週末にパンを焼く。今日は、メテイユ、ライ麦と小麦粉を半々に入れた田舎風のパンだ。時間がかかるが、する事があるのは良い。これをする為に有意義に時間を使ったと思うからだ。
有意義だろうが、無意味だろうが、自分でそう思うだけだ。仮に、何もせずに過ごしても、有意義と思えばそうだし、無意味だと思うとそうなる。そこに、客観的な判断があるわけでない。主観がそう思うだけだ。
何故、有意義だったと思いたいのだろう。何もせずにいることと、有意義だったことと、実は違いはない。生産性という基準であれば、人は生きていかなけれならないから、飯のタネを稼ぐには働かなければならない。ただ、金を稼いでもその時間が、有意義だったと思うか、金の他には無意味な時間、無駄な時間と考えるか。
実は、時間の側には、有意義も、無駄もない。時間は、物理的な座標の様なものだ。時間自体が存在しているわけでもない。時間は、人が流れていると感じている思考でしかない。過去は記憶としてしか存在しない、未来も期待でしかない。有意義な時間も、無駄な時間も、感覚する当人の問題でしかない。
1日を無駄に過ごしたか、そんなことにお構いなく、時間は過ぎてただ人は歳をとる。
有意義や無駄という基準も、ある意味、無意味となる。そこにあるのは人の思いに過ぎない。有意義に過ごすために、何かをしようというのは、逆転した発想なのだろう。何かをしたから有意義だったと思うのであって、有意義にする為に何かをする。その事は虚しいものだ。
退屈しのぎに、何かをする事は虚しい。多くの事がこの虚しさを埋めるために成立している。それでも 、元に戻ると虚しさがある。
虚しさを受け入れて、有意義や無駄という基準を止めれば、もう少し落ち着いた生活があるのでないかと思う。
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