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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

人の暮らし

2018-10-22 18:18:49 | 日記
    自転車で、河川堤防の上を走る。堤防から見ると、大きなビルがいくつも見える。あの窓の一つ一つに、人が働いたり、人が住み暮らしがある。それが、ざっと見ただけでも何万人分もあるのだろうと思う。一方では、こせこせと背中を張り合わす様に建つ老朽化した一軒家が並ぶところ。ビルの最上階に住む人もいれば、その足元に暮らす人もいる。どちらも、私には見えないがその人の生活がある。
    私自身も、そんな見えない人の一人なのだが、見渡す限りにどこかに人がいるが、私と関係しているわけでもない。今、そこで私一人がいなくなっても誰も気がつかないだろう。そういう私が、この何万人がいる世界、広い世界の中に視点として存在している。この視点が、無くても世界は相変わらず存在するだろう。自分が取るに足りない一人だと思う。
    多くの人が互いにそういう存在なのだと、有名でもなくつまらないことに苦心して暮らしている。消えてもほとんどの人が気がつかない。多少、有名な者でも何年かすれば忘れられる。

責任とは

2018-09-17 12:04:42 | 日記
  責任とは何だろうと思うことが多い。下の子と、上の子が大学院を卒業するまでは親業をがんばろうと思う。親業と言っても金銭的責任の負担ぐらいだが、子も、後は自分の判断で生きていくだろうという歳だ。
  この後、私は何を目標に暮らすのだろうか。子の成功とか、成長をみるとかではない。そういうことは、二次的なことだ。自分の目標が何か、よく分からない。自分の価値観、生活を持っていないと子に迷惑をかけることになるだろう。
  責任があるということについて、多くの人はいろんな責任が自分にあると思っているだろう。最近、そんなものはあまり無いのではないかと思うようになった。
  契約についての責任、そういうものはあるだろうと思う。ただ、勝手に思い込んでいる「夫として、親として、子として」そういうものについての責任、社会における責任、そういう類のものだ。責任がどこに実在するかと言えば、頭の中にしかない。観念的にそういうものがあると思い込んでいるのだが、本当にあるだろうか。
  最近、人はもう少し自由なものではないかと思うようになった。思い込みでこうだと思っている、だけど、実は自分の思い込みでしかない人を見ていると、滑稽なのだが、そういう類のことが責任にもあるのだろうと思う。
  例えば、憲法改正論者は自分には責任があるとか言いそうなのだが、誰も、自分に対してそんな責任などないだろう。あるとすれば、欲望と思い込みがあるのだろうと思う。その思い込みが社会的に正しいのか誤っているのかはあるのだろうが、どちらにしても、それは責任というものではないと思う。
  自分の期待や、思考の傾向性、そういうものを人は責任と名づけているように思う。私は、責任という物はできるだけ捨てるのが良いのだろうと思うようになった。そのようなものは、自分の期待なのだろう。
  多くを期待すると、そこに依存が生じる。そして人を批難するようになるだろう。
  そこに義務があるのか。私達は、もう少し自由になることができるのではないかと思う。





心はどこにあるか

2018-08-05 17:54:52 | 日記
  「物事は、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。」中村元訳、岩波文庫[真理の言葉]より。
 
  心の外に、物理的世界があるが、素のままの世界に、私は住んでいるけど、私は、心を通してしか体験できない。
  人は、自分が見たものを見たい方向をつけて見て、世界はこうだ。と決めている。物理的な世界には、良いことも、悪いことも、それどころか、出来事と言えるような文節さえないだろう。時間が経過するとしても、時間を計る人がいない、若しくは視点、基準がないのでは何も経過などしない。
  こんな素のままの世界に生きているんだけど、心にある世界があるおかげで、出来事が生じては消える。
  心に起きる出来事は、物理的な世界を反映しているけど、見方を決めているのは私。日本語のコードに従って、他者の言うことを、私の脳内にある私専用辞書を使って、他人の言葉を私の理解する日本語に翻訳する。世界の風景も、私専用辞書の元に構成された風景として映る。
  世界は、私の心に映り、私の辞書の下で理解される。世界を私は、私の相の下で見ているけど、普段の生活では、そのことを忘れている。
  私の心が正しくなければ、見える世界は正しく見えないだろう。もっとも、正しい心の基準がどこにあるのかは言えないけれど。
  私が作り出した出来事は、わたしの心の中にある。そのとおりだなと思う。そして、当てに出来ないのが、自分だけど、当てにするのは、自分しかいない。
  
  


