日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

価値と観察 4

2010-12-31 12:37:11 | 日記
  喜びや怒りの対象は、ではどうやって日常で取捨選択している、していくのだろう。
 私が喜んだものが、本当に喜んでよいものか。
 誰かが、私をに向かって笑みを浮かべたとしよう。彼女は私に微笑んだのか、それとも、あざけりを見せたのだろうか。この判断を、その時々に行っている。彼女が私から見てどのような立場にいるのか。私は、彼女へのこれまでの理解から判断している。知らない女性に笑われると、自分が当惑するのはこのせいだろう。彼女は私に好意を持っているのだろうか。
 思っていた判断も、ひょっとすると、間違いがある。これまで嫌なやつと思っていたが、ある時を境に、嫌なやつがいいやつになる時がある。
 喜びの対象は、私が喜びつつ、その喜びに価値があるか、その時々に思い起こし検証しなければならない。今は、本当に喜ぶ対象にふさわしいと思っても、時間が経過すると、このことも間違いであったと思うことがある。
 喜びや怒りの対象の価値は、その時々の自分の立ち位置で変わってくるものだろう。自分の置かれた社会環境から、また価値観から、これまでと同じものであっても対象の価値が変化してしまう。
 固定した私というものが存在しない以上、私を写し込む対象となるものの価値もまた変化するし、対象自体も常に同じものが継続しつづけるわけではない。
 喜びや怒りの対象の価値の変化は、私の価値を写し込んだ私自身の変化の反映であるし、対象自体が変化することがあれば、私に向かって私を変化させる作用を持つ。私と、喜びや怒りの対象は、いつも会話をしている。
 面白い、面白くない。腹が立つ、何に腹を立てているのだろう。このことの繰り返しが、本当に喜ぶべきもの、怒るべきものを決めている。 
 社会共通の本当に喜ぶべきもの、怒るべきものを決めることはできない。最大公約数的なものを見つけることはできるだろうが、結局は偏差の問題に落ち着いてしまう。私の中においても、共通したものを探しても結局は偏差の問題となるだろう。
 普遍的な価値というものには、魅力を感じるが、その普遍性の判断は結局は、自分が行うしかない。「社会が言うから、普遍的な価値だ。」と言われてもそれを受け入れるか、受け入れないかは、私次第では普遍性とは言えない。私が除外された普遍性など、私が受け入れる訳がない。
 
 私は、日々に生活する者であり、日々に考える者なのだろう。
 また、日々に不満を感じ、また小さなできごとに満足し、生活をしよう。
 
 
 
 
 
 

価値の観察 3

2010-12-30 13:22:56 | 日記
 自分が、喜ぶべきもの、怒るべきものの選択は、どうして決めればよいのだろう。
 人は、知らず知らずに喜び怒り生活をしている。その対象となるものが、常に目の前に存在している。人は、意識せずともその対象の選択を繰り返している。
 その対象の選択が正しいかどうかを再度、意識して問いただすと、日ごろの選択の基準は嗜好的であり、直感的であり規則性はないように思う。
 喜びや、怒り自体は、動物としての人の本能として生存のために組み込まれたものと思う。これがない人は、動物として生存が難しいだろう。
 この喜びや、怒りは、感情だ。これのない生は、実につまらないものになるだろう。やはり、私は喜び、怒りたい。
 ただ、その対象が本当に喜ぶべきもの、怒るべきものかは、喜び、怒った後に観察したい。誰しも、何でこんなに怒っていたのだろう。何を喜んでいたのだろうと思うときがある。この時が、観察の時だと思う。
 自分を自分のそばに置かず眺めてみる。自分を応援するのでなくただ眺めてみる。私はこれをすると、私は何をやっているのだろうと思うことが多い。そうした時に、自分が喜ぶ価値のあるもの、怒る価値のあるものがあれば良いと思う。自分が喜ぶ対象は、眺めてみるとつまらない。怒るものもつまらないことが多い。その時は私自身もつまらない者に思える。
 私は、本当に喜ぶべきもの、怒るべきものの姿、存在を求めたくなってしまう。どこか自分の外にそのような物が存在するはずだ。私は、まだそれに出会っていないと考えたくなってしまう。
 ところが、そんな物は無いことに薄々気がついている。喜びや、怒りは自分の感情に過ぎない。この感情は第三者が見れば全く理解できない可能性のあるものだ。
 そこに、この感情を元として本当に喜ぶべきもの、怒るべきものという対象が物として存在するかのように考えれば、私は何物かに私の価値を写し込んだことになる。 早晩この本当に喜ぶべきもの、怒るべきものが、本当に価値を有するか、観察することになるだろう。
 私は、ここで喜ぶべきもの、怒るべきものというモデルを捨てよう。喜びや、怒りの対象は、常に自分が取捨選択する必要がある。いつの日か、理想の対象を見つけることができるというのは幻想だ。
 喜ぶべき、怒るべきということは、べきという義務から生じたことだ。私が、目指すところが何か分からない目標(この目標を作るとまた、理想の対象を作ることとなり、それが本当に価値があるかを考えることになってしまう。)に近づくための行動への義務。これから「べき」ということが生じたのだと思う。
 喜びや、怒りは、義務ではない。では観察した後に、何を私はするのだろう。私には、指針がないことが分かってしまった。私は、指針を作ることは可能だろうが、常にその指針は、私に改めて観察されなければならない。
 漂流者の気分だが、これも一つの成果だろう。この成果もいつか見直さなければならない。常に、フィードバックし進んでいく生命の姿のようだ。
 何か、かっこうがいい気がするが、これも見直さなければいけないのか。 

