日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

優秀という気持ち

2016-10-22 06:51:03 | 日記
  自分が優秀だと人は思いたいのだろう。どこかにそういう気持ちがある。外の人とは違うんだと。誰も似たようなもんだと思うのだが。金がある人はそれではっきりと周りの人とは違うと言える。実際に他人ができない贅沢をしていることが自分で見ることができるから。
  金がない人、自分のことだが、そういう人は違うところで、他人とは違うと言って自分を褒める。どこかに自分を褒めるところがないと、生きるよすががない。立つ瀬と言ってもいいだろう。自分のテリトリーそのようなもの、実際に生きる場面、環境であるわけだが、そういうものがないと。ここが自分の場所だといえるところが欲しいのだと思う。
  でも、実際にそのような場所があるわけではない。皆、そう思い込んでいるのだが。そのような場所は、仮の住まいでしかない。そこにあると思っていても移ろいゆくものでしかない。自分の場所は、物理的に居ている場所が自分の場所であるに過ぎない。心理的にそこが自分の場所と考えても、その場所もいつかは、自分ひとりになるだろう。現実にそこに、自分の心の中にいるのは自分でしかないのだから。そこに住んでいると思う他人は自分の写し、期待のようなものだろう。
  そうすると、自分の1人であることの寂しさを忘れるために、自分が1人でないかのように人と話し、共感というものを期待する。そして、そのことに自分を慰める。共感でなくてもいい。そこに敵を見つけることもできるだろう。それに夢中になっている間は、自分が1人であることを忘れることができるのだから。共感であれ敵であれ、何か自分がなすべきことを見つけた気になることができるのだから。
  そこにある自分がなすべきことをなすことで、自分は優秀とか、褒めるとか、自分の生きる場所を見つけるだろう。それも、自分というものを支える支点のようなもの。それが自分は優秀という思いなのかと思う。
   そういう自分の思い込みたい気持ちを忘れる方が、いっそ楽なんだろうと思う。立つ瀬がない、人生そういうものだと、川に浮かぶ葉っぱのようなものだと。もとよりどこに流れているか誰にも分からないようなものだから。
  何が満足で、何が不満か、自分が満足するものも、それも、自分ひとりの話、どこかに基準があるわけでもない。人からつまらないと言われても、それはそれで満足していくことだと思う。そこで満足するために、帰って、自分は優秀、人とは違うのだという気持ちになるのだろう。




存在するもの

2016-10-09 08:51:52 | 日記
  世の中に、というか自分が世界と思っているもののうち、本当に存在するものは何かということを考えると、ほぼ何もないんじゃないか、というか原子、電子、素粒子のようなものが存在するだけの物理的な世界。
  実際に、人の眼で素粒子が見えるわけでないので、そういうものがあると信じているだけ。科学を信頼して、素粒子が存在することを信じているけど、私の知識で立証できるわけでも何もない。
  実在するものが素粒子だと思うと、世界の側にこれ以上に何かが存在するわけでもなくて、ものに名をつけている人間の側が存在するものを区分しているだけ、世界の側に区分される何かがあるわけではないように思う。
  そうすると、色んなものが存在すると思っているけど、実際の存在はもっとシンプルで何もないというのが、本当のところかもしれない。色んな制度、法律や国家、社会の枠組み的なものは、全て実は存在していない。存在していると考えるのは、人間の空想力の産物が存在している。出来事だとか、歴史というものは、空想力の産物、そういうことがあったという事を否定するわけではなくて、今あるわけではないので、過去にあったことを空想、イメージしてそれがあったということを信じているというわけ。
  そう考えると、世の中にあるもので本当にあるものなんて、イメージの産物、そのイメージを得るために皆、奮闘しているのだと思う。美味しいお肉だとか、ご飯というものはイメージでなくて、食べると美味しい、住み心地の良い家とかそういうものを手に入れるために奮闘しているのだと言う人もいるだろう。それは、本当に存在していると思う。確かに違いはある。それが、どれくらいの違いなのだろう。色んな物に囲まれて、一生手が届かないものもたくさんある。それを手にするのと、手にしないのとどう違うのだろうか。そこにもイメージがやはりあるんじゃないかと思う。延々と心地良いものを手に入れるために、働く毎日とか、奮闘する毎日って、そこに心地良さは本当にあるのかなと思う。
  何か、馬鹿げたことを、馬鹿げたゲームを自分で乗り気でやっているという感じ。何で、そんなゲームをしているのかというと、ゲームだから、外に楽しみというか、ゲームしか知らないからという感じがする。
  世界が素粒子で出来ているのであれば、自分も素粒子で出来ているわけだから、その素粒子がどういう組み合わせか知らないが、心地良いものを感じたり、生み出しているわけだ。素粒子の振る舞いからそういうことが、起きているのだけど、その素粒子の振る舞いは、つまるところその場限りで、外の素粒子の振る舞いとそんなに違いがあるのだろうか。行き着くところは、皆同じ、貴賎を問わず。世の中に、本当にあるものなんて、思っているよりも少ないような気がする。
  反対に、世の中にあるものは、人が思っているものが無くて、思っていないものの方がたくさんあるんじゃないかと、思う。