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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

目を凝らして見ると在るかな?

2016-11-12 18:52:56 | 日記
  在るものと無いもの、在るものがどういうもので、無いものがどういうものか説明できるだろうか。素朴に言うと、目の前に在るものがあるのであって、そこに無いものがないものくらいだろうか。
  目の前にあるものがあるというけれど、パソコンが目の前にあるのだが、パソコンはキーボードと液晶画面に、ハードディスク、CPU、バッテリー等々の組み合わせでできている。私のパソコンは、キーボードのシフトキーが外れかけているのだが、外れたキーはパソコンではなくて、外れていない時はパソコンなのだろうか。けっこう多くの部品からできている物は多い。それをまとめて例えばパソコンと言っているけど、パソコンが故障した時は、それらの部品もパソコンなのだろうか。その時は、廃パソコンなのか、それとも各部品の集合になるのだろうか。
  私達が、単純に物と思っているものも、言葉による仕分けとでもいうのだろうか、一般名詞になっているものがあると思っているのだが、実際にそこにあるものは「パソコン」なのだろうか。一般名詞がそのままあるわけではない。物があるのは確かなのだが、そこにあるのはどこにでもある「パソコン」、電気屋に行けば何十台とある「パソコン」そのパソコンがあるのだろうか。
  こういうと、パソコンと呼んでいる具体な物がそこにあるんであって、「パソコン」があるわけじゃないような気になってくる。世の中のほとんどの物が「パソコン」と同じで一般名詞で呼ばれている。固有名詞にしても、結局は同じになるのだが、イチローという人がいるが「イチロー」が存在しているという時、何か抽象化された物が存在するように感じる。そこに本当にあるのは、名でなく事物のはず。
  こういう見解が唯名論なのだろうか。私は、一般的な意味ではパソコンや、イチローの存在を疑っているわけではないのだが、私達が存在していると感じている物の多くは、物を切り分けて名を付けているのは人で、物自体にファンタジーにあるような物自体の本質を表す「真の名」で呼ばれている物があるわけではない。
  本質という考え方も、物の本質というときパソコンの本質でいけば、シフトキーはパソコンの本質ではないような気がするが、シフトキーがないパソコンは使えないと言えば使えない。そうするとパソコンの本質はシフトキーやバッテリー、バックライトを含めて個々の構成部品の性質を本質とすることになる。そのバッテリーにしてもその本質はというとリチウム、電極等々、細分化されそれらの集合が本質ということになる。そうすると、本質というものが本質らしくなくなってくるのだが。
  私が存在していると思っているものは、目を凝らして見れば見る程に、小さな物からできているし、実はあいまいに存在していたりする。
  物でさえもこれだから、愛情があるとか、ないとか。学歴とか、責任感とか、目を凝らせば存在というのは、凝らすほどにあいまいで、あるのかないのか、確率論的にあるのだろうなと思うくらい。
  こういう信仰がないと、世間では生活できないけど、時々そういう世間を見ていると本当に何が存在しているのだろうと思う時がある。





植木と私

2016-11-06 14:02:51 | 日記
  日帰り温泉施設へ行ってきた。そこに露天風呂があり、ちょっとした植え込みがある。そこには、人の身長くらいの樹木が植えてある。そこへ行く度に思うのだが、ちゃんと在る。私が見ていない間に枯れたり、消えたりしていない。私と、その植え込みとどちらの寿命が長いのか分からないが、行く度にまだあると思う。
  私に関係なく、その樹木は成長し、私に関係なくいつかは枯れてしまうものだと思う。永遠にそこにあるわけではないし、その温泉施設もいつまでもあるわけではないだろう。私に関係なく、私と関わりのない人間の意志でその樹木はそこに植えられたわけだが、木からすれば人間の意図を知るわけでもない。
  人間の意図があろうがなかろうが、日の光があれば、そこに与えられた場所に育つ。
  人が露天風呂の景色のために、置いたのだがそのことは木にすればどうでもよいこと、木は何も考えない。木に目的があるかと言えばそのようなものはないだろう。そこにあるから、そこに育つだけだ。自然と葉は、日の向きにあわせて茂っていく。
  私と木の違いはあるのだろうか。私は、何故ここにいるのか、誰かにそこにあるように配置されたのだろうか。誰かの意図があろうとなかろうと、植木が自分の目的を知らなくとも何も問題にしないように、私はそこに置かれている。私がそこに置かれて意味があるかないかは、私には分からない。私はそこで日があれば日を浴びてそこにあるように生きる。ただそれだけの存在なのだろうと思う。
  生きることに意味や何かを求めるのは、植え込みに置かれた植木の意味を考えるようなものだろうと思う。植木にはどうでもいいことだ。そのような意味があろうがなかろうが、そこで育つだけ、そして枯れていくそういうものだと思う。




