、時間は継続していく。
  いつかは、私が消滅することは必然のことであり、意味をいつまでも持ち続けることはできない。人生の意味を持つのは、私の人生の間、すなわち行為の間でしかない。この意味で、私の人生の意味は、生きる行為の後に、意味が続いていくものだ。
  大きな人生の目的や、生きる目的、生きることの意味というものは、存在しない、そう考えると何か気が楽になるような気がするが、勘違いなのであろうか。私には、人生を何か他人に与えられる、教えてもらうような意味よりも、そのようなものなど初めからないと考える方が平和なように思う。
 
 
 

意味と目的

2015-11-13 22:57:14 | 人生の意味

  今日、電車でハンナ・アーレントを読んでいたのだが、彼女の指摘に意味と目的の同一視ということがあった。

  意味は、行為の意味であり、意味は行為の後に生じる。そのことは、目的と同じではない。何らかの目的のために行為をしているという理解は、あらゆる行為は意味を持つのだが、その意味がとたんに目的、最終の目的にすりかえられる。塗り替えられると言ってもいいだろう。行為は、人が後から見て、何か意味を考えるのだが、それが未来へと眼を向けたとたんに、意味は目的に転化する。目的は、成就すれば、新しい目的へと向かう。成就した目的は手段へと格下げがなされ、より上位の目的の手段になる。
  意味は、同様に目的と化した時にその意味を失う。私の人生の意味を考えるのは、私が死んだ後、私以外の人が考えてくれるかもしれないし、自分が死ぬ間際に回想するのかもしれない。私の人生の行為は何らかの意味を付与されるのだ。しかし、私の人生の目的を考える時、私の人生の行為の一つ一つの意味は失われ、何らかの目的への手段であったと、より高次の目的が私の人生の意味、それは目的への手段に過ぎなくなる。
  私が、現在や過去のまなざしを持つ時、私の人生の意味を考える、付与することができるだろう。私が、未来へのまなざし、未来に何らかの目的があるとした時に、私の人生はこの目的の手段へと化す。
  私の人生は、何かの手段であるとは思わない。私の生そのものが目的であり、意味である。これよりも、高次の目的や意味を考える時、私の人生の意味は失われるであろう。
  私の人生の意味が何であるかは、私の行為によって後に評価されるのだろう。その前方に何か目的があるというのは、イカロスの望みのようなものかもしれない。
  

フォカッチャの準備中

2015-11-08 11:47:58 | 日記
  今、フォカッチャ(イタリア風のピザの具のないようなパン)を準備している。休みの昼は、よくピザかフォカッチャを自分で焼いて食べる。
  フォカッチャとピザの生地は、うちでは共用、薄く延ばして焼けば、ピザ、パンのように焼けばフォカッチャになる。
焼く温度をフォカッチャの場合、220度程度に下げて焼くのでよりふっくらと仕上げるようにしている。
  具は玉ねぎのスライスか、ローズマリー、凝っている時はナスをグリルしたものをのせる。
  焼きたてのフォカッチャにワインがあれば、それで満足の行く料理になる。付け合せに色々とある方が良いのは良いが、焼きたてを食べようと思うと余計な料理は作れない。
  休日の午後は、こうして過ぎていく。ワインを飲んで食べてお腹が満たされると、ゆっくりしたくなるので、気がつくと夕方になる。
  先に、ワインを飲んでいるので、夕食は大体が軽くなる。この季節だと湯豆腐か、鶏の水炊きなんかをすることになる。
  今日は雨が降っているので、外に出かけることもしない。休日に家に居ていると、もったいない気がしたりするのだが、雨だと初めからあきらめがつくので、これはこれでよい。特別なことはしないのだが、こうしてゆっくり過ごす休日があるというのは良いことだ。
  何故か、休日は何かしなければならないとか、もったいないと思うことが多い。根が貧乏性なのだろう。時間を無駄にするという罪悪感、誰に対する罪悪感なのか。ウェーバー言うプロテスタント倫理でもあるのか。日本人は、勤勉なのだろう。この自分に対する罪悪感とは、どういう種類のものなのだろう。こういう感覚を全くもたない人もいるのだろうか。
  何もしないことの寂しさ、この寂しさが罪悪感の原因なのかもしれない。