日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

イザベルファウストSACDの感想

2017-01-31 19:45:27 | 日記
  年末にイザベル・ファウスト無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ全集を買った。SACDでとても高価なので、大分迷ったが買ってよかった。
   SACDも効果のあるやないや色々言われているけど、聴いた感じがどうもアナログレコードのような音がしている気がするので、これも信仰のうちと思って買っている。
  音質、演奏どちらも満足。普段は、交響曲かピアノ協奏曲くらいしか聴かないのだが、バッハは別枠という感じでピアノ曲とかも聴いている。
  バッハの何が良いのかというと、バッハは何かを表していると思うのだけど、何なのか分からないでも、神様とかいるんじゃねとか、人生ってこうやって回想して終わるんじゃないとか思えるところ。
  自分の人生がバッハのシャコンヌやフーガのようにすごいものというわけでは決してないのだが、どんなに小さな人生の中にも、人それぞれに、そんなシャコンヌやフーガのようなものがあるんじゃないかと思う。私視点の小さな人生なんだけど、それでも色々あったよなと思う。それがシャコンヌのような感じがするわけ。

  *シャコンヌは16分ジャストからです。
  


アイデンティテイというもの

2017-01-29 17:06:17 | 私とは何か
      アイデンティティという言葉、どうも昔からこの言葉が好きではない。この言葉を言う人は、単純にアイデンティティという物が存在しているとでも思っているのだろうかと、昔から思っていた。
  自分を自分たらしめているもの、そんな唯一つのものなどないし、様々な面が自分だとしても、その面なんて、二次元的に切り分けることができるようなものではない。
  アイデンティティを確立するとか、そんな確立したものがあるなんて本気で思っているんだろうか。自己は、時間経過で変化するし、その一瞬でさえも決まった自我などというものはない。自我というようなひとつの幻想、そのようなものがあるのであろうと思い込んでいるだけ。自分が今見ている世界そのものが、自我であって、今聴いている音楽も自我、今見ている世界の内の一部が自我で、他者は自我ではないとか、今、自分が見ている他者は自分の目を通して見た他者、それも私の一部、こういうと独我論のようだが、世界を見ている自分と、その見ている自分の世界は同じものだ。世界観というものは、自我そのものでしかない。そこにアイデンティティを確立せよと言われるのだが、世界は初めから自分そのものでもあるし、そこに築く自我というようなものはひとつの信仰でしかない。
  自分に、まわりの人に私はこういう人ですよというキャッチフレーズをつけて、箱に入れて差し出すようなものだ。本当にそんなものがあるとは私には思えない。
  だから、昔からアイデンティティという言葉を聞くと信用ができないなとしか思えない。心理学解説が始まるのかという感じを持ってしまうのだ。
  便宜上、アイデンティティはあると考えると、措定すれば便利なんだろう。みんなそれが便利だからそう信じていなくても、半分信じてる振りをしているのだろうか。
  そんなものは無くても何にも困りはしないと思うのだが。




大学受験について

2017-01-28 07:45:50 | 日記
  高校生の息子が大学受験真っ最中、受験校も決まった。難しい挑戦をするか、現役合格を目指すか。難しい選択、こちらにとっても難しい選択、現役合格を目指すと地方大学になるので、仕送りが必要になる。理系なので院も含めると6年が必要。学費と仕送りと足すと、6年間にかかる費用は大きなものがある。こちらの生活設計が変わるほどのものだ。どちらの選択でも誤りはない、どちらがより良いかを選ぶ選択だ。この選択も済んだので、後は子のがんばりに期待するだけ。
  学生の奨学金の借り入れが社会問題化しているが、うちの子も学校の先生に、奨学金を借りて地方大学に行ったら、生活も楽しいよと言われたそうだ。
  奨学金を月10万円借りると4年で480万円、返済は20年で利息3%で650万弱、大学卒業後の10月から返済が始まり、払い終わるのは、うちの子が42歳になるまで、毎月27000円弱の返済になる。
  気が遠くなる話だ。うちの子が42歳というのがショック、毎月27000円の返済を抱えて社会に出るのはきつい。先生は半額くらいを想定しているのかもしれないが、家庭事情によっては学費、生活全て学生自身で用意しなければならない人もいるだろう。この金を20年間返済することを考えると、一年浪人してでも近くの大学を目指すのが合理的だろう。
  地方大学に行かせることができるのはある程度の資力のある家庭に限られる。子供は現役で大学に行けるので就労が生涯で1年長くなる。子供の代で元は取れる。恵まれた家の子供はここで有利になるのだが、一年浪人した家庭の子供は、一年就労期間が短くなる。
  働くことが、生涯の全てではない。それは個人の視点に立てばそうなのだが、大きなシステムとして捉えると、家庭による教育を受ける機会、ハンデ、アドバンテージ、社会に既に組み込まれたことだが、社会階層の固定化、金持ちの子は教育を得て金持ちに、金のない家庭の子は教育がなくブルーワーカーや単純作業を主とした労働に就くことになる。
  会社での採用の前提が初めから、大卒、高卒でルートが違う。また、大学も社会階層化の一環になっている。
大学のヒエラルキーによって、採用する会社も違えば、同じ会社でも本社人員とそれ以外、これも構造化している。
  高校生でこのことに気がつくことは難しい。先生もあからさまに社会が大学ヒエラルキーを元に、会社のヒエラルキーが家庭のヒエラルキーを生産しているとは言いにくいだろう。このシステムが機能しているから、金持ちは総じて金持ちでいることができるだから。先生自身も、気がつかずそのシステムの構成員として影響しているのだが。

