日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

勘違い

2016-04-30 18:19:46 | 日記
  職場では、出身大学の集まりというか、会みたいなのがある。私も、名前だけ入っている。辞める決まりがないので、出身者は全員が会員ということになる。
卒業して、何十年も経つのだから、もういい加減にしたらと思うだが、どうもこういうのが好きな人は、何年たっても大学が好きらしい。
  同じ大学を出ているから、先輩、後輩みたいなもので、親近感があるというのだろうが、私自身は論理的な関係性は全くないと考えている。ところが、世の中は、こういう勘違いみたいなもので成立している。親近感だから、勘違いも何もないだろうとも言えるのだが、何故、同じ大学を出ていると親近感があるのだろうか、同じ経験をしているということだろうか。同じ経験、近い経験とかいうものも勘違いだと思うのだが。
  

可能世界

2016-04-24 16:07:31 | 日記
  4月になって、給料が下がった。年々、人が減っているのだが、給料も減っている。気も滅入る。
    
  下の子が来年は大学受験なのだが、公立大学に入ることを希望している。私学の学費を払いきると、私の定年後の蓄えがおよそなくなりそうな状況だ。
  大学に入ることが人生の全てではないが、選択可能な世界の範囲がこの時点で大きく変化、または決定されるのは確かだ。彼のためにも、私のためにも上手く行けばよいのだが。

  私達、そのうちの私が生きている世界というのは、常に可能性の中から一つを実現する、した世界である。
  多くの可能な世界の中から、私が選んだ世界が現にある世界だ。多くの違う可能性は、今が存在する上で消滅しているのだ。
  多くの泡沫があるのだが、その中のひとつだけが残ったようなイメージだろうか。泡沫の一つ一つが可能世界とでも考える。そう考えると、一つの選択の度に、無数の世界が生じ、そして消えていく。
  結局は、今有る世界を受容し、その世界の中で、これからの世界、可能性としての世界の中から、自己が世界を切り出していかざるを得ない。切り出すというよりも、到来する世界だろうか。到来しつつ、その方向性を自己で変化を与えることが可能な世界だ。
  私は、今有る世界を受容し、ここを足がかりにして、基底として世界を切り出し、受け入れていかなければならない。
  この切り出しの可能性、選択の範囲というものが、私のような歳になると開かれているようで、一方でかなり閉じたものだ。この後に、何が待ち受けているかは確かに分からない。
  大学の選択に比べると相当に自由度が低い。様々な制約を受け入れその中で、切り出していかなければならないのだから。
  この制約が世の中のしがらみというものだが、有る程度生きているとどうしても因果や義務というものが生まれてしまう。この因果やしがらみをできるだけ減らそうというのが私の姿勢ではあるのだが。
  これから、何が可能であるのかは、子にも、私も分からない。だが、その当座の可能性だけは分かる。そういう意味では、何が可能か分からない不安をかかえながら、皆、当座の可能性に賭けると言うほかないのだろう。






マーマレードを作る。

2016-04-16 15:23:21 | 日記

  今日は、清美オレンジでマーマレードを作っている。これで作り始めて3回目だが、市販のものより大分うまい。輸入物のマーマレードと同じ味、もしくはそれ以上だと思っている。

  実家から、もらってきたホームベーカリーで、最近、食パンを焼いているのだが、トーストしたものに、自家製のマーマレードをつける。イギリス式朝食のものまねだが、うちは朝はほぼパン食なので良いマーマレードがあると生活の幅が増えたような気になる。小さなことだが、良いマーマレードがあるだけで幸せな気分になれるのだから。
  人の幸、不幸は、その人が死んだ後でなければ分からないというのは、ヘロドトスの「歴史」にある記述だが、人の幸せは、その時々でも分かると思う。ヘロドトスが言うのは、物語的な意味での人生についての幸せと、不幸であるが、これはその人自身の視点と言うよりも、他者が見た人の幸せについてである。
  その人が幸せであったのか、ないのかは、他者が見て言えても、本当に幸せかどうかは、当人の視点でなければ語りえないものであろうと思う。
  傍からみて、不幸と思う人も案外、幸せなのかもしれない。これも最近、ユーチューブで見たのだが○○さんマークの引越社の副社長と言われている人物、当人は幸せなのだろうか。それなりに年配なのだが、ほぼヤクザ、堅気とは思えない。私の眼から見れば、不幸な人物だが当人は幅を利かせていると、幸せなのかもしれない。反対に、彼から見れば、私なんかはちっぽけな蟻のような存在かもしれない。
  私の世界観は、独我論的な世界観だが、やはり○○さんマークの副社長はない。独我論においても、あのような存在になることは、自身のプライドというか、許容できる範囲にない。やはり、人の幸せ、不幸せは当人しだいなのだろうか。
 
