goo blog サービス終了のお知らせ 

日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

弁当

2020-06-07 17:10:13 | 日記
   今年の春に、子どもの引っ越しをした。行きは、子と妻と一緒に、新幹線に乗り弁当を食べて、帰りは疲れて妻と二人で崎陽軒の弁当をビールを飲みながら食べた。コロナがなければ、東京を観光して、蕎麦でも食べたのだが。
    疲れてたのだが、やっと子どもが一人立ち出来るところまで来たこと、そういうもので満足だ。もっとやれた事もあるだろうが、自分のことでも一杯で、まあ、がんばった方だと思いたい。
    その時は、疲れたけど妻と一緒に子どもの引っ越しが出来た事は、それだけで幸せなことだ。子がいなければ出来ない事だし、子の就職が決まらなくては、また、一緒にいる妻がなくては出来ない事だ。
    時々、幸せな時のこと、そういうものを思い出す。過去を楽しむのは、良い事なのかわからないが、そういう風に思い返すことがあるだけ良いのだろう。
    

パンと時間

2020-06-01 13:28:19 | 日記
    最近、パンを焼き始めた。ピザやフォカッチャは、以前から焼いていたので本格的なパン、カンパーニュやロデヴのような発酵に時間がかかるパンを自分で作り始めた。これまでのピザやフォカッチャは、砂糖を入れてイーストがそれを食べて、アルコールを作っていたのだが、カンパーニュやロデブは、小麦をイーストが食べて、アルコールを発生させる。そのためだと思うのだが、とても香が良いものができる。
 捏ねてから、発酵が終わるまでに4、5時間かかかるのだが、そこから焼き上げに40分程度、完全に冷めないと食べられないから、さらに2時間くらい待つ。
 朝に始めて、夕方に食べられるくらいになる。酵母も自分で起こす事が出来たのだが、これには4日程度かかる。
 こうして作ったパンでワインやビールを飲む。それを楽しみに作っているのだが、自分の技術の向上、出来上がりの向上そういうものが実感できる。パン屋のパンの出来映えのすごさも理解できるようになる。手の仕事の良さは、こういうところにあるのだろう。
 子どもの世話が、後3年で終わる。これが終わった後、自分のために何が残るだろうか。人の中で、仕事以外に人付き合いもなく暮らしてきた。仕事が終わる時が来れば何が残るのだろうか。
    静かに生きようと思い、人付き合いは無い。別に、特に意図した訳でもないのだが、好きなようにしていると自然とそうなっただけのことだ。
    社交的な事に憧れている訳ではない。こういう考え、好みなだけの事だ。
    毎日を、淡々と過ごす。
    歳をとって振り返ると、この時期の事を幸せに思えるだろうか。幸せと思う時には、その幸せはない。そのことに気がつかない時間、後で想い返してようやく気がつく。

パンと労働

2020-05-16 10:42:14 | 日記
   パンドカンパーニュを焼いた。ピザに比べると、かなり時間と手間のかかるパンだが、上手く出来た。ザワークラウトにウインナーを入れて炊いたものと一緒にワインを飲む。パンが良く焼けていたのでフランスワインの白、いつものチリワインより大分美味い。
    こういう単純なことで喜んでいる。
    子は2人いるのだが、1人は就職した、1人は未だ学生だが、親がかりだが家を出て生活をしている。子供中心の生活ももうすぐ終わる。
    自分で自分が何をして生活がしたいのか、未だに分からない。今の自分の仕事には、個人的生活からの関心はない。労働と、個人生活は分離している。パンを焼いた時のような喜び、そういうものが、労働にはない。
    労働の中に、自分のやりたいことがあれば、そういう仕事を選んでいれば、そう思う事が多い。どんな仕事でも、当人次第で喜びを見つける事が出来るという考えもあるかもしれないが、本質的な喜びは、そこには無い。付随的に、働く事で人と話す中に喜びがあったりすることは否定しないが、当の仕事が喜びである事とは別の事だ。
    世の中には、金のために働く、それ以上の意味は労働にない。それは、一つの真理だろうと思う。自己実現とか、自己啓発とか、そういう言葉があるが、それは、使用者が自分の都合が良い搾取対象である労働者が、自己の意思と信じてキャリアアップ、技術を身につけてくれればいい、そういうものだと思う。
 何をしていようが、自己が実現されている。好きなことをしようが、嫌だと思いながら何かをしようが、そこにあるのはそれを選択した自己、選択せざるを得ない環境も含めて自己が実現されている。そういうものだと思う。
    人に使われて暮らすのは、現代社会の在りようそのもの、そこに、自分の目的を人に使われる。良いように、自分の目的が誘導されていること、そういう事は多い。
    自分がやりたいことが何であるのか、いい歳をして未だ見つからず、もう見つけることも無いのではと思いながら暮らす。
    そんなものは、初めから無いのかもしれない、もっと、今、目の前のパンの出来を見る、やりたくもない仕事も、黙ってする。それだけ、考えて、どうこうなる訳でもないが、そういう風に、考えるのが良いのか、なるようにしかならない。