優秀という気持ち

2016-10-22 06:51:03 | 日記
  自分が優秀だと人は思いたいのだろう。どこかにそういう気持ちがある。外の人とは違うんだと。誰も似たようなもんだと思うのだが。金がある人はそれではっきりと周りの人とは違うと言える。実際に他人ができない贅沢をしていることが自分で見ることができるから。
  金がない人、自分のことだが、そういう人は違うところで、他人とは違うと言って自分を褒める。どこかに自分を褒めるところがないと、生きるよすががない。立つ瀬と言ってもいいだろう。自分のテリトリーそのようなもの、実際に生きる場面、環境であるわけだが、そういうものがないと。ここが自分の場所だといえるところが欲しいのだと思う。
  でも、実際にそのような場所があるわけではない。皆、そう思い込んでいるのだが。そのような場所は、仮の住まいでしかない。そこにあると思っていても移ろいゆくものでしかない。自分の場所は、物理的に居ている場所が自分の場所であるに過ぎない。心理的にそこが自分の場所と考えても、その場所もいつかは、自分ひとりになるだろう。現実にそこに、自分の心の中にいるのは自分でしかないのだから。そこに住んでいると思う他人は自分の写し、期待のようなものだろう。
  そうすると、自分の1人であることの寂しさを忘れるために、自分が1人でないかのように人と話し、共感というものを期待する。そして、そのことに自分を慰める。共感でなくてもいい。そこに敵を見つけることもできるだろう。それに夢中になっている間は、自分が1人であることを忘れることができるのだから。共感であれ敵であれ、何か自分がなすべきことを見つけた気になることができるのだから。
  そこにある自分がなすべきことをなすことで、自分は優秀とか、褒めるとか、自分の生きる場所を見つけるだろう。それも、自分というものを支える支点のようなもの。それが自分は優秀という思いなのかと思う。
   そういう自分の思い込みたい気持ちを忘れる方が、いっそ楽なんだろうと思う。立つ瀬がない、人生そういうものだと、川に浮かぶ葉っぱのようなものだと。もとよりどこに流れているか誰にも分からないようなものだから。
  何が満足で、何が不満か、自分が満足するものも、それも、自分ひとりの話、どこかに基準があるわけでもない。人からつまらないと言われても、それはそれで満足していくことだと思う。そこで満足するために、帰って、自分は優秀、人とは違うのだという気持ちになるのだろう。




