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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

くらっしくコンサート

2016-09-04 11:46:32 | 日記
   タワーレコードで、ブラームス交響曲全集590円を、期限切れ間近の500ポイントを使用して税込み90円で買った。全曲で4曲なので、一曲あたり23円未満。昨日、第4番を聴いて、今第2番を聴いている。
  指揮者は、ズヴェーデンにオランダ放送フィル、有名どころではないけど、日本のオケよりは音がいい。演奏はスマートといった感じ。
  子も値段を言ったら驚いていた。この前に行ったブルックナーのコンサートが6000円だったと思うので、何という安さ。
  家で聴く音と、コンサート会場で聴く音は確かに違うのだが、どれほど違うかと言うと正直なところ、家で聴いた方が良かったという残念なコンサートも多い。
  曲が終わったとたんに、拍手を始める余韻も何もない人に、演奏中もガサガサと飴袋をいじるおばさん。肝心なところで間違えるホルン奏者とか。良いコンサートというのに出会うのも難しい。本当に良かったと思えるのは数回に1回くらい。好きな曲を聴きに行くと、自分の頭の中に理想のイメージがあるので余計にハードルが高くなる。
  生を聴かないで、CDだけで良いや悪いを言っていても、なんじゃそれ、って感じなので時々、生を聴きに行く。生を聴いて、初めてこんな曲だったのかと思うこともある。ブルックナー第9番の小泉さん指揮の演奏は本当に凄かった。ロックかと思うほどインパクトがあった。こういう体験があるから生も聴くべきなんだけど。
  
  
  

バイトをしてた頃

2016-08-22 22:01:38 | 日記
  歳をとったと思う。大学生の頃をよく思い出す。この頃が一番おもしろかったのかも。嫁さんと出合ったのもこの頃。朝起きて、面白い夢を見たと思う時、大学生の頃のことが多い。
  人生で、何が楽しいのか分からない。大学生の頃、バイトでガソリンスタンドにいたのだが、その頃のことをよく夢に見る。今の仕事よりも、楽しく充実していたと思う。今の仕事と違うのは、後、何年とか考えることがないからかも知れないが。
  その頃にいた人達とは、皆、会うこともない。それぞれに生活をしていると思うが、旅の仲間というものは、その時限り、その時点にいるメンバーというのは二度同じメンバーになることもない。
  今の家族も、いつまでも同じメンバーでいるわけではない。子供はでていくし、私と嫁さんと一緒にいることができればいいが。

どこにも行けず

2016-08-13 17:24:57 | 日記
  今年の夏は、どこにも行かない。去年もそうだったのだが、子が大きくなると一緒に出かける機会が減る。
  キャンプに行ったり、旅館やペンション、ホテルに色んなところに泊まったのが懐かしい。子供が大きくなり、手がかからなくなった分、楽しみも少し減ったように思う。毎年、どこに行くのか計画も大変だったのだが。
  私は、過去や未来は存在しないという、今しか存在しない考えの持ち主だ。過去は記憶であり、未来は期待に過ぎない。あるのは今だけ。記憶の中の過去というのは、苦い出来事、自分の失敗ばかりだが。そこにも、良い出来事もあった。楽しかったこともたくさんあったはずだが、わずかだが憶えている。

何故悪いことをしてはいけないのか。

2016-07-31 17:42:09 | 日記
  人は、何故、悪いことをしてはいけないのか。うちに永井均さんの本があるので、子が読んで面白いと言っていた。
  本では、悪いこと自体はなくて、世の中に不都合なことが悪いとされているという説明があったと思う。
  私の考えでは、むしろ悪いという語自体に悪いという概念が含まれている。循環論法になるんだけど。カントの定言命題風に言うと、仮定なしに悪いということ、どんなものであれ悪いという評価がされると、それは禁止や否定の意味を持つ。「悪いことをしてはいけない。」これが、「もし悪いことをするべきである。」となると、それは悪いことでなくなっている。泥棒を職業にする人は、泥棒をすることが良いことになる。悪いは、この点で相対的だ。泥棒を職業にしていて、泥棒をしないことは悪いことになるだろう。
  悪いことは、語自体にそういう否定の意味があるから自動的に、論理的にそうならざるを得ない。
  では、嘘をついてはいけないではどうだろうか。嘘をついて良いか悪いかも、場合によりけり。この場合、悪いことのように直接的に否定が帰結するわけではない。
  何故、嘘をついてはいけないのか。

見ていない木は存在するのか。

2016-07-24 17:41:22 | 日記
  今日、いつも行く温泉施設に行ってきた。週末に時折行くことにしている。
  1人で行くので、知らない人ばかりなのだが、1人で来ている人も多い。そこには、露天風呂があり、植え込みがある。露天風呂からいつもその植え込みを見て、自分が来ていない時も、ここの植え込みには、この木があるのだろうと、思う。
  この植え込みの木は、私は数週間に1度くらい見るわけだが、私が見ようが見まいが、そこにあるのだろうと思う。ただ、あることが分かるのは私が見る時だけだ。世界中のものがそんな調子だ。昔に行った旅行先の場所についても、今もあるはずだが、あるだろうと思うだけ。
  今までに、多くの人と出会ってきたが、その人も今もどこかにいるだろうと思うだけ。きっと元気にしているのだろうが、調子を崩しているのかもしれない。
  世界中の多くのものが、この調子で私は世界にいて、そこで目にして初めて存在を確認している。一方、私を見られる立場と考えると、多くの人にとっては、私はいないのも同じ。存在が確認できないから。有名でない私は、世界にとって、私が風呂場で偶然に出会う人達と同じようなもの。通り過ぎれば存在が忘れられる存在である。
  有名であっても、結局は忘れられる時が来るのだろうが、小さな世界、会社や組織でそれなりの立場にあっても、世界から見ると、似たりよったり、多くの人がそのような存在である。
  私達は、この流れいく世界の中で漂う塵のようなものだ。世界その物さえも、塵のようなものなのかも知れない。