日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

めも

2015-12-30 18:29:34 | 日記
  今年1年は物入りな年であった。子の海外旅行代に、塾代と予想を超える出費があった。この調子で、生活できないのは自明なので、好きなワインや、ビールも控えるようにした。
  食費での節約というのは、難しい。徹底して節約すれば全部止めればいいのだが、それでは生活の潤いがなくなってしまう。趣味を持たない私にしては、ちょっとしたご馳走を自分か妻が作ってもらいそれを食べる。それが楽しみなのだが。子の成長も考えると、節約して豆腐や野菜ばかり食べさせるのもかわいそうである。

時間を大切に過ごす。

2015-12-20 18:22:41 | 日記
  今年も残すところ少し、あと会社に行くのも何日とカウントダウンに入っている。毎年、この頃の寒くなる感じと、年も終わりという感じが好きだ。正月になっても何をするわけでもないのだが、時間が多くできるので読書もできるし、まあ無駄に時間を過ごすという感覚も悪くない。
  この無駄な時間というものだが、時間を大切にするとかよく言われるが、何が大切にしたことになるのか分からないところがある。毎日かつかつに生きていれば時間を大切にしたことになるのだろうか。それとも、何もすることがなく、時間が過ぎていくことに注意する。前者は、時間が過ぎていることにさえ気がつかない、時計を見ると、もうこんな時間かという感じ。後者は、数を数えて時間が過ぎるのを待つ感じ、珈琲を蒸らすのに20秒を数えるが中々時間が過ぎない感じが近いか。
  時間が過ぎるのに気がつかない時は、充実している場合が多い、何かに充実していれば時を大切にしたことになるのか、この考えでいくと生産性が最大に発揮された時、最高に時間が大切にされたことになる。時間あたり単価というような経済学的発想だ。
  一方は、時間自体に注意しているが、その分何もしていないので、生産性は最低だろう。そういう意味では、休暇のようなものだ。
  時間は、大切にする意識があろうがなかろうが等しく過ぎていく。そしてその時間で何をしたかを問うことが、時間を大切にすることの意味なのだろうが、何をしたとしても等しく時間が過ぎていく、このことの絶対性は確実だ。何をしてもなのだが、何かをしたから、大発見や社会の役にたつことをしたとしても、何もなすこともなく終わったとしても時間は絶対的に過ぎていく。この点はあらゆる人に平等だ。ちやほやされる人もいれば、人から搾取された人もいるだろう、しかし、終わりの時は等しく人にある。それがいつかは誰にも分からない。
  後から、人は時間を大切にしたか考えるのかもしれないが、どのように評価すれば良いのだろうか。子供のうちに不幸にも亡くなる人もいるし、高齢で亡くなるかもしれない。その、それぞれの時間をどのように考えれば良いのか。
  私に分かっているのは、ただ等しく時間が流れていくということだけである。充実した時間、充実していない時間、何かをなした時間、何もなさない時間、これらは皆、等しく時間である。
  この誰にも等しい時間を過ごし、生がある。このことの意味、大切に過ごした時間、大切に過ごしていない時間、そのようなものは、本当はないのだろうと思う。


  