存在するもの

2016-10-09 08:51:52 | 日記
  世の中に、というか自分が世界と思っているもののうち、本当に存在するものは何かということを考えると、ほぼ何もないんじゃないか、というか原子、電子、素粒子のようなものが存在するだけの物理的な世界。
  実際に、人の眼で素粒子が見えるわけでないので、そういうものがあると信じているだけ。科学を信頼して、素粒子が存在することを信じているけど、私の知識で立証できるわけでも何もない。
  実在するものが素粒子だと思うと、世界の側にこれ以上に何かが存在するわけでもなくて、ものに名をつけている人間の側が存在するものを区分しているだけ、世界の側に区分される何かがあるわけではないように思う。
  そうすると、色んなものが存在すると思っているけど、実際の存在はもっとシンプルで何もないというのが、本当のところかもしれない。色んな制度、法律や国家、社会の枠組み的なものは、全て実は存在していない。存在していると考えるのは、人間の空想力の産物が存在している。出来事だとか、歴史というものは、空想力の産物、そういうことがあったという事を否定するわけではなくて、今あるわけではないので、過去にあったことを空想、イメージしてそれがあったということを信じているというわけ。
  そう考えると、世の中にあるもので本当にあるものなんて、イメージの産物、そのイメージを得るために皆、奮闘しているのだと思う。美味しいお肉だとか、ご飯というものはイメージでなくて、食べると美味しい、住み心地の良い家とかそういうものを手に入れるために奮闘しているのだと言う人もいるだろう。それは、本当に存在していると思う。確かに違いはある。それが、どれくらいの違いなのだろう。色んな物に囲まれて、一生手が届かないものもたくさんある。それを手にするのと、手にしないのとどう違うのだろうか。そこにもイメージがやはりあるんじゃないかと思う。延々と心地良いものを手に入れるために、働く毎日とか、奮闘する毎日って、そこに心地良さは本当にあるのかなと思う。
  何か、馬鹿げたことを、馬鹿げたゲームを自分で乗り気でやっているという感じ。何で、そんなゲームをしているのかというと、ゲームだから、外に楽しみというか、ゲームしか知らないからという感じがする。
  世界が素粒子で出来ているのであれば、自分も素粒子で出来ているわけだから、その素粒子がどういう組み合わせか知らないが、心地良いものを感じたり、生み出しているわけだ。素粒子の振る舞いからそういうことが、起きているのだけど、その素粒子の振る舞いは、つまるところその場限りで、外の素粒子の振る舞いとそんなに違いがあるのだろうか。行き着くところは、皆同じ、貴賎を問わず。世の中に、本当にあるものなんて、思っているよりも少ないような気がする。
  反対に、世の中にあるものは、人が思っているものが無くて、思っていないものの方がたくさんあるんじゃないかと、思う。
 





どうしてここにいるのか。という気持ち。

2016-09-25 15:50:59 | 日記
        自転車で河口まで走ってきた。川辺は変わらずジョギングやサイクリングをする人、少年野球、釣りをする人、いろんな人がいる。
  その中を1人、自転車で走るのだが、いつも思うのだが、どうして私はここにいるのだろう。と、
  自分で自転車に乗ってきたのに、どうしてここに、という問いもおかしいのだが、別に、自転車でここに来なくても良かったのに。でも私はここにいる。
  ここにいることは、自分で選択した結果なのだが、この選択というのは、さかのぼると朝、自転車で出かけてみようかなと考えたこと、それ以前に、この家に住み、今の仕事を選んで、その前には大学を卒業して、以下、延々と遡及した結果が、今。
  それで、どうしてここにいるのだろうと思う。この思いをすることは、つまらない会議に出たり、つまらない宴会に同席したり、そんな時にもよく思う。どうしてここにいるんだろうな。違うところにいることもできたんじゃないかなと。
  でも、実際には、ここ以外にいる場所はない。これから違う場所を選ぶことはできるが、今はここしかない。
  そして、「今はここしかない」のだけど、今でない未来や過去には、ここは、存在しない。あるのは「ここ」でなくて、今から見る未来や過去には「そこ」にしかない。私が考えて、今の自分がいる場所を見る時は、未来や過去に見るのでなく今しかない。結局、今のここしかないことになる。
  今と違う場所を選んだとしても、その時にはそこが今はここしかない場所になる。その時、どうしてここにいるのだろうと考えるのだろう。
  私は、ずっとこの「どうしてここにいるのだろう。」という問いを持ち続けているような気がする。どうしてここにいるのかは、訊かなくても、自分の行為の結果であることは知っているのだから、尋ねる意味がないような気もするのだけれど、川に流れる葉っぱが自分だとすると、どこかの淀みにかかった時、どうしてここにいるのだろうと考える。そんな感じがするのだ。
  単に、今と違う場所への憧れに過ぎないだろうか。それでも、どこに行っても、やはりどうしてここにいるのだろうと考えるような気がする。この気持ちは、生まれてから延々と続く因果関係への不思議、それとは別に、自分の力ではどうしようもない、生まれ落ちた環境への不思議だろうか。
  誰もが同じような感覚を持つのだろうか。それが分かっても、解決はしないのだけど。