日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

暑さと忘却

2015-07-31 17:17:42 | 日記
  今日は休みをとった。夏になり、なかなかやる気がでない。モチベーションを維持することが難しい。何をするにしろ、はじめはやる気が必要だ。
  この暑さの中で、何気にクリシュナムルティの本が目についたので、一部読み直してみた。
  クリシュナムルティは私が好きな思想家だ。彼の言葉は、素直であり人間の真実をついているが、こうしろというところがない。結局、考えるのは自分でしかないことを諭し、自分が感じることを受け入れることしか言っていないような気がする。
  人間の欲求を見据え、それを克服しろとは言わない。ただ、その欲求を見ろと言う。その欲求を否定するのでなく理解することを言う。欲求を捨てることを望むことも、欲求だと。
  彼は、ただ、自分を見よと。自分の考えが、話す言葉に、世界が詰まっている。世界の歴史や文化が私を構成しているのだと。
  貧乏人を見下す自分がいるとき、世界の構造がその自分の姿に反映されている。
  私達は、世界に囚われているのだと、この囚われに反逆することが、自由だという。人は、確かに世界に条件付けられていると思う。どこからどこまでが、条件づけともはや分けることができないほど世界に規定された存在だ。
その条件付けに気付くことが自由なのだが、結局はどうすればいいのかと訊きたくなるのだが、彼は答えと言うようなものは言わない。ただ、静かに風景を眺めようということを言うだけだ。
  美しい考えなんだが、日々の生活では忘却してしまう。


安倍と全体主義

2015-07-28 06:52:53 | 全体主義について
  安倍は全体主義者か?
  彼の話を聞いていると、訊かれたことには答えない。同じフレーズの繰り返し。訊かれたことには答えずに、自分が好きなことを何度でも言う。
  彼の特徴であるのだが、こんな全体主義者がドイツにいたのだが、そのまんま同じ。
  彼が、日本をあるべき姿にと考えているのは、確かなのだが、そのあるべき姿「美しい国日本」が憲法よりも優先している。
  日本は立憲主義の国なのだが、それを超えるイデオロギーの発動、このイデオロギーが回転を始めると、憲法は無視される。ワイマール憲法もそのような運命だった。
  この点では、憲法を越える価値観、イデオロギーによる運動という意味では、全体主義者の例に並んでいる。
  日本は、一度動き出したものに歯止めをかける力がほとんどない。今回の強行採決もそうだが、自民党内部には安倍に抗する能力はないし、他党にもない。
  むしろ、国民の中には安倍の外面のよさ、同じフレーズを繰り返されることによってそんな気分にされた人も多い。
  この一部にしろ国民の賛同の中で、戦争法案が審議され、そのままに流れていく。
  新しい形の全体主義というものがあるのではなかろうか。



全体主義について

2015-07-26 17:12:15 | 全体主義について
  最近、アーレントの本を読み始めた。彼女の本は、読みづらいところがあるのだが、その指摘は面白いところが多い。
  本を読み出して、全体主義や悪について考えているのだが、全体主義が悪を生み出すのか、悪が全体主義を生み出すのか。アーレントは、ナチスレーニンスターリン時代のソ連について分析をしているのだが、日本はどうなのかと思う。日本が、全体主義の脈略で語られることは少ない。軍国主義として、全体主義が捉えられることが多いのだが、軍国主義を生み出す背景には何があったのかと思う。ナチスにはヒトラーソ連にはスターリン、日本には東条だろうが、東条が自国民を積極的に壊滅させるべき螺子を回していたようには思えない。結果は、壊滅したけど。
  日本における全体主義の進展は、強力なイデオロギーというよりも、より目に見えにくい雰囲気、協調という名の強制、空気、誰も責任を負うことなく物事が進んでいくシステム、ここに全体主義が、全ての個人を全体として1人かのように均質化していく全体主義が潜んでいるように思う。
  ナチスボルシェヴィキは、全体主義を蔓延させるためにテロルを使用したが、日本においてはその必要すらなかったのではないかと思う。日本の全体主義にテロルが存在しなかったという意味ではないが。
  現代の日本においても、誰が責任を負うのかという質問に対して、面と向かって回答があることはない。トップである私の責任ですという人はいるが、そのトップはどのような責任も実際には負わない。辞めてお終いということが多い。その責任の追求のしようのなさから、無責任と放置、個人という自覚が失われ、集団性という全体に還元されていくのではないかと思う。
  日本における全体主義の芽は、つまれてはいないし、むしろいつその方向性へと暴走していくことも考えられる。
身近に全体主義はあるのだと思う。

