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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

時間は大切

2021-06-06 16:15:00 | 日記

  グーグルマップを使って懐かしい場所を見る。昔の職場だったり、子どもが小さかった時に行った場所、学生時代に行った先を眺めることができる。

  懐かしい気持ちになる。あの時は、つらかったとか楽しかったとか思い起こすことがある。思い起こすことにより、記憶が言語化されてより懐かしいという気持ちと結びつくのだろう。

  昔の記憶を辿ることは、おもしろいが失くしたものを再度、手に入れよう、味わおうとすることだ。一度、起こったことは過ぎ去ればもうもどらない。それを出来るだけ保持しようと、写真やビデオに残すのだろうが、そこには懐かしいという気持ちが残るだけだ。それを見て楽しむことは別に悪いことではないが、今はそこにはないと思う。

  時々、そうやって昔を懐かしんでいるのだが、大切な今があるわけでもない。この今が大切なことは自明のことだが、その今を大切に使っているわけでもない。時間をつぶしながら、何をしようかと考えることが多い。

  時間を大切に使うということは、どうすればそう言えるのだろうか。のんびり過ごしたら、時間を大切にしたことになるのだろうか。それとも、忙しく何か仕事をしていれば時間を大切に使うことになるのだろうか。

  時間は、無駄にしようが、大切にしようが勝手に過ぎていく。どのように抗うこともできず、ただ過ぎていく。取っておくことは出来ない。そのことを知っていても、そもそも何が無駄という基準すらがないだろう。

  人生は短い、やりたいことをやれた人は幸せな人だ。私は、自分の人生を見て、やりたいことをやったと言えない。出来なかったことがあるし、出来たこともある。その出来たことにとりあえず満足していこう。

  そう、そう言って、毎日をだましだまし暮らしているような気がする。

  

  


世の中にあるもの

2021-05-27 15:57:09 | 日記

    後悔や誇りとか、そんなものは、物ではないから存在しないのだろうか。でも、私の心には後悔していることがいっぱいある。心の中に存在するものは、本当は存在しない思いに過ぎないのだろうか。

    自分の外部にある物と呼ばれるものは存在して、自分の心の中にある思いは、実は存在しない。何かおかしい気がする。自分の外にある世界こそ、実は仮で、外にあると思ってるが、その外と呼ぶ世界は私の心の内にある。

    自分の心の中の思いこそ確実に存在していると思えるもの。

    一方で実在を考えると、原子や分子、素粒子のような物理的な対象こそ存在すると考えてしまう。目に見えない物を対象にして空想的に、それが実在と考える。

    どちらも似ている気がする。実在と考えることが、実在でないなら考えの対象は実在なのだろうか。

    色即是空、空即是色、この理解があっているのだろうか。考えも実は存在しない、対象も実は存在しないのだろうか。

    世の中には、実は存在しないものはあるだろうと思う。例えば正義とか在るのかわからないもの、でも、自分の心には怒りとかが確実にある。だからこそ、人の世に争いは絶えない。


日々の暮らし

2021-05-21 16:36:51 | 日記

    JBLのスピーカーとマランツのavアンプとSACDプレイヤーで音楽を聴く。いずれも、1番安いくらいの製品だ。6畳の部屋で聴くには十分な気がする。休みの日は、好みのCDを聴く。

    朝起きて自分でパンを捏ね、昼過ぎか夕方に焼き上がる。そのパンでワインかビールを飲む。

    何の不足がある訳でない。欲を言えば、不足しかないとも言えるが、贅沢を言わなければ、細々、街の片隅で人に気づかれもせずに暮らしている。こういう自分の楽しみに満足していれば良いのだが、これで良いとも思えない。

    何か野心がある訳でなく、 野球やスポーツを観戦して、tvを観て過ごす。私は、そんなことはしてないのだが、そんなことに夢中になれる人もいる。それともふりをして、多くの人がそんな風な事に夢中になって歳をとり、いつかは死んでいく。当人が良ければそれで良いのだが、私は特に夢中になる事もない。でも歳をとりいつかは死んでいく。

 野球観戦を例に、そんなことと言ったが、私がやっていることもそんなことだ。ということは自分でも分かっている。人によって何がそんなことなのか、重要なのか。私には、重要と思えることがない。

 体調を壊したりするとそれが重要だと思うのだが、こういう重要さは生活の背景、前提になっているので、それが重要というには余りに基礎、その上のものを求めていることも分かっている。

 それで、普遍的な何か大切なものが欲しいと思うのだろう。主観的に大事なものがないから、普遍的な何かを探しているようにも思う。自分で大切なものが見つけらないから本を読んだりして、何が大切なものなのか知ろう、見つけようとしているように思う。たぶんそんなものは、本で得る知識の中に無いだろう。それも、何となくだが分かっている。

