日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

悲しいことが好きなのは、何故

2015-06-30 07:21:56 | 子との対話
子 何故、悲しい物語や話を人は好きになるのだろう。そんな話を聞いて何がおもしろいの。何でそれを聞きたがるのだろう。TVでも、子供が幼くして病気でなくなるような話をしていたり。
父 悲しいことが人は好きなんだと思う。滅びの物語は昔から人に好まれている。滅びの中に美しさがあるからだと思う。平家物語の最後は悲しいし、ホメロストロイア戦争にしても滅びの物語だし、ギリシアでは悲劇が人気があった。
子 人気があるのは、分かるけど何故ということを思うんだけど。
父 人は、滅びの中に美しさを見出して、その中に生きている意味を見つけるのだと思う。人は、滅びることへの願望があるのだろう。悲劇には、普遍性があって、誰もが共通する悲劇、悲しみを負うことがある。もしくは、それに近いものを抱えているからだろう。生があるのは、滅びがあるからであって、誰もが必ず消滅する。その滅びの中に輝きを見るから、意味や価値を見る。日本史では、戦いの最中に、正妻、家臣を見捨てて、妾を連れて逃げ出し、天寿を全うするような人もいるけど、この滅びの中に、美しさを見たりしない。ある意味、いさぎ良い、徹底した利己主義とは言えるけど。
子 かわいそうに思っている自分があるのが、好きなのかな。自分はいい人だと思うために、悲しい話を聞くんじゃないかな。
父 そういう面もあるかな。人は比較の中に生きてるから。全てが比較と考えてもいい。人と話すのも比較、他人にああ言われた、こう言われたことを考えるのも比較、自分がこう言われたいということと比較をしている。予想外に褒められるとうれしいし、腹が立つのは、自分の考えていることと比較して違うから。比較をして、自分をみているのだと思う。
子 幼く亡くなるような子供の悲しい話を聞いたりしても元気がでるというのは、何故。
父 その短い生の中に輝きを見るから。自分は、何をやっているんだろう。そう思うことができるから元気がでるんだと思うよ。 



存在の意味2

2015-06-21 14:55:17 | 日記
存在を切り出しているのは、一つ一つの言葉だ。私が何かが存在するという時、例えばコップがある。白い皿がある。とか、それぞれ何が存在しているかを言及するのは言葉である。
その言葉が規定するものが存在とした感じられる。例えば、トヨタとかソニーとか会社名だが、存在すると考えている。仮想的存在と言えば、仮想的存在ではあるのだが、もっと仮想的な存在で言えば、白色や赤色、数とか何気に使っている言葉のうちに仮想的な存在は多い。これを存在すると考えるのか、考えないのか。
仮想的な存在を認めなければ、どこで実在に達するのか。白い皿がある。これは皿を認めるからから、皿があるのだが、白いも認めると白いは存在するのか。
個々、具体な白いものはあるが、白い性質は認めない。では白いものとはどういうものだろう。白い性質を認めると
白色は存在するのでは。
私が存在を認める時、それは言葉において何かを切り分けている。言葉は、具体な個物ではない。人に何かが伝わる、何らか抽象性を持つ。この言葉を使うという行為によって既に、何が存在するかは、人の言葉に依存することになる。抽象的存在と、個物、この個物の単位を切り出しているのが、言葉での語、語を単位に何か、存在を見つけていることになる。


存在する意味

2015-06-20 07:37:27 | 日記
「人が存在する」ことの意味を考えると、存在することの意味自体をまず考えることになるのだろうと思う。
存在するということは、単純に分かっているようで、考えると難しい概念だ。
何が存在するかを考えると、物理的に全ての物は素粒子まで還元されてしまう。
では、私が何かが存在していると考えている時に、存在しているものが何かと言えば、素粒子レベルではなく、一つ一つの物だ。この物が、存在する単位になるのだが、この単位は、恣意的に私が物を見る感覚でより分けているのが、実情だ。
多くの人や、建物の風景を見るときにそれらの存在を感じるのだが、それは風景でしかない。個別に何が存在しているかは、風景よりも、もっと近景になった時に初めてその存在を感じることができる。
山登りに出かけ森を見ても、一つの樹木を認識することはできない。そばに寄って初めて存在が理解できる。
私が、存在を感じるのは、このような遠近法に基づいて存在を感じるのである。
「人が存在する」ことの意味を考えた時に、この遠景では「人」の存在は感じることができないのだろう。
この意味で、「何故人は生きるのか」という遠景的な問いをした時に、答えが得られないだと思う。
人が存在することの意味を問うには、その人に近景で意味を問わねばならないのだろう。そうでなければ空回りした空論を生み出すことになるのだろう。