子が、豚を小学校で飼い最後に食べるかどうか子供たちで決めるという映画を観た話をしてくれた。
クラスで豚を飼って最後に食べるかどうか、子供たちが議論をして決めるというお話だったそうだ。
その話を聞いて違和感があったので述べておきたい。
このクラスにあたる子供たちには、豚を飼うか飼わないか初めに選択肢が与えられた。そして豚を殺して食べるかどうかも、選択枝が与えられた。
この選択肢は、二者択一である。どちらにも関与しないという選択もあるが、これはこれで、特に殺さないという選択肢を選んでいないので、この場合でも殺すに関与したと感じざるを得ない。殺さないという選択肢を選んでも、結果が殺すになれば自分の力不足と責任を感じざるを得ない。
先生は、この選択枝を与えることも、与えないこともできるが子供は、選択を与えられただけだ。たまたま、この先生のクラスになったということで、生物の生死に直接的に関与することが求められた。この関与にあたって、一人の子供の意見はどこまで尊重されたのだろうか。
映画では、皆が話し合い、どうしても決まらないので最後は多数決で決まったそうだ。生き物の生死を多数決で決めるところには違和感がある。
どうしても、殺したくないという一人の生徒の考えは、残りの生徒全員の考えが殺すであっても、これは尊重すべきではないかと思う。
「殺すな。」という命題は、論理的には、それ自体では何故を問えば、正しいとも正しくないとも言えない。
しかし、「殺すな。」という命題は人の心にそれが真理であると訴えるところがある。
何故、殺してはいけないか。それは「殺すな。」が何を条件とせずとも正しいからだ。
では、正しいとは何を意味するか。正しいの意味を知らなければ、正しいは言えないし、理解できない。
正しいの言葉を使うものは、その使い方を既に学んでいるが、この学びの中に「殺すな。」があると思う。
人が、何かを殺す時には、何らかの理由をつけないだろうか。殺さない時に理由が必要だろうか。
この「殺すな。」という命題の前には、多数決は意味を失うように思う。
何故、この場合に少数意見よりも多数意見が正しいと言えるのか。社会での効用についての命題は多数決によって決さざるを得ないこともある。この場合には、どのような社会的効用が豚の生死にあったのだろうか。初めより、豚を飼育する時点で、殺さないという選択肢がある以上、それは一人の意見であっても尊重すべきであったのではないかと思う。
この記事については、私と子との間で会話の感想に過ぎない。映画自体は、私は観ていないので、公平性に欠けているかもしれない。