日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

世界の変化

2011-06-25 07:47:03 | 原発問題
  見た目に世界が変わった様子はないが、世界に放射能が撒き散らされた後に見る世界は、何故かどんよりとしているように見える。空や雲を見てもきれいだと思うことよりも、この空気の中に放射能が拡散されていると、世界中を小さな粒子が巡っていると思うようになった。毎朝、風向きを確認しているが、何となく、窓を開けるのが億劫になった。何か得たいの知れないものが入りこむような気がするからだ。
  この感覚は、私や、原発の問題を気に病んでいる人だけが持つものだろうか。街では、普通に生活が繰り返され、特に気にしている様子はない。
  そして、漁港の復興をテレビではさかんに伝えているが、海の汚染は漁が可能な状況なのだろうか。このことについてテレビでは沈黙しているようだ。いつかは汚染状況を調べなくてはならない。この海でとれた魚は安全、安心なのだろうか。汚染状況を調べないままに、魚を採る。このような状態で魚を買えるだろうか。
  今は、何も変化がないように見えているが、人や動物に影響が出てきた時は、もう遅い。その時に、対策をしても被曝が除去できるわけではない。
  私の子が、このような社会でこれから生きていかなくてはならないこと、私が子供の頃に持っていた世界への理解が異なってしまったことに何とも言えない気持ちがある。そして、また同じ事故、または今以上の事故が起きる可能性もある。

  何故、多くの人は見も知らぬ人を信用できるのだろうか。何故、事故を防ぐことができなかった実績のある人達の意見を聞いて、安全を信用できるのだろう。結果責任を考えれば、彼らが安全を口にすること自体が彼らの無責任を立証するようなものだ。 
  私は、悲惨な事故を起こしたバスの運転手に、「今度こそ安全ですからバスに乗って下さい。」と言われている。
  「今度はバスに安全装置を追加しました。バスの性能が違いますからもう安全です。もう一度ご乗車下さい。」と言われている。
  バスの運転手は、変わったのですか。と聞けば、「安全運転について研修済みです。ご安心下さい。」と答えるだろう。
  研修の先生は誰ですか。「はい。私です。ご安心下さい。」

  福島での事故が起きる前の私の世界は、単純に美しい世界だったと思う。この世界が過去のものになったことを惜しく思う。私が見る世界は、目に見えない不安に覆われ、世界が与える美しさは、限定的な美しさ、何かを差し引いた美しさとなってしまった。
 

意味と私

2011-06-21 21:32:45 | 生きる意味
  以前に生きる意味を考えた。で、今日は意味について考えよう。
  意味を考えろ。意味ねえ。何の意味があるの。意味について、日常でも自分がやっていることの意味を考える時がある。仕事に行く前には、働く意味について考える。簡単に言えば、働くのが嫌でそれでも働かねばならない。働くために自分なりの理由を見つけようとしている。自己合理化の作業をしながら通勤をしている。
  私は何故意味を求めるのだろう。そもそも意味とは何だろうか。昔にも一度考えたことがあり、その時は意味とは、対象における最も重要なものを意味するという文をどこかで見つけ満足していた。意味が何を意味しているかは面白そうだが、今回はこれを意味の意味としておく。私は何故、時間の意味から、生きる意味、働く意味、そのほか色々、何に対しても意味を求めているのか、この点をここでは考えたい。

  私は、世界を解釈しつつ生きている。あらゆる情報を解釈し、意味を考えずにはいられない。料理を見ても盛り付けの意味を見る。きれいに盛り付けられている。盛り付けが汚い。食べても意味を見る。味付けの良し悪し、美味しい不味い、これらは感覚と意味が相互的にミックスされた状態であるが、何かしらの解釈を意味を見ているように思う。私は、何かしらの解釈なしに、食事することもままならない。
  ここで、「人は何故意味を求めるのか。」に戻ると、「私は世界を解釈する。」という人のあり方に意味を求める原因があるのでないかと思う。人は、何を見ても、聞いても、感じるところがあれば、解釈をし、そのことについて分析を行う。「あついな」という言葉をきけば、その人を見て「暑いな」「熱いな」どちらの意味か考え判断する。生活の中に意味があふれており、意味を考えずに、又は行為に意味を与えずに行為ができない。電気ポットの意味を考えずに生活はできないし、掃除機についてもそうである。意味を考えずに過ごしているつもりであっても、私の行為は、自然に意味を有している。(これができないと生活不適応者となってしまう。他人から見て私の行為は無意味と思われることも沢山あるが。)
  意味とは、人の行為に、行為そのものにあり、行為と意味は切り離すことはできない。