応援と観察 2

2010-12-29 07:19:52 | 日記
 野球チームやサッカーチーム、スポーツ選手を応援するのは、楽しい。応援するチームや選手が勝つことは、自分自身をそのチームや選手に写し込み、自身の出来事として感じることができる。もちろん、負ければ自身のふがいなさのように感じることもある。人によっては、野球チームの勝ち負けをその日の気分に写し込んでしまう。それがチームとの一体感を得る方法であり、彼はそうすることで満足を得る。
 この行為は、何もスポーツ観戦に限らない。私は、何かに自分を写し込んで満足を得ている。仕事に自分を写し込む者は、自分が仕事と一体化し、自身の偉大さは仕事の良し悪しとなる。社会的な環境で仕事をしている者は職場における自分の地位や権限、権力を自分と一体化してしまう。
 何かに人は、自分を写し込み、写し込んだ対象と一体化することによって満足を得る。
 ある神さまを信じ、神の偉大さが分かる時、自分の満足を得る。自分の神さまを信じても、他人の神さまを信じることはできない。自分の神を汚した行為は、自身の出来事のように怒りを覚えてしまう。
 本当の神さまなら、下々である人々の行為の一つをとりあげて怒りという感情は持たないと思うが、下々である私は怒りの感情を抑えることができないだけでなく、自身の義務や権利と考えて他人への攻撃を始める。
 ここで言う神さまは、本当の神さまでなくても同じことが起きてしまう。神様のところに野球チームの名前、自分の子供や、自分が大切にしているものを当てることができる。複雑だが、他人へ期待、信頼をそこにあてはめることもできる。
 この自身の対象への写し込みは、止めることができないのだろう。自分が喜ぶ出来事は、自身を対象に写し込んだに過ぎない。喜ぶという行為自体が、この写し込みという過程だ。
 (私は、今、言葉をつないで遊んでいる。この文を考えるのも、写し込みの対象だ。よく文ができていれば、これに満足する。)
 この過程が分かっても、結果はすぐには変わらない。観察しながら少しずつ変わるだけだろう。それに私がどんな結果を望んでいるのかも分からない。やがては価値のないものに喜ばなくなり、怒る価値のないものに怒らなくのだろうか。
 その後に、私に残ったきれいなものがあればいいのだが。
 
 
 