   これで良いのだろうかと思うのだが、結論はない。それで、毎日、同じことを繰り返し暮らしている。

   


有意義と無駄

2020-11-22 10:41:57 | 日記
    週末にパンを焼く。今日は、メテイユ、ライ麦と小麦粉を半々に入れた田舎風のパンだ。時間がかかるが、する事があるのは良い。これをする為に有意義に時間を使ったと思うからだ。
    有意義だろうが、無意味だろうが、自分でそう思うだけだ。仮に、何もせずに過ごしても、有意義と思えばそうだし、無意味だと思うとそうなる。そこに、客観的な判断があるわけでない。主観がそう思うだけだ。
     何故、有意義だったと思いたいのだろう。何もせずにいることと、有意義だったことと、実は違いはない。生産性という基準であれば、人は生きていかなけれならないから、飯のタネを稼ぐには働かなければならない。ただ、金を稼いでもその時間が、有意義だったと思うか、金の他には無意味な時間、無駄な時間と考えるか。
    実は、時間の側には、有意義も、無駄もない。時間は、物理的な座標の様なものだ。時間自体が存在しているわけでもない。時間は、人が流れていると感じている思考でしかない。過去は記憶としてしか存在しない、未来も期待でしかない。有意義な時間も、無駄な時間も、感覚する当人の問題でしかない。
    1日を無駄に過ごしたか、そんなことにお構いなく、時間は過ぎてただ人は歳をとる。
    有意義や無駄という基準も、ある意味、無意味となる。そこにあるのは人の思いに過ぎない。有意義に過ごすために、何かをしようというのは、逆転した発想なのだろう。何かをしたから有意義だったと思うのであって、有意義にする為に何かをする。その事は虚しいものだ。
    退屈しのぎに、何かをする事は虚しい。多くの事がこの虚しさを埋めるために成立している。それでも 、元に戻ると虚しさがある。
    虚しさを受け入れて、有意義や無駄という基準を止めれば、もう少し落ち着いた生活があるのでないかと思う。