台風の通過ときな臭い世の中

2015-07-18 17:23:33 | 全体主義について
  台風が過ぎて、今日から夏らしくなるのだろうか。
  例年、家族で夏には旅行に行っていたが、今年は行けるものか分からない。
  上の子も、下の子もそれぞれ予定があり、忙しい。8月末ごろに都合がつくだろうか。

  安倍政権のもと、解釈改憲が行われているが、自民党は寄らば大樹のかげであり、日和見、ほか小判鮫のような政党は問題外。
  全体主義という流れが来ているのだろうか。日本は、元より全体主義的傾向が強い。
  何らかの議論がなされるわけでもなく、全体の雰囲気、皆さんが空気を読めよという言葉が好きなように。このような結論づけ(論理的整合性、価値観のすり合わせ、合意が図られるのでなく、多数決を民主的と理解する傾向が強い、学級委員長選びのような人気比べ的)がなされることが多い。
  今回の、議論も噛み合っていない。互いに大砲を打ち合うのだが、高射砲を空に向けて打ち合うばかり。これが、自民党が言う議論であり、議論が尽くされた感であり、戦術なのだろう。本当の意図は、国民には言わない。ナチスであれ、ボルシェヴィキであれ、日本帝国であれ同様であった。  
  きなくさい感がして止まない。
  戦争をしないための法案と言っているが、目的が軍隊の使用のための法案であると言わないところ、ビッグブラザーの支配する世界、ダブルスピークだったか。戦争は平和であり、自由とは服従という感がある。
このようなことが、個人の意図により実行されるところに、全体主義を感じる。日本には、議論という歯止めがない。
  また、市民は市民権、公権を行使することがない。ただ、市町村民であるだけ。その町に生まれたということにしか市民を理解していない。公民権の行使の意味こそが市民の意味であるだが。
  こういう面倒くさい議論や、思考を行うことへの興味が少ない。朝のニュース番組を見ればよく分かるが、ほぼエンターテイメント中心、大事な内容は一時間の内、5分から10分くらいだろうか。
  良い世の中を期待するが、うちの子の時代、その子の時代はどのような時代になるのだろうかと思う。


人の善性と水の性質

2015-07-11 09:23:12 | 日記
「水は低きに流れ、人は易きに流れる。」
アニメの攻殻機動隊に出てくるセリフで、言いえて妙なので気に入っていた言葉なのだが、これは老子の水の例え話かと思ってきたのだが、どうも違うらしい。
子が高校で孟子の一説を習って紹介してくれたのだが、
人が善であることは、水が低いところへ流れていくのと同じだ。というくだりがある。
人に善ならざる有るなく、水に下らざる有る無し。
この言葉が、ベースになっているんだろうなと思うが、人と水の関係性で言えば、何故、水が低いところへ流れること自体が、人の善があることの根拠になるのか。
いやそんなことがあるはずがない。と言いたい。
人が易きに流れることは、実感であり、水との関係は勿論存在しない。
これは、例えに過ぎないのだが、人の善性への主張が、水が低いところへ流れる性質を持つことを例えとするように確信ができるのか。
孟子の場合、このことに確信があったようだが、20世紀以降の状況を見た、知ればどう考えるだろう。
全体主義ホロコースト、原爆の使用、原理主義、どれも人の善性が自然であると考えることを否定する材料であり枚挙すればきりがない。
人の善性と水の関係性は、因果関係ではない。類似性があるかどうかという問題だが、善性というそのものが、何を意味するのか。
人の性質の中に善性と、悪を見るのであれば、両者は並存しているのだろうと思う。ただ、並存という言い方もあっていないのかも知れない。Aから見れば善性だが、Bから見れば悪という存在。そういうものがある。全体主義や、原理主義はこの典型だろう。
この善と悪の両面性を見るならば、何が善であり、悪であるのか。これを分かつところ、これも原理主義に陥りやすいところだが、絶対的なものはないのだろう。立場に相対的な善と悪の理解、これが是であるのか、疑問がある。
公共性から見て、善と悪を分かつことができるのか。これも全体主義の経験の前では、公共性自体が悪となる可能性も否定できない。これも立場に相対的な善でしかない。
絶対的、善と悪の存在を主張することは、それ自身が原理主義の立場になる。
そもそも、善と悪が存在するというこの意味から、善が存在すると言った時に、それが何を意味しているのか。というところから、始めなければならないのだろう。善の存在は、皆が理解しているのだろうが、追いかけると逃げていく、逃げ水のようなものだ。しかも一つとして同じところにとどまろうとしないだろう。