最近のお気に入り

2015-12-19 16:04:52 | 日記
  最近のお気に入りが、ブルックナー交響曲第3番だ。去年に買って、2回聴いてみたが、旋律が分からず、その後は聴くこともなかったのだが、最近、ふと聴いてみると面白いことが分かって、何度も聴いている。
  この曲は、旋律というよりも、即興性を楽しむかのようなところがある。勿論、即興ではないのだが、当時の人に、不評だったのがよく分かる。初めて聴いて楽しむような曲ではない。ロックを感じるというか、好き勝手な曲を作っているなあというのが、何度も聴いた後の感想だ。ある意味、一番ブルックナーらしいような気がする。この点、講学的にはどうなのかは知らないが。
  ブルックナーの伝記を図書館で借りて読んでみたのだが、少しというか、大分変わった人だったようだ。世間からずれているというか、天然が入っているという表現だろうか。そう考えると、第3番が不人気だったのもよく分かるし、一番ブルックナーらしいというのも、そういう曲なんだと分かる。それ以来、好き勝手な感じのするこの曲がお気に入りになった。
  遠い日本でさえ、後世に人気が出ると知れば喜ぶだろうと思うが、ブラームスほど人気がないと知れば、これも悲しむだろうが。コンサートで取り上げられるのブルックナーよりもブラームスの方が多いように思う。当人が知ることはないのだが。
  もう一つ妄想だが、カラヤン指揮のベルリンフィルの往年の演奏をブルックナー当人が聴けばなんと言うだろうと思う。もっともブルックナーらしくない演奏というか、めちゃくちゃ滑らかに、こんなにきれいな曲だったかと思う演奏をするのだが、これも当人が知ればきっと驚くだろうと思う。
  クラシックを聴きながら、時折、こんな妄想をしているのだが、実際、平気で1950年代、60年代でステレオ録音で再現して、それを今聴いていると思うと不思議な感がある。50年、60年前の演奏なのだが優秀な録音だと、コンサートホールにいるかのような感覚になるのだから。そして録音に際した演奏者は、もう今生きている人はほとんどいないのだから。ちょっとしたタイムスリップの感覚がある。
  そして、年末になると毎年、第九を聴きに行く。これは、ここ数年、変わらないのだが。
    
  




めも

2015-12-04 19:14:15 | 日記
  今日は、ヴァントのブラームス第4番を聴いている。昨年末に買って一度か二度聴いただけだと思う。ブラームスは、カラヤンが好みだったのだが、北ドイツフィルの柔らかな音色も良いと思う。
  クラシックを聴いていると、次々といわゆる名盤というものが目につく。そして一度聴いてみたいと思い購入することになるのだが、買ってみて続けて聴くアルバムは数が少ない。それでも腐るものではないから、1年後にまた聴きなおすということもある。
  パソコンを使っていると、宣伝が次々と勝手に表示されるのだが、それも自分の好みの物を押してくる。過去にクリックした記録から似たものを表示しているのだろうが、大したものだ。どうしても、購買意欲をわかせようとしてくる。そして、確かに商品を選んでいると楽しいのだが、いらないものを買わされることにもなる。特に、クラシックのCDなんかはきりが無い。気に入ったものがあれば、延々と何度でも聴けるものなのだが、どうしてもあれが欲しいとかなってしまう。
  収入面から、多くの物は買わないようにしているのだが、そのせいで服は今でも20年前の服とかも平気で着ている。どこかで辻褄をあわせると服が一番おろそかになるのだ。子供にはカッコ悪いということも言われるが、それは20年前のものを贅沢なしで着ているのだから、センスという以前の問題だ。ただ、クラシックのCDになると、知識欲というのだろうか、知りたい気分と、収集欲と両方だろうか。どうも甘くなるこのあたり初回限定生産とか言われると、今しか買えないと思わされ、いいように買わされることになる。
  こういう意味では、収集欲のせいなのかも知れないが、良い演奏を知らないで終わるのもつまらないと思い、買いこんでしまう結果にもなる。バランスが重要なのだろうが。

  

めも

2015-12-04 16:33:38 | 日記
  国家公務員の給料が上がるとニュースがあった。とたんに、批判的なコメントが多く、ニュースに続いている。公務員は、労働者に過ぎないので、資本家から見て給料が上がるのは望ましいことではない。波及的に民間労働者も給料を上げざるを得ない状況になるからだ。労働者の立場にあれば、他の労働者の給与が上がることは損にはならない。
  マスコミでも、よく自分の所得は棚に上げて、他人の高給批判をしているが、自身は自分で稼いでいると考えているからだろう。自分で稼いでいると考える人は、本当にそれは適正な所得であるのか考えた方が良い。
  フェイスブックの創業者の寄付がニュースになったが、兆という単位、よく金持ちが慈善活動をしているが、その金は、どこから生じているのか、自身で分配が適正か考える必要があるだろう。自分の働きが、多くの金を生み出すというのは、一定のラインまでだろう。それを超える額は、何らかの搾取が、利益の移転が行われない限り、その富は生まれない。