  次に物には意味があるのだろうか。何かしらの意味が具体の物の中に存在しそうに思うが、物自体には意味は存在しない。例えば、自転車の意味を考えよう。個別の自転車、仮に私が所有する自転車「物体X」に意味が含まれているかを見れば、アルミと鉄とゴムで構成された物体Xがあるだけであって、仮に物体Xを切り刻んでみても意味というような構成物が見つかることはない。これは、自転車を知らない人に物体Xを見せても意味が分からないことから結論できる。
  私の物体X自体には意味がないのだが、私は物体Xを自転車と呼び、妻に自転車で出かけてくると言えば、意味が通じる。この様子を見れば、意味とは物自体にあるのではなく、人が物体Xに意味を与えていることが分かる。物体Xでは意味は物体であることとXと呼ばれていること以上のことは分からないが、物体Xを自転車と呼ぶことによって、物体Xに自転車としての意味を付与している。物体X自体に自転車の意味が含まれているのではなく、これを自転車と呼ぶときに、物体Xには自転車としての意味が与えられるのである。物にではなく、人の語に意味があり、語によって意味は構成されている。

  物には意味がなく、行為には意味がある。人は何らかの行為なしに生きることができない。思考そのものが行為であり、行為があるところに意味が生まれる。物の存在に人はなることができない。意味を求めないということは、人の在りようが、物の存在、物体Xのように言葉による解釈を使用しない、経ない在り方ということになる。何故、人は意味を求めるのか。それは行為が人として生きることの前提であり、行為を成立させるために意味を求め、この行為の在り方が、意味を求めるという姿をしているが故に、私は何事にしても意味を求めているのである。

  おまけ
  もし、この意味のない行為(為すという時点で意味があるが。)があるのであれば、意味を求めない生き方に繋がるが、仮に人が意味を求めない行為を探求した時には、それが本当に意味を求めない行為であるかは疑問である。もし、意味がない行為を行う(これも変だが)のであれば、探求することなしに即座に無意味でなくてはならない。
  この状態になると、もはや論理では追求できない世界であるので私には無理であるし、そのような世界があるとしても、私には夢のない眠りと違いがないようにも思う。

   生きる意味が分からないということは、私は自然に、当然に今、生きているので、その行為の連続が地と図の関係の地(背景)となり、生きるということを図として認識できなくなっているのだろう。これが当たり前でなくなった時、今まさに命が終わろうという時に生きる意味を図として認識するのかもしれない。そして、その時に、生きること自体が意味であり目的であると私は考えるかもしれない。 このことを実感する時は、私はどのような姿をしているのだろう。



道徳と倫理、そして空気

2011-06-19 14:50:03 | 日記
  小学校では道徳を学ぶが、倫理は学ばない。その後も、当人が選択しない限り学ぶことはない。
  倫理学は、行動の基準として何が正しいか。正しいとは何であるかを考える学問だが、ここでの倫理は、論理的に検証され議論を経て一定の結論が導かれる。倫理学でも道徳律という言い方があり、道徳と倫理に明確な区別はなされてはいない。
  ここで、私が、倫理と道徳を分けているのは、倫理学上のテーマではなく、日本の社会性を見る一面として切り分け、日本での言葉の使い方から切り分けている。

