原因と結果、運命論者であれば、原因と結果が予め定められていると考えることに違和感はないだろう。私が生まれて死ぬまで指先一本の動きまで汗の一つまで、何事も定まった通りに進む。
この時、原因と結果は成立するのだろうか。結果が予め定まっているならば、結果についての原因は、無限に後退していく事になる。因果の連続だが、どこに区切りをもたらしているかは、人の見方による区切りは、無限分割が可能だろう。私が生まれるためには、5万年前だろうとその父と母が原因にあり、その前にさらに遡及される。
時々考えるのだが、使徒の一人であったユダは、イエスを裏切らないことが可能だったのだろうか。イエスの処刑の原因はユダの裏切りなのだろうか。
ユダに自由意思があれば、裏切らないことも可能だった。そうすると、イエスの処刑はない。この場合、イエスはキリストになることができたのだろうか。イエスはキリストとしての定めがあるのであれば、ユダが裏切らないという意思をユダは自由に持つことができたのだろうか。
ユダは、伝や翻訳にもよるのだが、生まれてこない方が良かったとキリストに言われているが、自分が生まれたことは神の御意志によるのではないかと思う。
そこで、生まれなかった方が良かったと言われることほどつらいものはないと思う。人は、自分が生まれる環境を選んで生まれてくるわけではない。気がつくとそこに存在しているのだから。
生まれたことや、行為の自由という選択の余地は、彼にはあったのだろうか。
イエスは、ユダの裏切りを前もって知っているのだが、彼にはしようと思うことをしろと言い、止めろ。とは言わない。
これが、原因と結果ということだと思うのだが。
良い死に方が出来なかったことも、予め定まったことだったのではないかと思う。
定まった結果についての原因は彼にあったのだろうか。それでも、その結果について人が責任を負うことになるのだろうか。
ユダも悔い改めれば救済されたのだろうか。
悔い改めることが出来ないことも予め定まっているならば、ユダは初めから救われない。
全てのことに原因と結果があるのであれば、初めの原因が作られた時、全てが静的に定まっているのではないかと思う。
また、人の時間の理解は、本質的に原因と結果に基づくものだろう。過去とは原因であり、現在は結果である。現在は原因であり、未来は結果である。追憶は過去への思考であり、不安や期待は未来への思考である。これらは、原因と結果に基づく思考の働きだ。
人は、行為を原因と結果に基づいて述べることになるが、時制が言葉にあるように、人の思考は時制、原因と結果、因果関係に基づいて理解されている。
過去を、因果関係に基づいて理解した時、そこに自由の余地はないだろう。そうする以外に、何々が出来た。可能であったと言うことはできるが、実際に出来るか言えばもはや出来ないことだ。じゃんけんにグーを出して負けて、私はチョキを出すことも出来たというようなことになる。
人が自由だというのであれば、過去に囚われることがない、現在が必要なのだろうと思う。因果関係に縛られた時間理解のもとに現在を考えるのでは、自由はないのではないかと思う。