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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

人の真似をしないとは

2018-01-14 12:10:42 | 日記
  成人式のニュースをしていたのだが、インタビューで新成人が「他人の真似をしない人」になると、言っていた。妙に、それが気になるのでここにメモしておこう。
  彼は、かなり奇抜な服装をしていたが、彼のまわりの人々も同様の格好、その地域では地域ごとに衣装をそろえて集まるそうだ。かなり郷土愛の強い地域。
  彼の服装は奇抜なのだが、周りが、皆、奇抜なので、その地域では標準化されてしまっている。奇抜さも、一つの記号化、その奇抜な服装がヤンキーの象徴のようになっており、その象徴の範囲内の服装なのだ。
  彼は、そういう服装の話をしているのではないのかもしれない。生きる上での指針のようなものを言いたい、伝えたかったのかもしれない。
  成人式に出席するという行為が一つの枠の範囲、その中で奇抜な服装をするというのも一つの枠、これにすっと納まっているのだ。とりあえず、成人式については、人の真似をしないという行為や目標の範疇外であろうと思う。
  日常生活において、円滑に暮らすならば、定型のことをしなければならない。出勤時間や挨拶は欠かせないだろう。買い物ではレジにはならばなければならないし、お金を支払わなければならない。
  彼が言いたい人の真似をしないというのは、日常生活を送るのに必要な習慣のことではないのだろう。何か、重大なことについて、人の真似をしないということなのだと思うのだが、考えてみるとそれが何であるのか思いつかない。
  出世したいとか、名声を得たい。逆に清廉に生きたいとか、考えても人の真似にならざるを得ない。先達は、大概のことはやってしまっている。自分がやりたいことをすればいいと考えると、自分のやりたいことが人の真似でないと言えるのだろうかと思う。それを意識せずにやれば人の真似ではないのだろうか。
  終局的に言えば、自分が決定した行為は、他人の強制があったとしても最終的には自分がやると選択した結果、つまりその判断をした際には自分がやりたいことを結局やっているのではとも思う。そう考えてしまうと誰もが、自分のやりたいことをやっている。環境的制限はあっても、自分が選択したこと以外に自分ができることはない。
  自分の意識のもとに、自主的に決定したことも、他人の影響がないとどうして言えるのだろうか。影響はあっても、真似ではないと言えるのだろうか。真似と真似でないことの境界というのは、線としては引けないのだろう。ぼかした雲のように、雲と空の間のどこが境界かわからないように。
  では、本当に自分が愛しているということをすると考えるとどうだろう。例えば、私自身は、本当に愛していることを仕事にしているのではない。金銭や環境がそろうなら違う仕事でいい。本当に自分が愛していることなら、他人がしていても、他人がするのを見てそれが良いと考えても、真似ではないのではないだろうか。ここにオリジナリティがあるような気がする。
  でも、かなりこれが難しいだろうなと思う。
 
  


第9の感想

2017-12-31 09:17:10 | 日記
  昨日は、第9を聴きに行ってきた。妻と上の子と3人。私はクラシックファンなのだが、妻と子はそうでもない。だが、妻も子も第9だけは好きなようだ。さすが、万人受けするだけのことはある。名曲なのは間違いないのだが、私は第4楽章が冗長で、テナー独唱前のプ、プっとふざけた笛の音が入るところからが、私は嫌いなので普段は聴かない。
  二人に感想を訊いてみると、よく聴いているじゃないということを言ったのでびっくりした。前日に、フルトヴェングラーのCDを十数年ぶりくらいだろうか、取り出してかけていたのだが、、、聴いていたのと違うとのこと。
 そら、色々、違うだろうと思ったが、黙っていた。昨日は、もっと軽快で、抑制のとれた演奏をしていたと思うのだが、そういう演奏の緩急もよく理解しているようだった。
  毎年、第9に行くのがいつまで続くか分からないが、行けるだけいこうと思う。オーケストラ存続のための支援にもなるし、クラシックの演奏を聴く機会も、そうそうないだろう。一つは、妻や子やの財産になるだろうと思う。何の役に立つというものでもないのだが。これも、私の勝手な期待というか、思いたいということだけかもしれないが。
  昨日は、3人で上着を取りにクロークで待っていると、中肉中背に立派な顎鬚、暴れたような髪型に頭頂が少し薄くなった男が前にいた。妻に、「ブラームスがいるよ」と、そっと言うと妻も分かったようで笑っていた。つまらないことだが、少しのおまけもあったので良い演奏会だったと思う。