「こころ」を読んで思うこと。

2020-09-18 16:40:39 | 日記
    Kの死は、先生の罪なのだろうか。Kの死は、先生の行為の結果なのだろうか。一つの考え方は、先生の行為が一つ違っていれば、結果も違っていたということだろう。先生に一定の責任と罪を見ることになる。
  もう一つの考え方は、先生の行為とKの死は法則的な因果関係が成立しないということだ。先生の行為があっても、Kは死ななくて良い。先生に責任も罪もない。
  何らかの、Kの理由によってKが死んだのは事実だが、先生のある特定の行為は、Kでなくても、人ならば誰しもが死ぬという種類のものではない。
  先生のある行為という偶然の行為があり、それに連続してKの死があったので、人は相互に因果関係があるように見るが、ヒューム的な考えになるが偶然の出来事が続いているだけであり、相互にそこに論理的必然性があるということではない。仮に論理的必然性が主張できるのであれば、先生の行為は殺人ということになる。
  自死(ここでは自殺ではなく自死という語を使用する。それは上記のような意味合いを自殺は連想するため、自らの死という意味合いのあるこの語をここでは使用する。)の関係者が苦しむのは、この論理的必然性がないにもかかわらず、関係者と自死した者との間には因果関係があると自らが思い込むところ、又は関係者が互いにそのように、あいつが悪いと考えるところにある。
  Kの死と先生の行為の間には、法則的な因果関係があるとは思えない。偶然の結果、悪い方へと物事が連続したのであろうとは思えるが、出来事間に必然性があるとは思えない。
  行為と結果、これを説明する理由の間には、一定の関係性がある。行為を説明するには、その理由を原因として説明することになる。行為を原因により再記述したものが理由となる。人の行為を解釈するには、その理由として、行為の原因を指示して説明する必要があるのだ。Kの自死という行為、その結果である死。自死という行為を解釈するには、理由が必要であり、原因による自死という行為の再記述が必要になる。
  この原因は、強い因果関係の理解だと、行為と結果の間にはある特定の法則的関係性が要求される。一方で、行為と結果についての説明には、そのような特定の法則性が指示できなくても、何らかの法則性の存在が認められるのであれば、弱い意味になるが因果関係が認められる。窓ガラスに石を投げて、窓ガラスが割れる。窓ガラスが割れたのは石が原因だと言われる時、物理法則が特定されているわけではない。(割れない可能性もある。ガラスの強度、石の速度、質量が特定され、結論されるわけではなく、これらを厳密に確認することは出来ない。)そのような物理法則の存在が推測されるだけだ。
  この弱い意味での因果関係、Kの死について先生の行為と何らかの関係があるのであろうということは、そのように思われる。Kは死の意思決定に至るには、思考のマトリックス、縦横の思考の重なりによって決まったのだと考えられるが、先生の行為がどの程度の影響があったのか言えない。
  先生が悩んだのは、この自身の行為とKの死の因果関係における自身の役割だと思う。強い因果関係は否定できるのだが、弱い因果関係をとると何らかの関係性を求め認めざるを得ない。
  強い因果関係があれば、先生には贖罪の道があったようにも思う。人に罪を告白する道もあったのだろう。先生には、弱い因果関係しか認めることができなかった。主に、Kが自死のような極端な行為をすることにどこまで、自身の責任があるのか。先生と同様の行為に対し、多くの人は、Kのような行為はしないであろうと思われる。 
  先生は、強い因果関係を見て死んだのではないが、罪の意識、故に死んだ。罪の意識の元になったのはKの死とその前にあった先生の行為。そこに何らかの関係性を見たからであろう。先生は自身の行為が卑怯なものと考えた。そこにKの死、謝罪、贖罪の不可能性。
  ここで、仮にに因果関係を認め、先生の責任や罪というものがあるとしよう。この責任や罪の実在性、Kの死に先生に責任があるとすれば、この時に考えられる罪というもの。この罪というものは、実在するのであろうか。
  罪が物理的存在者でないことは議論の余地のないところであろう。罪は抽象的存在者、概念上の存在者であろう。先生の概念として、先生の心の中の存在者として罪がある。
  この罪というものは、先生の手紙を読む「わたし」と、「こころ」を読む読者の他に存在するところはない。この罪は先生の心を知る者の中にしか存在しないのだ。「わたし」は先生の手紙を通して先生のこころを知る。
  先生のこころの内に存在するという罪、これは公共的存在ではなく私秘的な存在である。あくまで、この罪は先生の概念上のこころの内の存在であり、こころの外にある公共性のある罪ではない。手紙により先生のこころは語られる存在となり、客観性を持つのだが、こころが客観性を持つ手紙となった時点で、視点は読者に移動し、そこに先生の主観性は失われる。
    先生の主観を表現している客観的存在が手紙なのだ。その客観的存在である手紙を読者が読む限り、先生に罪はないと思われる。
  先生のこころのうちにある罪、それが客観的表現を得て手紙となる時、そこに読み手は罪を見ることはできない。そこに見えるのは、不運な出来事。出来事の連続を手紙は表しているのだが、罪は出来事ではないので、罪そのものが顕わにされているものではない。
  出来事は、実在的な存在、事実であるのだが、罪は事実というような出来事ではない。その人の主観に基づくこころの内に存在する観念、そういう意味では実在ではない。
  手紙という客観的存在者としての出来事の連続の記録。それと、罪という先生の主観、観念上の存在、それを読み取る「わたし」。「わたし」は、手紙を読み解く主観的存在者なのだが、そこには、手紙と言う性質上、先生の主観を観察する観察者に位置することになる。「わたし」は主観的存在者であるが、他人の手紙を読むという点において客観性を担保された者、主観的存在者ではなく、客観的存在者にあたる。
  この「わたし」の語りを読むことにより、「こころ」の読者は、先生に対しては客観的存在者、観察者として先生の主観を推察することになる。
   客観と主観が、ロシアのマトリョーシカ人形のように多層的に入り組んでいる。手紙は先生の主観であるが、「わたし」が読むことにより客観となる。「わたし」の語りは、「わたし」の主観であるが、読者が読むことにより、客観になる。手紙を読む「わたし」、「こころ」を読む読者は、それぞれ主観的体験をしているのだが、手紙に対して客観的観察者の立場に立つ。
  読むという行為自体は、主観的体験だが、その内容に対しては第三者的、客観的観察者の立場に立つ行為でもある。
    客観的事実というものが、この小説の中にあるわけではない。仮想、フィクションの中の事実、それが経緯として先生や、「わたし」の主観を通した語りによって事実として記述される。
    先生のこころにある罪は、手紙によって公共性を持つがその時に先生は存在しない。結局のところ、罪の存在は、先生のこころにすら、その在りかを失い。手紙において、過去完了形の罪として、罪があったのであろうということの推測だけが残る。
  罪というものは、存在なのだろうか。こころのうちにしか存在しない罪は実在なのだろうか。
  何が、実在するか、しないかはその存在を問うレベルによる。罪が存在するレベルとは、刑法上のレベル、罪の意識のレベルにおいて実在するしないを問うても、そこには、主観のなかに、こころの中に存在があれば実在と言わざるを得ないだろう。罪の有る無しを問う、それを考える時点で負い目を感じている。それが、罪とういうものの本質なのだろうと思う。
  生きる者は、それ故に罪をかかえてしまう。贖罪や、救いを何かに求めるという行為にたどり着くのであろうと思う。
     先生の手紙は、先生の贖罪であり、それは遺書という形式になっている。 そのうえで、「こころ」という作品自体が、作者の思いから生まれた一つの祈り、未来と過去を隔てる区切りのようなものでないかと思う。