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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

バッハのシャコンヌと観想

2017-01-09 18:08:04 | 日記
  毎年、年末年始はクラシックを聴いて過ごしている。今年は、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータが私の流行である。
  これは、私なりの瞑想のようなもの。私は神を信じていないのだけど、バッハやブルックナーを聴くと何かそこにいそうな気がする。このことは、神社にお参りに行っても感じるのだけど、臨在感というのか。何かそうこにいそうな感じ、音楽の場合はそこに何かがありそうという感じ。
  シャコンヌやフーガを聴いていると、人生の始まりから終りまでを聴いたような気になる。
  不思議に思うのだけど、日本人は初詣に行って色々な願いをする。その時はその人は善良な人なんだろうと思う。人と人が集まると何故か、善良な人であってもそれが善良でなくなることがあったり、善良を信じながら結果として悪をなす。何故、人は善良で収まりきらないのだろうと思う。
  成人の日に新成人が騒いで警察に捕まったりしているが、そこには捕まった人間の勝手な正義があるのだろうと思う。自分なりの正義を振りかざしながら悪をなす。この小さな正義が集まって、また小さな正義も集まると大きな悪になるのだろうか。
  そうではなくて、正義など振りかざさなくても、本当の善意が集まることによっても悪が生まれるのだろうか。各々の善意は、見方を変えれば悪意に見えるのだろう。善意の枠があまりに小さいと、それ自体が善意であっても枠の外に対しては悪になるのだろうか。そうであれば、善を信じて悪をなすことの説明もつく。
  私自身、これまでの人生で悪をなしていること、本当の悪事ではないと自分では思うが、受けた人にとっては悪事であろうと思う。その時は善意であったことも含めて、後で反省すると無分別ということもある。
  そういう意味では反省の多い人生だ。
  それでも、私自身には私なりの語りがあり、その小さな語りで私の生活、世界が成り立っている。私の世界は、私のものでしかないが、そこでも公共の世界へと繋がりがあり、そこに私の善意が繋がっているのだが、そこには他人から見ると悪意にも繋がっているのだろう。
  本当の悪意や憎しみというものが世界へと繋がる方が、善意から生まれた悪よりも単純なように思う。そのような世界には、善と悪ははっきりと二分され、善悪二元論が成立しているだろう。
  私の思い、直感は、そのような単純な世界ではないと告げている。善や悪の存在は、アスペクト、視点の違いに過ぎないものであり、一つの出来事の裏返し、それどころかその出来事というものも、善や悪というようなものは抽象概念に過ぎず、実は存在しないのではないかとも思う。この点は未だに疑問でしかない。
  この悪意や善意というものも、臨在感がもたらすものだろうか。人の表情から読み取る生物的な反応、認知がもたらすものなのだろうか。そうすると善も悪も認知、生物学的反応の一つなのだろう。一定の外部刺激を善と、悪と受け止めるのだろうか。
  この善や悪の認知と、バッハやブルックナーの音楽が示すような祈り、善意、美そういうものは偶然的な人の傾向性、志向、一定の音の連なりを、祈りや善と、そう勘違いしているに過ぎないのだろうか。
  私の人生における善、悪どちらも、シャコンヌやフーガのように一つの音のつらなり、波紋、そして消えていくようなものだろうと思う。それが見る人によって、聴く人によって色んなアスペクトがあるのだろうと思う。だが、この音楽は、本当のところは他人が聴くのでなく、自分が奏でながら自分で聴き、そして演奏を終えるものだろうと思う。
  その音楽は良いも悪いもないのかも知れない。それでもそこには、何か音楽のようなものがあると思う。

読書

2017-01-04 11:34:23 | 日記
  正月休みも今日で終り。何をするのでなく過ごした休みだ。毎年、何か本を読む。今年は、サールの「心の哲学」を読んでみた。面白さ的には微妙なところ、結局、入門書なので分かったような分からないようなところがある。面白い本だと結構さくさく読めるのだが、今回はゆっくりしか読めず、結局この1冊だけになってしまった。
  彼の指摘する志向性の問題が、よく分からないところがある。結論は志向性の対象は表象でしかないということが書いてあったと思うのだが、読んでいて初めからそれしかないんじゃないの、というか遠く離れた太陽のことを考えることができるのが不思議ということを言っているのだが、距離は関係ないんじゃないか、何かを考えるということは、自分の外の対象について考えるのであれば、距離がいくら離れていようが、見かけの距離、現に目に見えている太陽は眼前にあるじゃないかと思う。それが、テーブルの上にあるコップだろうと、眼前にあるのは一緒でしょと、そこを物理的な距離に戻して不思議に思う感じが、よく分からないところだ。
  そういう意味では、また読み直してみないといけない。よく話が理解できていないのだろう。こういう本の特徴はその時、理解できなくても後で、他の本を読んでいる時にこれを言っていたのかということがある。急がず続けていれば理解できる時が来るだろう。
  