協調と同調

2020-05-09 12:55:11 | 日記
    ひきこもり生活が続いている。仕事には行くが、買い物を除けば外に出て過ごすことがなくなった。
    私は、雑談ということが嫌いで、興味がない話に付き合うということがない。それが嫌なので、友人付き合いというものもない。
    成熟した大人が人付き合いも出来ないというのも、未熟を表すようにも思えるが、興味がないことに付き合うという同調意識そんなものは、何の価値もない幻想、そうする事しか知らない人の狭い了見なのだと思う。
    協調と同調は、違うものだ。飲み会に参加するのは、同調、協調ではない。協調は、義務についての他者とのコミュニケーション、調整能力のことだ。そこに、義務観念がなければ、人を殺す相談でも協力しなくては成らなくなる。同調すると、人を殺す事も、むしろ義務観念になるだろう。同調から義務が生じてくるという逆転が起こる。戦前、全体主義下の日本やドイツで起こったことだ。
   私は、協調はするが、同調はしない。何が正しいのか、初めにその事を考えて、義務が何であるか、そう考えないと、オウムやカルトのように、偉い人が言うものが正しいとなる。
   これは、つまらない価値観だ。会社でも、馬鹿ほどこの考えに縛られて、自分が客観視できない者がいる。滑稽な姿だ。
    まあ、そういう私も、周りから見ると滑稽な人物なのだろうが、この断絶が人付き合いを面倒なものにするのだろう。
    我々は、本来、一人で生きている。物理的には、他者の力を利用しないと生きていけない事とは別に、自分の視界、眼に見えている世界、この視点で世界を見る者は私しかいない。この事、人は、初めから終わりまで一人なのだということ。
   この気づきのあるなしで、同調や断絶というものがあるのだろうと思う。

マーラーの第9番を聴いて思うこと。

2020-05-03 19:50:47 | 日記
  マーラーの交響曲第9番を聴く。走馬燈のように思える。不吉さがあり、美しさがある。
  この曲を聴いて元気になる事は無いのだが、自分の気持ち、諦め、そういうものに繋がるような気がする。
  自分が何をして来て、何をこれからしようとしているのか。人生を終わる時に、どんな終わりがあるのか。考えても、分からないことだ。
  自分の人生に意味があったのか、それはどんな意味なのか。社会の中で、生きているが、決して重要な存在ではなく、凡庸な存在に過ぎず、多くの人間の1人でしかない。私が、生きる上で迷惑をかけた人もいる。
  楽しいことも多くあった。それも、時々思い出す。よく、夢に見ていることもある。
  これから、どんな楽しいことがあるのか、私にはイメージが湧かない。もお、そういう時が過ぎたように思えるのだ、それが、憂鬱なのだろうと思う。小さな楽しみは、今でもある。
  そういう、小さな楽しみに満足を見いだす。そういう諦め、その気分が、マーラーの第9番にはあるのだ。
  そうして、いつか、青空の中で消えていく雲のように、自分もいなくなるだろう決まったことである。