  

プリンを作る。

2017-12-29 16:35:15 | 日記
  今日は、朝からプリンを焼いた。これまでにも何度か焼いているので、簡単と考えていたが、湯煎のケースの変更と、作る量を増やしたことで焼き加減がきまらず、焼き直しをして何とかおさまった。
  子どもの頃、プリンは憧れで給食のメニューで食べるくらいで、そうそう家では買っていなかった。今では買うこともできるし、作ることもできる。
  私が子どもに残してやれるものは少ない。そう尊敬できるような人格者でなし、出世をしているのでなし、まあ、味の記憶だけでも残してやりたい、何か私を思いだすこともあるだろう。

因果関係について めも

2017-12-28 17:23:26 | 日記
  上の子は塾で講師のバイトをしているのだが、入試試験の国語の問題に因果関係についての評論があり、この評論の一部について分からないところがあるということだった。
  読んでみると、因果関係は二つの連続する出来事であるが経験的に同じ現象が何度か続くとそこに次も同じことが起きると習慣としてみるようになるという理解、一方では連続する出来事同士の関係とみるのではなく、出来事それ自体の関係性でなく、出来事の認識とそれに続く出来事の認識との間の関係とみる。そのようなことが書いてあった。
  大学の入試でこれを読んで理解できる高校生がいるのだろうか。出来事それ自体と、出来事についての認識を区別するような考えについていける人は少ないのではないかと思う。
  ここを突き詰めると、出来事それ自体(実在)と、認識が異なる可能性を認めることになるのだから、見ているものが実在と考えると、到底、理解できないことだと思う。
  出来事と出来事があって、実在と実在の間に関係性があるのか、それとも人間の意識の中で関係性が生じているのか。
  どちらであるのかは、結局、判別できないだろう、実在と意識は連続するもの、実在の裏づけ若しくは反映のない意識は存在し得ないし、意識が関与しない実在というものも認知しえないもの。実在と意識の境界がどこにあるのかは、ぼんやりとした雲のように境界そのものが線を引くようにできるものではないのだろうと思う。
  私が生きていく上で、実在が反映した世界が自分の今見ている世界そのように思うしかないのだろうと思う。そういう意味では、これまでの実在した出来事の反映が今の自分の世界だろう。そしてその世界は実在だろうし、その上で過去が因果的に存在したのであろうと思う。
  

実在について

2017-10-29 16:01:32 | 日記
  何が存在するかを考えることは、案外難しい。今、部屋ではブラームス交響曲第2番が流れているのだが、ブラームス交響曲第2番は、存在するのだろうか。
  ブラームス交響曲に、第5番は存在しない。彼は4曲しか交響曲を書いていないからだ。一方、ブラームス交響曲第2番は存在する。どこに、存在するのと聞かれると、どこという場所にはない。CDの中に存在しているわけでもない。かなり抽象的な意味で存在しているのだ。
  大阪フィルでも、ベルリンフィルでもいいのだが、その演奏に存在しているのだろうか。この場合、40分程度の時間において存在しているというのだろうか。音は、消えては表れる。この音の連続、空気の振るえの時空的な存在がブラームス交響曲第2番なのだろうか。それとも、楽譜の全体がブラームス交響曲第2番なのだろうか。
  ブラームス交響曲第2番が存在していると考えているのは常識的な考えなのだが、ふと考えるどういう意味で存在しているのだろうと思う。
  ある演奏、出来事として存在しているという風にも思えるが、一方で誰も演奏していない時でもやはりブラームス交響曲第2番は存在しているというのが、常識的な考え方のように思う。多くの人の常識の中に存在していると考えるのだろうか。ブラームス交響曲第2番は概念上の存在であり、実在ではないとそう考えるのか。一方で、ブラームスのCDは実在だが、その内容は実在ではない。
  安易にブラームスのと、言ったが、そう「ブラームス」は過去の人、今はいない。このCDというのもそう呼んでいるがCDは実在かというと、「CD」というのは規格の名前だ。
  そうすると、実在って考えていくと、世の中にあるもので実在と言っているものの多くが分解、瓦解していくように思う。