スケート観戦 1

2010-12-26 08:18:05 | 日記
 真央ちゃんのスケートを応援しようとテレビを見ていると、妻に「真央ちゃんの応援したらだめ。」と言われた。いつも私は、負けそうな方を応援してるので、私が応援する方はよく負けてしまう。
 今回は、真央ちゃんが不調なので応援しようとしていた。やはり自分が応援したから負けた。ということがないように、応援しないようにテレビを見るという難しい鑑賞をしていた。私が応援しなかったせいか良い結果がでた。
 テレビを見て応援することと、負けることも、勝つことも因果関係にないことは明白だが、私の応援に何か祈りや、呪いのようなものが存在しそうな気持ちになる。
 妻に言わせると私が気にいった店はよくつぶれるそうだ。実際に昔に行っていた店の多くが、気がつくとなくっている。私が好きになる店は、個人経営の店ばかりなので、何年か営業すると、つぶれることが多い。本当は、私が気にいらない店は、それより早くつぶれているように思う。どうでもいい店はその存在さえ分からないままに入れ替わりをしていることだろう。
 
 私が、もの事を観察することと、その結果には因果関係がない。しかし観察を超えて応援をすると、奇妙に連帯感というものが心に芽生えてくる。テレビの先の出来事に、現象に、私と連帯関係の生じようはずもないのだが。
 私が応援したから負けたというのは、こちらの思い込みに過ぎない。それでも私の心象は、観察対象の敗北や消滅が一部に私自身の出来事のように捉えてしまう。
観察するという行為を超えて、どちらかを応援するという行為は、私自身が応援される者のそばに立つことだ。この時、負けた悔しさが自分にも生まれてしまう。
 観察と応援はまるで違うのだろう。私が好きなのはどちらかというと観察だが、それでも、応援も時々することは面白い。
 これからも私は負けそうな人を応援することだろう。
 これが、妻が言うように私に応援される者にとっては迷惑なのだろう。 

父と子の夕食での会話 確率その他言葉の力

2010-12-23 08:46:30 | 子との対話
 
子 映画の時、毎回服を一枚持たされるの、うざい。服がじゃまなだけ、使ったことが一度もない。
 
父 子供に「うざい」と言われるのとても「うざい」な。
  映画館で寒くなったら困るだろ。
 
子 10回以上映画に行ったけど寒かったことは1回もない。
 
父 11回目の映画館が寒くないことは、過去の10回の経験からは言えないだろ。
 
子 それなら、先生は宿題をいつもしてこない生徒に、宿題を忘れるなと言えないよ。
 
父 簡単に予想できる悪い方の事態を想定して準備しておくのは、映画館に服を1枚持って行くのと同じ態度だよ。悪い方を予想して準備して助かったことは今までにあるだろ。保険と同じで使わないでいいんだよ。
 
子 映画では一回もない。服を余分に一枚持って行けというのは、高い保険に入れと言ってくるのと同じだよ。
 
父 そんなに、映画館に服を持って行くのがいやなら、君がこれからデートをする時に服を1枚もって行かずに行けばいい。お腹が痛くなることを祈っておこう。
  君がデートの時に寒くてお腹が痛くなりますよう~に。合掌
 
子 デートの時は、1枚服を持っていくよ。用意と比べてリスクが大きすぎるだろ。
 
父 デートの時と比べて、父と行く時は、リスクが低いということかい。父と映画に行くことははデートと比べて値打ちがないのかい。父はひょっとしたら明日に事故や脳梗塞で死んでしまうかもしれないよ。誰もが、等しく明日死ぬかもしれないよ。
 
子 明日死ぬことは決まっていないだろ。
 
父 明日死ぬ確率はとても低いし、誰も明日死ぬとは思っていないよ。でも死んでしまった人、分数の分子になった人は分母の確率は問題にならないよ。このために、毎回準備しておくんだ。一期一会というのはこういうことを言うんだよ。
 
 ここで中断した。デートと比べて父に値打ちがないことは、明白なのだろう。私もそうだ。理屈ではないがデートが大事だ。
 子は、まだデートをしたことがないと思う。初デートの時にお腹が痛くなるように私がお祈りしたことで、子はとても動揺し、その時が来たことを考えて身震いしたようだ。
 
 私の大人げない悪意を持った祈りの言葉に、不気味な力を感じたのかもしれない。
 子が、デートの時に本当に服を忘れなければいいが。その頃には、私の言うことは聞かなくなっているだろう。
 どうか自分で気がつきますように。