  倫理学は何が正しいかを議論する学問だが、日本人には権力以外の正しさという考えがなじみにくい。日本には天皇がいて、またその下に錦の御旗を持つ者がいる。旗を持つ者が正しいのであって、旗を持つものが何故正しいのか、少数派は何故正しくないのかという議論は少ない。錦の御旗の正当性自体についての議論はタブーでさえある。
  このことに由来しているのかは分からないが、そもそも議論自体や他者への批判を非難と解釈する人も多い。
  倫理学は、何が正しいかを議論のレベルで測ることができる学問であり、倫理という同じ土俵で争えば、少数派が多数派に勝つことも可能な、考えようによっては便利な道具でもある。倫理的な主張に対して、面と向かって反倫理的な主張をすることは難しい。逆に、これ故に日本になじまないのかもしれない。
  一方、日本で言う道徳は、倫理学で言う道徳とは少し違う。小学校でならった道徳は、算数のような規則性や体系ではなく、中学で数学となるような学問の基礎ではない。道徳では、差別はいけないことを教えるが、何故いけないかは教えない。本当に差別はいけないのか、何故いけないかを考え始めれば倫理学へと繋がるのだが、情緒的な気分で差別はいけないで終わってしまう。
  差別がいけないのは、悪いことだからであるが、何が悪いのかを考えなくては何が差別であるのかが分からないはずであるが、世の中には金持ちと貧乏人、多くの差別が存在し、合理的区別等々によって社会的に是認される差別も存在するが、これらをどう決めるか、考えるかは学ばない。
  これは、小学校の道徳だけに見られる特殊な問題ではない。日本の道徳の特殊性は、空気という決定機関によって、何が悪いことかが決まるところにある。この空気という決定機関はどこにあるか明確には言えないが、ないとも言えない困った存在である。この空気による決定機関とは、権力者の意思を皆が慮って予定調和的に物事を決めてしまう事態そのものである。空気によって決まったことは予定調和されているため、議論が起きず何故そうなのか、誰が責任を負うのかが分からない。
  原発事故についても、人災であると言われているが誰の責任かは今のところ明示されていない。重責任を負うもの全員のリストを作成すべきだと思うが、この重責任が分からないように巧妙に制度設計もなされている。このような事態になったのも、法律作成者が空気を読んで制度設計をした結果でもあるし、事故が起きたこと自体も、空気を読んで設計と施工をしたところによっている。
  原発事故に見られるように、空気を読むことは、論理的思考から乖離、逃避することに繋がるため非常に危険な行為であるのだが、逆に空気を読めないことは、日本では反道徳的な行為とされる可能性が高い。空気を読まないことは集団から除外される危険性を常に孕んでおり、空気に逆らうことは非常に勇気のいる行為となってしまう。クラスで一人で意見表明することが、恥ずかしいと思う学校社会が、日本の道徳をそのまま形成しているように思えてならない。自分が正しいと考えることを社会のため、自分のために表明することは、極めて倫理的行為であり賞賛に値すると思うが、社会的には反道徳的行為と受け止められ、村八分にされてしまう。
  日本では、社会的な行動は空気という道徳によって反明示的に沈黙のうちに絶対的になされ、個人には相対的な倫理(人それぞれに価値観があり、統一的価値観、倫理観が存在しない。)が存在するにすぎない。このため、個人の倫理という武器は、社会の道徳の前に役に立たないことが多い。このことが、日本に倫理が存在しない。または空気という絶対的な存在に対して相対的な倫理しか存在しないと言える理由である。

  空気を読むことの危険と、空気に対してどう処置するかは、その人の人生観、正義についての考え方そのものであって、正解と思えるものを強要できるものではありません。ただ、多くの人が議論ができる環境がない社会は危険性を孕み、失敗を繰り返すように思えてなりません。

空気については、山本七平氏の「空気の研究」の考えによるところが大きいので記載しておきます。
空気について気になる方は、一読をおすすめします。

希望

2011-06-10 22:03:29 | 原発問題
  コンクリートと鉄できた巨大な箱が爆発し粉砕された。この箱からは文字通りに災厄が飛び出し、日本を、世界中を汚染した。そして、この残骸にも希望が残っていた。
  日本のIAEAへの報告に見られるように「地震は大丈夫、津波が悪い。」「津波対策すれば大丈夫。」 これが私に提示された希望である。

  福島原発の事故が想定外であったように、今回の事故を反省して対応したとしても、新しい想定外が生まれるだろう。目をつむりたいものからは逃避して、想定したものにお金をかけることが嫌気がすれば結局は想定しなかったことにする。原子力はコストと相対した安全を提供する。原子力は安全です。これが今回、箱に残った希望である。

