人は、どうしてゲームをするのだろうか。TVゲームだけでなく、ゲームと名のつくもの全て、サッカー、野球、チェスやボードゲーム、トランプ様々なゲームがあるが、その目的は勝つことだ。
サッカーではゴールに球を多く入れた方が勝ち、この勝ちって何だろうか。将棋なら王か玉を取れば勝ち。客観的に考えると、ゴールに球を入れられて何ということもない。コマを取られても何ということもない。
ゲーム全般に勝ちという概念があるのだけど、この勝ち負け、ゲームは楽しむものだが、常に勝ち負けがあるように思う。何故、勝たないといけないのか。サッカーならたくさん球をゴールに入れると何故うれしいのか。サッカーを知らない人が見れば、何をしているのか分からないが、サッカーを知ると何故、球が入るとうれしくなるのか。球を入れることが勝ちだから、うれしいのだと思うのだが、何故、勝ちがうれしいのか。人と競い、自分の力を誇示することがうれしいのだろうか。最近、マウントという言葉が流行っているが、マウントを取ることがうれしいことなのだろうか。
競技は、参加しないと面白さが分からないというが、ゲーム全般にある勝ち負けは、人間の本質なのだろうか。勝ち負けにこだわらない、というよりも勝ち負けのないゲームそういう文化は成立しないのだろうか。
争いを置き換えたのがゲームなのだと思うのだが、人は争い自体が好きなのだろうと思う。
子供の頃から、様々なゲームを学校教育を含めて行う。部活動では、指導者が当人よりも勝ち負けにこだわっていることもある。人は、勝ってなんぼで、負ければダメなのだろうか。
初めから、勝ち負け、勝負にしないそういう生き方もあるじゃないかと思う。子供の頃から、競争が周りにあふれ、競争で勝つことが褒められる。
このゲームに勝つということの意味だが、本質的に他人に対して勝つということで、自己で何かを達成するとかそういう意味ではない。勝つということ、これを優れたことと考えているが、本当に他人に勝つということは、負けることよりも意味があることなのか、生存を賭けるとか。勝たなくても、負けさせなくても生存は可能ではないかと思う。
社会主義による計画経済の破綻して久しいが、資本主義社会の原点にはこのゲーム、人に勝つことを至上とする思想、人に勝つことを目的にするゲーム、この是認があるから、一握りの大金持ちが、多数の人間を働かせて、富を集中する。このことまでを是認することになっているのではないかと思う。累進課税も、近年、金持ち優遇が進んでいるが、これも勝ち組というものを是認しているところに原因があるんじゃないかと思う。
ゲームに勝つのは楽しいのだが、何故、勝つことが楽しいのだろうか。そこに何があるのか考えてみる。勝つということの客観的な意味、そういうものがあるのだろうか。