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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

クリシュナムルティ感想5

2019-01-01 08:46:31 | 日記
  今日は、元旦だが、昨年から続けているクリシュナムルティについてまとめを書いておこう。内容的には、彼が言っていると勝手に私が思っていること、を書いているので、相違が多く、誤解も多いだろうと思う。
  彼は、人は自由になるべきだと言う。この自由は、他人に配慮なく自分が好きなことをする自由ではない。人を条件付けるものからの自由、そういう自由を持つように言う。
  人は、自由意志で行為をしていると一般に考えられているが、事実はそうでもない。人の行為や、考え、思考を条件付けるのは、伝統、宗教、愛国心、政治的イデオロギー、部族主義、等々。何らかの伝統や主義、信念に従って考えている。
  また、人は、不安におびえ、恐怖を受容して暮らしている。仕事を失う恐怖や、もっと根源的には、自分がなりたいものになれない、ひとかどの人物たりえないことの恐怖、誰かと比較して、自分が劣っている。勝っている。   常に、あるべき偉大な自分と、現実のそうでない自分、金銭的、社会的、精神的に。そういうものと比較をしている自分。ここに自由があるだろうか。
  恐怖や不安、比較、そういうものが人を大きく縛っており、そのもとに思考をしている。今の自分と比較して、明日は自分は暴力的にならないようにしよう。人にやさしくしようとか。今、暴力的な人間が明日非暴力になることはないにも関わらず。
  これらは、現にそこにある恐怖、狂犬が目の前にいるような。そういう事実としての恐怖ではない。恐怖している時は、そこに恐怖と名づける時間はない。恐怖して、それを恐怖と名づけた後に、事実と別に、心理的な恐怖が、事実を対象とした記号、言語化した恐怖が継続する。もう、そういう目に会わない様にしよう。
  この心理的に継続する恐怖は、事実として恐怖ではない。事実としての恐怖、そこに狂犬がいれば、毛が逆立つような感覚を得るだろう。それが恐怖、驚いている瞬間は叫び声はあげても、驚いたというのはその後、それは否定しない。事実としての恐怖には対処がある。
  一方で、心理的な継続した恐怖は、思考が生み出したもの。そこには、比較があるのだろう。あるがままの事実と、こうでありたい、こうであってほしいこと。その差異が恐怖を継続して生み出している。
  事実をあるがままに、見るだけでは、そこに恐怖はない。その事実が、自分の信念や理想と違う時に、恐怖がうまれる。そして、その恐怖から、暴力が生まれる。
  心理的に、恐怖していると自分が考える時、そこに何があるのか、それを見よう。比較している自分は、比較されている自分と同じだ。比較されている自分が卑小であれば、そうであってはならないと思っている自分は、事実、そのまま卑小であること、それが他人ではない自分自身。そういう構造を、そのまま観察しよう。
  事実をそのまま、比較なく見ることができる時、その時に、伝統、宗教、愛国心、信念、恐怖や不安、そういうものから離れることができる。
  そこにあるのが、自由。だと思う。

  
  
  

クリシュナムルティ感想4

2018-12-24 17:43:50 | 日記
    クリシュナムルティは、自分自身を観察し、自身の心の動きに敏感であれと言う。何かに成ろうと努力するのでなく、何故、成ろうとするのか、そこを見ようという。怒りがある時、それを怒りと呼ぶ自分がいる。怒りの対象について、堂々巡りの考えをしている時、それは怒りでなく、怒りと名付けられた思考である。その継続が、恐怖や、暴力を生む。暴力的でないように考えるのでなく、何故、自分は暴力的であるのかを考えよう。
    自分が暴力的である時、そこには卑小な自分がいることを指摘され、気づかさせられた時に、自尊心を傷つけられた、と反発する。事実、そこに卑小な自分がいることを認めないために。
    彼は、道徳的であれとか、執着するなとか、そう言う指針的な事は言わない。自分自身で、自分自身から学び、自分は、社会、世界の縮図、全てがある。そこを観察すれば、人に教えてもらうことはない。人は、教えてもらう事が好きだ。楽だから。何故、教えると言う人が正しいかは考えない。彼は知り、自分は知らない。神や真理を知ると言う人は、神が何であるかを知っていると言う。あなたは神を知らないのに、探そうとする。姿形を知らないものを探し出すことが出来るだろうか。与えられた神が、探し出そうとしているものとどうして分かるのだろうか。
     人は、自分自身を観て、そこに何があるのか、自分がどんな人物なのか、人に話す時、どんな態度をしているか、それを見なくてはいけない。何かに成ろうとする前に。
     自分が何であるかを知ることが出来た時、そこから、人生の美や、醜を見るのだろうと思う。そこには、比較などないのだろうと思う。

