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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

何もないこと。

2019-06-15 16:40:36 | 日記
    上の子が就職活動をしている。希望のところに受かればいいが。これから、一人で生きていくことになる。好きなことを仕事に出来ればいいのだが。
  私自身は、仕事は自分が好きなことをしてる訳ではない。毎日、就業時間が早く終わることを考える。これは、不幸なことだと思う。   
    多くの人が、そのことに気がつかずにいる。自分の立場、昇進そういうものに、自分への社会的評価が有ると満足する。自分とそのことを同一視してしまえば、自分の仕事が本当に好きなことかもう疑問に思わない。
    自分はこの歳になって、退屈で辟易した仕事をしている。その上、仕事上の技術と言える物もない。人を勘違いさせる地位、役職もない。蓄えもない。私はこれまで何をしてきたのだろうか。
  自分を見て、何もないと思う。
  子や妻はあるが、それは私の所有物ではない。私が持つ物、何がしか、そういうもので大事なものは何もない。  自分は、ひとかどの人物、人から尊敬されるような何者かに、なりたかったのだろう。そういう願望があるのだろうと思う。一方では、そんなものは実のところ、虚栄心を満足させる他に何もないと思う。
  そのような心が空しいものだと思う。
  自分に何もないことを知ると空しい気持ちがするが、それを受け入れようと思う。人生は、空しいものだと。
  その上で、毎日の繰り返しを、9時から5時まで同じことの繰り返しを、また繰り返していこう。

 

クリシュナムルティ感想7

2019-05-12 17:51:48 | 日記
  「私」は言葉であり、単語だ。私と言う時、私はと考える時、そこに考えとは別の私がいる、存在するように思う。「私は、〇〇さんが嫌いだ。」と考える時、その時の「私」は、嫌いだと言う。主語、主体として、その言葉と別に存在するように思う。言葉を駆使する私が、その言葉、考えとは別に高次の存在として在るように思う。
  実は、そこに誤りがある。言葉を駆使する「私」など存在しない。そこにある言葉、思考、そのものが私なのだ。「私」という言葉を使う時に、私は、何かと一体化する。アイデンティティ、自己同一化、何かと自己を同一化するのだ。私とは、本来、生の全過程であり、「私」という言葉は私ではない。この「私」という言葉が指示する対象があるだろうと思うが、それはイメージ、私はこうである。こうであるべきだ。というイメージそれが、「私」という言葉が指示する対象だ。イメージは、現実ではない。本当に存在する私とは、私の思考、私の体、感情、記憶など、生きている全過程、全活動が私なのだが、「私」と言う時、そこにあるのは、その時々の私の自身へのイメージでしかない。地位であったり、プライドであったりする。
  この私のイメージへの信奉、このイメージが馬鹿らしいものであること、このことに気が付くことが人生を見る、その哀れさ、悲嘆に気がつくことの始まりになるだろう

何もないということ。

2019-03-30 16:24:57 | 日記
    自分に何もないこと、ただ一人、裸の自分がいて、そこには何もない。それを感じるから、それを見たくないから、自分に肩書きを付け、良い服を身につけ、羨望の眼差しを期待する。
    自分はこれを持っている。それは、知識を含めて、これを所有している。それ故に、私は偉いという人との比較、また自身が描く自分のイメージとの比較。何かを所有したいのは、何もないという寂寞感、卑小さ、そういうものを見たくないからなのだろう。
    所有物以外に誇るものがないから、肩書きを欲しがり、人に命令する立場を欲しがる。そこにあるものは、自分に力があると満足感を与える空虚なイメージと、事実としての権力だが、権力は機構としての立場であって人物は代替可能なもので、自分のイメージとは別であることに気がつかない者もいる。肩書きを欲しがる人は、自分が持った肩書きに執着し、それを子供が得たミニカーのように見せびらかす。その姿、当人は気が付かない。互いにそれを褒め合う仲間というものもあるから、当人はそこに気がつくこともない。
    自尊心と所有、そこには結びつきがある。所有しない者は、自尊心を傷つけ、物で所有できなければ精神的なものを所有したがる。そのような物など、イメージに過ぎないにかかわらず、そこに逃避する。
    裸の自分には、何もない。それを直視しよう。所有物は私ではない。逆転して私が物に支配される、物の所有物になるところに、私の空しさが現れていることを見よう。
    