  パンドラの箱の希望の意味は何を意味しているのだろう。希望には、無根拠、無反省であること、事実と期待の間には因果関係がないことが含意されているのであれば、希望とは更なるに災厄を生み出すための種、災厄を循環、継続するための罠となりうる。希望はもとより災厄の一つとして箱に封じ込められていたのではないだろうか。

  ドイツは、コンクリートと鉄の残骸に安全への無根拠を見つけだした。日本はこのコンクリートと鉄で作られた箱の残滓に安全を見つづけようとしている。福島原発と同じ規模、これ以上の事故がさらに起きたとき、日本は 貧しい国となるだろう。この時には更なる箱が連鎖的に開かれていくだろう。
 日本周辺土地と海は汚染され、多くの子供が命を失い、世界は日本のモラルと技術を信用しなくなるだろう、国債は売れず、日本はこれまでの借金を返すことに汲々とし、もはや復興への余力は残っていない。
  原発が1基でも破壊されれば、その破壊は土地、海、人へと伝播していく。今回の事故は災厄を世界中にまき散らしたが、想定される最悪の事故ではない。1基で核爆発が始まり、作業員も避難し、そうする内に次の1基で核爆発が起こるこのような事態も想定できた。そして今もこの可能性は、福島でも他の原発施設でもアクシデントがあれば起こりえるものと思う。
  箱の中には反省が残されていれば良かったと思う。この私の希望にも、もちろん根拠はない。


学びというもの

2011-06-04 07:31:23 | 日記
  君が代条例が大阪府で可決された。ここで君が代の是非は問題にしない。
  問題は、学びの中での強制が、本質的に役に立つかということだ。
  私にも親に言われて勉強をしたという記憶はある。一定の強制がなければ学習が成立しないという考えはある。しかし、強制で学習は成立しない。強制で学習が成立するならば、親の強制力の強さで子供の頭の良さが決まることとなるが、実際にはそんなことはない。
  学校での勉強に限らない「学び」という行為、生活における発見、学習は、強制の中で生まれるものではない。自発的な行為の中で学びが生じるのであって、ノルマによる作業の中に学びはない生じない。
  これは、職場でも、単純作業の中であっても、自身の工夫が生じた時に初めて学びという行為が生じる。私が、何かを学ぶ時、その時に他者の意思の強制が含まれている場合、この時に私は学びを行い得るだろうか。
  他者による強制は服従であって、学ぶという行為と本質が異なる。服従することを学ぶ場合、これはその人が処世という工夫を、強制された行為とは別に学んだのである。強制や服従の行為の中に学びは生じない。
  私は、学びということについて、他者への恐怖があってはならないと思う。恐怖の中に思考しても正しく考慮することはできない。恐怖が判断を誤らせることは自明のことだと思う。福島原発の事故は、恐怖から目をそらした結果が今である。恐怖が沈黙をもたらし、議論を停滞させる。反対意見を出した人を黙殺していく。システムの中で恐怖の力が働く時、人々の間に誤りが増幅していく。
  今、学びの機会の中に強制を持ち込み、教師が何を伝えるのか。
  恐怖により人が教えることは、形式を整えること、外見を整えて、内面は隠すこと、処世を伝えることとなるだろう。
  このような教えを学校教育の場で受けることが、子供達のためになるのか分からない。教師が自身を鏡として、恐怖と沈黙という不幸なシステムが社会に機能していることを子供達に教える結果が良いのか分からない。
  教師の目的が、教科書の知識を提供する一機関にすぎず、教師は取替え可能な部品という考え、条例に反する教師は処分し取り替えるという行為は、全体としての教師をだめにするだろう。後に残る教師は取替え可能な教師であり、教師と言う集団は均質な集団となり、議論のない集団と成り果てる。
  この取替え可能な教師のもとで、教育は取替え可能な部品のマニュアル化された生産過程になるだろう。

  社会として、恐怖のない環境での学びということは理想に過ぎないのだろうか。
  恐怖なく考え、与えられる恐怖について考える。これが学びだと思う。