分岐点

2017-01-15 17:01:22 | 日記
  今日はセンター試験2日目、下の子がこれを受けている。前日の試験が新聞に載っていたが、これを8割解くとか、良ければいいのだが。
  今、人生の大きな分岐点にいるのは確か、A大学、B大学、どこへ進学するかで今後の人生が大きく変わる。どちらの選択肢が良いか、全く分からない。一般的に言って、こちらへ進学する方がいいんじゃないかということが言えるだけ。所謂、良い大学へ進学しても、災難に出会わないことが保障されるわけではない。蓋然性から見て、社会的評価の高い環境が得られるであろうことが言える。それは蓋然性でしかない。B大学へ行っていれば、という可能世界も存在するのだが、A大学へ行った時点で覗く可能性はなくなる。これはどちらへ行っても言えることだ。
  毎日の選択についても、基本は同じ、何か選択をする度に自分に在りえた可能性を一方閉ざしながら、現前する可能性を見る。
  何が良かったかは、自分を振り返っても分からない。もっと違う人生が無限にあったように思う。これからの選択でもそうだ。その中で、選択をしていくのだが、結局どの選択が良かったかは決して分からない。
  とりあえずは、当人が満足できる選択をその与えられた場面ごとにしていくしかない。これから、当人が満足できる選択ができるように応援をしたい。
  どんなことでも、後悔はあるし、あの時こうしていればということがある。その時、よく考えて判断していたならそれでいいだろうと思う。
  私の場合は、よく考えてなかったなとか、今思うと的外れな考えで選択していたなと思うことが多い。それで、今の生活、無限にある選択肢、分岐点から今があるのだが、ほんの少しでも違っていたらと考えると、恐ろしいとも思う。なるべくしてなったのだが。。。。。

バッハのシャコンヌと観想

2017-01-09 18:08:04 | 日記
  毎年、年末年始はクラシックを聴いて過ごしている。今年は、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータが私の流行である。
  これは、私なりの瞑想のようなもの。私は神を信じていないのだけど、バッハやブルックナーを聴くと何かそこにいそうな気がする。このことは、神社にお参りに行っても感じるのだけど、臨在感というのか。何かそうこにいそうな感じ、音楽の場合はそこに何かがありそうという感じ。
  シャコンヌやフーガを聴いていると、人生の始まりから終りまでを聴いたような気になる。
  不思議に思うのだけど、日本人は初詣に行って色々な願いをする。その時はその人は善良な人なんだろうと思う。人と人が集まると何故か、善良な人であってもそれが善良でなくなることがあったり、善良を信じながら結果として悪をなす。何故、人は善良で収まりきらないのだろうと思う。
  成人の日に新成人が騒いで警察に捕まったりしているが、そこには捕まった人間の勝手な正義があるのだろうと思う。自分なりの正義を振りかざしながら悪をなす。この小さな正義が集まって、また小さな正義も集まると大きな悪になるのだろうか。
  そうではなくて、正義など振りかざさなくても、本当の善意が集まることによっても悪が生まれるのだろうか。各々の善意は、見方を変えれば悪意に見えるのだろう。善意の枠があまりに小さいと、それ自体が善意であっても枠の外に対しては悪になるのだろうか。そうであれば、善を信じて悪をなすことの説明もつく。
  私自身、これまでの人生で悪をなしていること、本当の悪事ではないと自分では思うが、受けた人にとっては悪事であろうと思う。その時は善意であったことも含めて、後で反省すると無分別ということもある。
  そういう意味では反省の多い人生だ。
  それでも、私自身には私なりの語りがあり、その小さな語りで私の生活、世界が成り立っている。私の世界は、私のものでしかないが、そこでも公共の世界へと繋がりがあり、そこに私の善意が繋がっているのだが、そこには他人から見ると悪意にも繋がっているのだろう。
  本当の悪意や憎しみというものが世界へと繋がる方が、善意から生まれた悪よりも単純なように思う。そのような世界には、善と悪ははっきりと二分され、善悪二元論が成立しているだろう。
  私の思い、直感は、そのような単純な世界ではないと告げている。善や悪の存在は、アスペクト、視点の違いに過ぎないものであり、一つの出来事の裏返し、それどころかその出来事というものも、善や悪というようなものは抽象概念に過ぎず、実は存在しないのではないかとも思う。この点は未だに疑問でしかない。
  この悪意や善意というものも、臨在感がもたらすものだろうか。人の表情から読み取る生物的な反応、認知がもたらすものなのだろうか。そうすると善も悪も認知、生物学的反応の一つなのだろう。一定の外部刺激を善と、悪と受け止めるのだろうか。
  この善や悪の認知と、バッハやブルックナーの音楽が示すような祈り、善意、美そういうものは偶然的な人の傾向性、志向、一定の音の連なりを、祈りや善と、そう勘違いしているに過ぎないのだろうか。
  私の人生における善、悪どちらも、シャコンヌやフーガのように一つの音のつらなり、波紋、そして消えていくようなものだろうと思う。それが見る人によって、聴く人によって色んなアスペクトがあるのだろうと思う。だが、この音楽は、本当のところは他人が聴くのでなく、自分が奏でながら自分で聴き、そして演奏を終えるものだろうと思う。
  その音楽は良いも悪いもないのかも知れない。それでもそこには、何か音楽のようなものがあると思う。