もったいないと思うこと。

2019-01-27 07:32:38 | 日記
  物に対して、執着は無いと思っていたのだが、20年来の車を手放そうかどうか、とても考えこんでしまった。もったいない。そういう心情が正しいのかどうか分からない。機械だけど、苦楽を共にした記憶を捨てるそういう気持ちになる。
  新しい物が欲しい訳ではない。ただ、これまでの日常を変えるそのことに抵抗があるのだと思う。毎日は、同じことの繰り返しだが、少しずつ、全てが老化の方向にある。これは、物についての普遍的な宿命なのだろう。いつかは、何かを失くし、代わりが要るのであれば、それがとって変わる。
  シジフォスの神話のように、毎日、仕事を終え、1日が終わり、また明日が来る。それは繰り返しなのだが、少しずつ滅びへと向かっている。生き物であれば、生まれた時から、そうなのだから、今さら特別のことではないのだが、様々なものといつか別れがある。それがいつなのかははっきりとは分からない。
  毎日に、死があり、様々な物と、別れることを覚悟する。頭でそう思っても、実際に車一つで、その覚悟がないことが分かる。
  物に執着し、それを手放すとき、そこに悲しみを見る。それが、悲しみの原因と知っても、その物を簡単に捨てることよりも、その悲しみも受け入れる。そういうことも、大切なのだと思う。
  執着の原因を捨てる。それも一つの方法、執着を受け入れて、悲しみも受け入れる。私がある限り執着はなくならない。私、そのものが執着だろう。私という意識、そこにこそ、執着があるのだろう。私と、あなた、そこには、完全な断絶があり、私という意識は、私の思考の基底を成している。
  私という経験の集大成、その経験からの判断、そこには限界があることを、客観性の視点からの私を見、主観を見直す。
  執着も受け入れて、そういうことが必要なのだろう。
  

クリシュナムルティ感想6

2019-01-04 18:07:28 | 日記
    クリシュナムルティの教えは、徹底して自分を観察しろ。そして自分で考えろ。というところにあると思う。そのため、楽に、他人に教えを聞いて、何故それが正しいの考えることなく、知っているという人の意見、それを批判なく実行したい、という人には、向いていない。これを信じれば救われるという事は、自分の教えを含めて一切ない。むしろ、そのような教えから眼を覚ますことが、教え、彼が言いたいことだ。
  人は、喜び、優越、偉大さ、そのような幸せという感覚、それに名前をつけて、それを再体験、何度も継続して、それを味わうために、その継続性の確保のために必死に努力をする。色んなことで頭を悩ますのも、この再体験のため、いつでもどこでも優越を感じるために、色んなものを手にいれようとする。又は、手放さないようにする。
  この手に入れる、手放さないことが、恐怖や、怒り、ねたみ、色んな感情を生み出す。元は、幸せだったはずなのに。
  私達は、失敗、劣等感、そういうものへの心理的な恐怖から、努力しているように思うのだが、実は、その努力、これをしたのに、希望のものが入手できない。そういう事態がまた恐怖を生み出す。努力、そのものが、新たに恐怖を生み出している。
  恐怖を失くす努力が、恐怖を起こしている。
  比較、優越、劣等感、再現性、継続性、そういうものに私達は、愛着をもっている。体、心に染み付いていると言えよう。
  これらのことを、ただ比較を止めるだけで、恐怖を止めることができる。比較への愛着、それを止め得たら、真理的な、恐怖と名づけているものの多くは止むだろう。
  それは、明日でなく、今、止めなければならない。それを止めることができるだろうか。努力する。そうすると、それは明日になり、いつか止めることができるようになると思う。その構図は、出来ない。今が明日になることを理解すれば、今でなければ止まないだろう。
  そのことまでは分かる。
  今、止めたと思う。その今は、ある一つの日時を指すのではない。それは毎、次々の瞬間に止めなければならない。
  ただ、私は、ここまで分かっても、次々の瞬間に比較をしている。その思考を愛しているかのように、この思考パターンが定着している。そのことに気がついた時に、また、元に戻っていると思い。本当に、こんなことができるのだろうかと疑いを持つ。
  20年ほど前に、このように思い、あきらめていた。もう一度、頑張って、比較しないことを努力しよう。そうすると、そこには努力、時間、今でなくいつかできるようになろうというパターンがしのび込んで来る。これでは、又、スタートに、循環に戻っているのだ。
  だから、今に、止める。変わるしかないのだが。。。。
  それも、仕方ないことと、諦めを持つ。この諦めは、人は変わらないという諦観だ。
  これが、20年前に、私が考えた、感じたことだろうと思う。
  それを、今、改めて考えている。