欲しいもの。

2018-06-23 17:18:32 | 日記
  この前、ジョージセルのベートーベン全集を欲しいと思っていたが、結局、買わず。
  カラヤンのベートーベン全集が欲しいと思った。結局、買わず。
  次はカラヤンブルックナーの前期交響曲集が欲しいと思っている。これは現在進行形。
  欲しいものがある時は、それが欲しいのだが一過性の性質が強い。後で、買っとけば良かったと思うことも結構あるのだが、その調子で買っていると財政破綻するのは明らかだ。
  欲しいものは、自分でそれを欲しいように、思考が働いていくのだろうかと思う。主観的に考えると欲しいのだが、客観的視点に立つとそんなに必要ない。必要性という意味では、全集なんて要らない。
  基本的に、収入が少ないので求めるものは少なくという生活をしている。収入に見合う支出、そうすれば、苦労も減るというわけだ。
  求めるものが多いと、それを入手するのに多くの苦労がかかる。多くの苦労がかかれば、求めるものも多くなる。
  何のために、お金を儲けるのか。多くのものを買うため。何のために多くのものを買うのか、それはお金を儲けるため。多くの苦労をすれば、旅行や食事でストレスを発散したくなるし、いい気分になりたい。それはお金を要する。そういう気分を味わうにはお金がいる。
  何のためにということを考えると、人間がやっていることは循環論法に陥るのだろうと思う。それは、究極の目的というようなものは人生にないから。そのために、何かをするということがない。何かは、何かのためであり。目的を尋ねる限りこの連鎖に陥る。
  求めるものが少なければ、それで満足できるのだろうか。これはある意味、消費を基調とした社会性から逸脱する行為なのだろうと思う。出世についても求めることが少なければ、社会的評価も必要ない。自己完結型満足なのだ。
  哲学者の幸福は、観想にあるようなことを昔の偉い人が言っていたと思うが、こういう観想は幸せなのだろうか。確かに、求めるところが少なければ、悩みも少ない。
  これは、幸せなのだろうか。そう思えるほど、無欲にもなれない。
  




主観と客観

2018-05-05 17:33:30 | 日記
  連休も、明日でお終い。連休中は、トマス・ネーゲルの論文集を読んでいた。
  自分の理解をまとめるために、トマス・ネーゲルの読書感想を少し書こうと思う。
  彼は、主観と客観性について語っているのだが、概略は以下の感じ。正確な理解ではないと思うので、興味のある場合は、直接、彼の本を読んで欲しい。
  客観性と主観性は、人が持つ視点の両極にある。視点が二つというよりは、同じ視点の両端にあるようなイメージ、彼の表現ではないが、左目と右目で遠近感があるように見えるように、両極から物事を見ることができて初めて、ものを正しく見ることできる。
  世界は、客観的に存在するものや、事実というものがある。それは、主観的な視点から捉えたものや、事実とは異なる。事実は、主観とは別のところに客観的事実というものがあるように思える。
  が、客観的なものの見方というものも、主観から離れて見ることができているわけではない。主観側よりも客観側に寄って見る状態にあるその程度、人が見る以上、人の視点を離れているわけではない。物理学の数式のような表現によっても、それは程度の問題であり、完全な客観性を得ている訳ではない。
  世界は、主観が提供しているように見えるということも、これも一つの事実。木の葉っぱが緑色に見えるのは、人間の主観的な現象なのだが、(虫や犬ならば、違ったように見えよう。)この主観的な視点で起こっている、見え方というものも、客観的に存在すると言える。そうでないならば、人間の世界に色はない。
  世界の側に、色というものがないとしても、人の世界に色があるのは、それ自体を認める必要がある。絶対に、人間の手が届かない神の視点があると考えると、それが究極的な事実のように思えるが、それよりも、主観を含めた色のある世界というものを客観的に認めよう。
  客観的に考えると、人生は空しい。主観の世界では、世界からみれば実につまらない出来事を大層な一大事と考えている。これも、遠近法で、どちらの視点も必要。生きるためには、主観が必要なのだ。ところが、主観に拘泥していると、実につまらないことを気に病むことになる。世界から見れば、自分の失敗など、大した出来事ではない。そう考えることも必要。要は、バランス感覚なのだ。
  まあ、大体、こういう感じのことが書いてあったように思うのだが、このあたりデヴィッドソンの意見で、人が見て存在していると考えるものが事実ということは確率的に確からしい。妄想や、幻覚であることは、なくはないが、確率的に低いことなので、多数の者で観測できる多くのことは、現実と考えないと、確率的に起こりえないようなことを考えることになるので、それよりは、その場合は事実と考えよう。そういう意見に何か、似ているところがある。どこが似ているかは、よく考えていないのだが直感的に共通するところがあるように思う。客観性の基準をデイヴィッドソンが言及しているということなのだろうか。このあたりは、いつかまた意見をまとめようと思う。

  以下は感想
  自分の人生を見て、実に空しいものがあると感じることがある。年齢的に総括できるような歳、予想がつく歳に立って、そう客観的視点に立つとそう思える。
  主観的立場では、その空しい人生において一喜一憂してあたふたしているのだが。
  客観的立場に立てば、それでも生活するために、自分には当面やらなくてはいけないことはある。主観的にはそれに満足しておこう。

彼の本 「コウモリであるとはどのようなことか」、「どこからでもないところからの眺め」
どちらの本も、かなり難しい。私は、言っていることの半分もしくはその半分も理解できていないと思う。
でも、細部は読み飛ばしても、なんとなく言いたいであろうことは分かる(気がする)。誤解している可能性も結構あるが、それは読み返ししての、自分の理解の不足と間違い探しと思えばそれで良いと思う。
題名が面白いので、興味が出て買っただが、気力が続けばけっこう面白い。