  美味しかったマーマレードの作り方を書いておこう。
材料
清美オレンジ3個(600gくらい)  (1kgで作ると砂糖が2キロになる)
レモン1
水2リットル
砂糖1.2キロ
ウイスキー20CC
 
清美オレンジをよく洗う。(うちでは薄い食器用洗剤を水で溶いて洗い、その後、よく水で流している)
家の鍋で一番大きなクルーゼのオーバルの鍋(焦げにくいのでこれを使用している。)に、清美オレンジの絞ったジュースを全て入れる。水を全量くわえる。
清美オレンジの皮以外のところ(房のところ)をきれいな布にくるんで糸でとめて鍋に入れる。
中火で炊く2時間くらいだろうか。皮が柔らかくなればそれで良い。
炊ければ、くるんだ布を取り出して、中身をムーランで漉す。ムーランは無いのが普通なので、よく布を絞って、ぬヌメヌメしたペクチンを取り出す。カスは捨てる。(すぐに捨てないで、最後に固まってから捨てた方が良い。)
砂糖を全量鍋に入れて、中火から強火で炊く。沸騰してくるので目を離さない。多分30分程度はかかる。
この時に、作る量が清美オレンジ4個だと家の鍋は小さいので、いつまでも沸かせないので延々と水分が減るまで炊くことになる。3個くらいまでの方が作りよいと思う。
量が減り、とろみがついてきたら、冷凍庫に入れて冷やした小皿を用意してそこに試しに入れてみる。
適度に固まるようなら、そこで火を止め、ウイスキーを入れる。(ウイスキーは無くても良いがコクがでるのと、いかにも自家製という感じがあるので入れる。)
殺菌消毒したビンに詰めてできあがり。(熱いので、間違っても手でビンを持っていれてはいけない。)
 

花見

2016-04-02 15:18:30 | 人生の意味

  川べりの桜を見に自転車で出かけた。コンビニでお弁当とお茶を買った。合わせても500円ちょっと。ビールにしようかとも思ったが、1人で外で飲むビールはそんなに美味しくないので、お茶にした。

  何故か、何度か試したのだが外で缶ビールを1人で飲んでも美味しくないのだ。家でなら1人でも美味しいのだが、外で1人でビールを飲むと疎外感みたいな、ひとりぽっち感がして美味しいと思えない。
  桜を、花見をする人を見ながらお弁当を食べた。毎年、桜を見るが、本当に花見をしたのは初めてのような気がする。人の喧騒がいやなので、混むと分かっているところが嫌なので、弁当を持って花見ということはしたことがなかった。子供の頃にしているのかも知れないが、記憶にはない。
  桜を見るたびに何度目の桜だろうと思う。あと何回見ることができるのか。花が咲き、散る。どうもストーリー的なものを感じてしまう。
  今読んでいるマッキンタイアの「美徳なき時代」に書かれていたのだが、人は自分の人生を物語的に解してしか、人生の意味を考えることができない。花が咲き、花が散る。さくらの場合は、種子がほとんどできないが、花の美しさによって、人間の手を借りて繁殖することに成功しているのだから、戦略的に成功している。
  自分の人生を物語り的に語ることができる人は幸せなのだろうと思う。自分がいつどこで生まれて、何をしてきたか、何を目的に、これが語れるということは生きる意味を語ることができるということだ。
  目的論というのだが、何かが何かのために存在している。人間は神の栄光を証するために存在しているとか、神の計画のために存在しているとか、こういう理解は宗教的な目的論だが、人生を目的論で見ると理解がしやすい。何かこれのために存在している。そういうよすがが必要なのかと思う。
  目的論が誤っていることは、存在が目的に依存していることになるのだから、当然に帰結することだと思うのだが、どこかで人は目的論、何かの物語にすがりたくなる。そういう存在なのだろうと思う。