クリシュナムルティ感想3

2018-12-15 18:46:40 | 日記
    恐怖は、比較から生じる。あるべき姿と実際の姿。恐怖は思考により生じることを知る時、そこにあるのは比較すること、あるべき姿であろうとすること、それが恐怖をもたらしていること、事実、現在に恐怖が存在するのでないこと。事実の中に恐怖があるのでなく、事実とあるべき姿との比較の関係の中に恐怖は生じ、それを恐怖と名付けた時に概念的に、記憶として恐怖が継続することになる。
    人は、私は、比較しないことを学ぶことが出来るだろうか。私が、比較をしている時、優越感、劣等感にある時にその事に、気がつくことが出来るだろうか。私がその様な感情を持つ時、そこには比較がある。優越感を持つ時、快楽がある。この快楽の喪失も、恐怖の原因であると、その時に気づく事が出来るだろうか。
    恐怖なく生きる。そこに比較はない。比較があるところに、貪欲さがあり、なにかに成ろうとする構造がある。何かになることが出来ない恐怖が、努力を生み、そこに葛藤が生じる。私という容れ物に、自我に何かを詰め込もうとする。私とは、これだと言おうとする時に、実際との、あるがままの事実との違いが生じる。
    私とは、何者でもない。そのことに気がつく時、比較から解放されるのだろうと思う。私は、これだと言う時、そう言う私は、別の私、観察者、発言者としての私、私は、無数の面を持つ。その内の一つを発言者が名付けたとしても、それで終わりではない。名付けの構造は延々と続く。それが、恐怖を延長、次々と更新していくのだ。
    私は、無力であり、色々なことに日々、恐怖している存在だ。恐怖した時に、そのことに気が付こう。恐怖をもたらしている物は、私であり、恐怖に名付けを行なった私を。

クリシュナムルティ感想2

2018-12-14 16:49:23 | 日記
    クリシュナムルティの教えをまとめてみようと思う。私が思ったことのまとめなので当人の言っていることとズレがあるとは思う。
     物事を見るときに、人はイメージを通して観ており、物事に名付けをして、そこにイメージをもたらす。イメージをとおさず、名付けをせずに、そのままに観ること、良い、悪いとういう結論をつけずに観る。そこに真実がある。
     言葉は、記憶であり知識である。知識をとおして観るところ、過去の条件付け、日本人、キリスト教
仏教徒無神論者として、何々として物事を観る。そこに真実はない。
    私を観察すると私は、常に何者かになろうとする。今ではない未来には、ひとかどの何者かになろうと努力をする。進化を目指し努力をするが、生きているのは未来でなく今である。未来に何者かになるのでなく、人は今変わらなければならない。私が変わるのは何かになるのでなく、私が今どうあるか。自分を知る。観ることである。そこに努力はない。今そうでない何かになろうとする。それは貪欲であり、そうでない自分との間に分断 、葛藤をもたらす。何かに成ろうとする努力が葛藤をもたらし、そこに恐怖をもたらす。偉大な私、そういうイメージ、それにならなければならないと思うこと、それが思考の罠であり、そこにはまり抜けだせない。
     自由とは、何かに成ろうとする葛藤、イメージから離れること、それは、何か教えを信じて、精神的に暫時的に階層的に成長することではない。自分を観察し、自分が貪欲であり、恐怖に満ち、暴力的で、攻撃的であること、それらを理解することだ。
     私は、世界であり、私は、世界の歴史、条件付け、思想、それらの構成物、結果である。私を観察すると、そこには世界が、世界の条件付けが存在している。世界に見られる暴力や悲惨は、私を観ると、私の中にもそれが存在していることがわかる。
      私は、世界から条件付けられており、私は一定の立場というものを取るとき、その時には一つのイメージの下に、世界を、あなたを観ることになる。このイメージを離れることこそが大切で、真実を知ることになる。
      人は、何かを信ずるのでなく、自分でこれらのことを理解しなければならない。そこには、指導者と弟子のような権威は、存在しない。正しく物事を、イメージの条件付けなく、決まった立場からでなく、観ることを出来るのは自分だけだ。そこに教えがある時には、それが一つのイメージ、条件付けになり真実は見えなくなる。






クリシュナムルティ感想

2018-11-10 14:53:21 | 日記
  思考は、常に過去に過ぎ行くものであり現在にはない。
  現在が長さを持たない点だとすると、思考は常に過去のものになる。自分が意識しているのは、現在の点でなく、現在から見ると、少しだが前、過去になる。
  また、言葉は、過去からの歴史的遺物であり、現在使っているとしても、それは既に、過去の考え、概念がそのままにそこにある。現在に考えていると思うことは、その実、過去の概念に基づいて考えている。
  今、考えていることは、過去の反映であり、その考える内容は過去について、又は過去を投影した未来についてであり、思考を超える実体がそこ、思考にあるわけではない。 
  思考は、本質的に過去のものであり、今ではない。
  人は、本質的に過去を基に生きているのだろう。
  時間は、感覚的には出来事の連続して捉えられるが、出来事は原因と結果に基づいた理解、文節であり、それは、因果という考え方に依存している。
  因果の連続が出来事であり、出来事の連続が因果である。その出来事も、因果の観点から、原因と結果にわけられ、その原因は、また原因と結果に分割することができる。
  時間は、出来事の連続、出来事間の因果関係に基づく理解、思考だ。
  逆の言い方をすれば、思考こそが、時間をもたらしている。
  現在は、人により捉えることはできない。
  人に出会い、その人の名を思い出す。そこにあるのはその名に付随したイメージ、その人の現在と出会うことはない。初めて会う人であっても、常に、過去の体験からその人についてのイメージを作る。
  過去の体験から、未来への不安を感じ、現在を生きる。その生きている今は、一瞬のうちに過去、その一瞬についても過去についての記憶や未来への不安でしかない。
  人が、今、この瞬間を捉えることは難しい。人は、今を生きているのだが、その今は過去に基づき、過去を投影しているから。
  偏見なく、イメージなくものを見ることは、私にはおそらくできないだろう。ものを見る時に、花を花としてみるのでなく、その姿をそのままにみることなどできるだろうか。
  過去をひきずることなく、また未来を恐れずに生きる。過去や未来は思考の本質のように思うが、その時に私は自分がしていることに気づくことができるだろうか。