日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

誰であるか

2014-09-28 11:42:22 | 日記

以下ハンナ・アーレントの「人間の条件」の一節を読んで

 
  自分が何をなしたかでなく、誰であるかが重要である。人は、これをしたという観点で自分を評価したがる。
  私は、こんなことをしたんだ、してきたんだ、これが自負だと思うが、自負と自分は違う。
  自分が誰であるのかということ、自分とは何であるのかということは、異なる問い、異なる意味がある。何であるのかという問いは、自分は何か「もの」である、自分はこれであると示す対象が存在するのだが、その対象は自分自身ではない、これまでにしてきたことや肩書きであったりする。何であるかというのは、自分自身が何者であるかを問わず、自分自身を投影する事物が何であるのかという問いである。
  自分が何であるかという、この問いを自分に投げると時、自身は成功に対する手段でしかなくなる。自身の成功が最終目的であり、その目的のために自分が存在するという、ひっくり返った関係が成立している。
       自分の成功が目的であったのに、その成功のために自分が存在しなければならない。
  ではその成功とは何なのか。自分の成功ということが、逆転の原因だと思うのだが、自分の成功などというものはない。どのような状況においても、自分は自分でしかないのだが、その自分の成功ということ、自分が誰であるのかということを考えるのでなく、何であるのかを考える時に自分の成功ということの本来の意味から取り外しているのだと思う。本来の自分の成功とは、ハイデガーが言うような本来的な自分、日常生活に目を奪われていない自分をそれを取り戻すこと、自分が何者であるのかを考える、知る(私は知ることはできないが)ことが成功なのだと思う。
  自分が何であるかを考える限り、その人は自分の投影物を何かに求め続けることとなる。そして、投影物を求め続ける自分の投影物が自分をその囚人とすることになるだろう。自己の投影というシステムを破る時、そのシステムに囚われている自分を静かに眺め、その構図から自分を見ることこそ自分というものの成功なのかと思う。
  このシステムから離れることは延々と出来ないであろうと思う。ただ、自分がその囚われにあること、その対象、投影物に意味があるか、これを問うことこそ、本当に、本来的に生きるという意味だと思う。
 

世界を見る

2014-09-13 17:06:49 | 日記
世界をどういう風に、どんな風に他の人は見ているのだろう。私以外の人は、世界をどのように思っている。考えているのかと時々思う。
ここでいう世界は、私が見る世界、私が投げ込まれている。今まさに目の前の世界のことだ。地図でいうような、世界という意味ではない。
最近ではDQNドキュンというような言い方をされているが、何を考えているのかさっぱり分からない人々、大人になっても、いつまでもヤンキー気分が治らない、気分でなくてもはや世界になっているだろうと思うが、
私が考えるのは、そのような意味での世界だ、DQNの人々が何を考えているのか、DQNに限らず、私以外の人が何を考え、どのように世界を見ているのか、分からない。
私も職業を持っているが、その世界に生きる人がいるのだが、もちろんその人にも、私が見ない私生活があるのだろうが、その人と会話しても、どこか私は住んでいる世界が違うのだろうと思う。いわば、私の方が仮住まいというか、その世界では、本気では住んでいない、どこか別の世界から眺めているように思う。その世界は、仮住まいだから、成功しなくてもいいと、出世欲のようなものはない。金は欲しいから、給料に関しては上げてはもらいたいが。
今、職業での仮住まいを言ったが、何か私生活でさえも、人生そのものが何か仮住まい的な気分がしているのだ。
この生のほかに住むところなどないにもかかわらずに。何か、命を借りているというか、生きている感覚はあるのだが、周りの世界の中にとり置かれたような気分がある。
こんな、気分を周りの人々が持っているのか、世界を他人はどう感じているのか、例えばDQNの人々は、世界ということなんて考えないのだろうな。こんなことを言っている方が、バカというか分からんのだろうと思う。
私は世界を眺めているが、まわりの人は世界を生きているように思う。というか見える。どこか私と、世界の見方が違うように思う。
世界を正しく見たいというか、世界が何なのか知りたいと思うのだが、結局は私の世界という姿に、ちっぽけな私の世界になってもどってくるという感じがある。世界は、私が見るように大きいのだが、私が見ている世界はちっさいのだ。
この、大きなはずの世界に、小さな世界を作っているというか、住まいをしているというか自分がいる。