世界を見る自分と、世界の中にいる自分、どちらも同じ自分。主観的な私と、客観的に私を見るそれも主観的な私。つまるところ、私が世界の中の中心にいる。
こう思うと、世界は私の中にあると思うのだが、世界は私の思うようにならないことばかりだ。私が思いどおりにできることは少ない。私の世界は、私と共にあり私の終焉とともに消滅する。一方で、私を除いた世界というものが、私の終焉と関係なく継続するであろうことも信じている。
私の存在は、物質としての私を基礎としているので、物質的な世界に含まれていることは当然だ。ただ、私は物質的存在というよりも、意識としての私が、私は存在していると考えている。私の体と、誰かの体が入れ替わる映画が大ヒットしたが、私は物質でなく、意識として捉えられていることの証左だろう。
私の意識が世界を認めているのだが、その世界には意識などといいうものはない。世界は、単純に物質的なものだろう。そこに、私という意識が存在して、様々な物質に価値というものを想像し、付加して創造をしている。世界における様々な事象に価値をつけて、一喜一憂している。多くのことが、想像したもの、抽象物だ。
世界の物質的な面に、そこから、人は名づけを行い、抽象化、区分が生じている。何かを一個とカウントするのに、何か名前をつける。そこに抽象化、区分がある。
言葉を使うところから、世界は抽象化され、そこに意味が付与され、意味があるところに価値が生じる。生じた価値を実在と捉え、世界は物資的な性質から、価値というような意識の性質を持つようになる。
世界に、何が存在しているか。世界を、言葉を介して知ることにより、様々な価値あるものが、言葉の次元で生じている。そう、例えば、主義や主張のようなものも一つの実在として存在するようになり、そこにこそ価値があるものと思うようになる。
価値というようなものは、物質的側面にはない。価値が存在しているのは、意識の側にある。世界に何が存在しているかを問うと、物や出来事に、どこまでの抽象化や概念を存在として認めるのが妥当か。そういう程度の問題になる。薔薇が存在しているのか、赤色は存在しているのか、民主主義は存在しているのか。
意識の側にある価値というものも儚いものだ。私の終焉とともに価値は消失する。価値ある物が私以外の誰かに相続されて継続されるというのは、私の気休めだ。物は、私より後に残るだろうが、私が置いた価値が相続されるわけでもない。価値は、人それぞれが、与えられたものを信用するか、作り出すだけだ。
この意識の中で価値を求めて、人生を四苦八苦しているわけだ。そして、何か満足するものを見つけようとしている。路傍の石にでも、満足すれば私は満足できるわけだ。そして、それは誰が文句をいう筋合いでもないし、むしろ、誰も何も言わないだろう。