ビゴスっぽいものを作る。

2016-12-24 14:50:01 | 日記
  今日は、ポーランド料理のビゴスっぽいものを作っている。いつもは、シュークルート(ザワークラウト)を煮込んだフランス風のものを作っているのだが、クリスマスなので、ポーランドでクリスマスにはよく食べるらしいビゴスを目指して作っている。本当は数日煮込んで作るものらしいのだが、どれもらしいばかりなのだが、下の子はトマトが入ったビゴスの方が好みということで、今日はトマト入り。
  自分が子供の頃は、クリスマスには鶏のモモ肉の照り焼きみたいなのを母親が買ってきて、それが美味しくて、モモ肉一つ丸ごとというのも贅沢でとてもうれしかった。それにアイスクリームのケーキも。今もどちらも売っているが、買わなくなってしまった。どちらも、今食べてもそれほど美味しくないのだろうと思う。今は、照り焼きではなくて、塩、胡椒でローストチキンの本当の味のものを食べるし、アイスクリームもハーゲンダッツとか美味しいものがある。
  それでも、子供の頃の記憶というのはとても美味しくて、輝いていたように思う。駅前の今はさびれた観のあるショッピングセンターも、母親に連れていってもらった時は、エスカレーターの蛍光灯でさえ、きれいだと思っていた。
  自分が料理をするのも、いつか子が、オヤジがよくこれこれを作っていたなと思う時がくるだろうと、そう思って作っていたりもする。子供の頃に食べたものは、忘れないものだと思う。
  今日も、特別な贅沢はないのだが、ビゴスに、近くのパン屋で買ったシュトーレン(これは少し高いと思ったがケーキを用意していないので買っておいた)、ちょっとした贅沢をしている。
  私はキリスト教徒でもないのだが、何故かクリスマスになると少し贅沢をしようという気分になる。これも、母親がしてくれたことの影響かもしれない。こうして日本のクリスマスは根付いているのかもしれない。

うちの車のこと

2016-12-17 14:40:16 | 日記
  家の車の塗装が痛んできた。もう20年以上乗っているので仕方がないと思う。来年の車検もとおす予定だ。故障しないで、妻と結婚した時から、ずっとよく働いてくれているので愛着がある。剥げてきた塗装も、クリアを塗ればもう少し何とかなるだろうかと思い、今、目立たないところに試し吹きをしている。上手くいけば剥げが目立つ箇所もクリアを吹いてやるつもり。
  省エネと言われて久しいが、未だに大排気量の車にハイブリッドとか意味が分からない車がある。省エネなら小排気量の車を税優遇すればいいのだが、大排気量で四輪駆動車とか街中で乗るのに意味がない車の税が省エネ優遇されていたりする。うちの車は、小排気量で燃費がいいのだが、税は古いので加算されている。
  まだ乗れる車を廃車にして、新しい車を購入することは、新しい車の生産にかかるエネルギーを考慮すると、決して省エネとは思えない。もう少し、古いものを大事にする価値観、それが車のような機械であっても必要だと思う。
  車の営業マンも車検の案内をしてくれるが、もう新車のことは言わなくなった。言っても買ってもらえないことが大分前に分かったのだろう。営業マンにすればげんなりする客なのだろうが、車検はそこにお願いすることにしている。ディーラーなのでやや高いのだろうが、メインテナンスの信頼料だと思っている。
  このまま、車を大切にすれば、私の体よりも長持ちするのだろうと思っている。もともと、機械はメインテナンスをすればそんなものだろうと思う。 
  いつまで、今の車を維持できるか分からないが、できるだけがんばろう。

今日の料理

2016-11-27 14:53:37 | 日記
  今日は、牛肉の赤ワイン煮こみを作っている。すね肉を、玉ねぎ、ニンジン、トマト、ワインと一緒に煮込む。基本的なフランス料理、シチューの原型のような料理だ。今、低温のオーブンに鍋ごと入れたので、あと2時間ほどで出来上がり。
  うちは、金持ちではない。その分だけ自分で美味しい料理を作ることにしている。今日の制作費は、牛なので少々高いが、肉が900円程度、野菜は200円分、ワインが400円分くらいだろうか、1500円程度で、6人前程度できるだろう。お店だと少ししかないが、うちの人数なら大目にあるだろう。
  普段は、牛は食べないようにしているのだが、たまには良いと思う。下の子が大学受験で、今日は一日中模試を受けている。疲れたところなので、力がつきそうで暖かいものを食べさせてやろうと思い、普段よりも高めの値段設定をした。
  世間では、女性活用とか言っているのだが、女性がおせち料理を作らなくって久しくなるように思う。外にでれば家の仕事ができなくなるのは当然で、そこに企業がサービス、商品を持ち込むのは当然のことだ。それを利用しないと生活がなりたたないのだから。家でおせちを作るのが正しいとか間違いということではないのだが、女性がパートに出かける家庭では、年末におせちを作るのは結構厳しい、しんどい作業だと思う。自分でも、休みはゆっくりしたいと思うのだから。
  いったい何が豊かさなのだろうと思う。高い値段をだせば、自分で作る料理よりも美味しい料理はあふれている。そのために、あくせく働いてそのサービスを買う。そのサービスのために働くので、サービスは買わないと生活がなりたたない。
  どこかで、この循環を切り離さなければならないのだろうと思う。