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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

下の子の大学受験

2017-02-26 20:56:24 | 日記
  下の子の大学受験、前期試験が終わった。地方大学を受けたので、付き添いに行った。もう付き添いがいるのもこの歳までだろう。後は自分でやっていくだろうと思う。これは受かっていればだが。
  現地で、合格した時の住まいを確保してきた。これは大学生協を利用したのだが、これも疲れた。子が少なくとも4年、院へいけば6年を過ごすことになるかもしれない部屋なので出来るだけ選べるところは選んだ。してやれるところはここまでくらいだろう。後は、自分で切り開いて行く世界。もう親がどうこうする世界とは変わっていくのだろうと思う。 
  今日、怪盗ゾロリをTVでやっていた。少しだけ見ることができたが、子が小さかったころに、映画館で一緒に見たやつだった。当事は、子はポップコーンを買ってもらいジュースを飲むのが楽しみ。ポップコーンを私が食べ過ぎると早く無くなってしまうと注意されたりもした。もうゾロリとか言う歳でもなくなった。このブログを書き始めた頃のことだろうか。もう高校を卒業しようとしているのだから、自分も歳をとるはずだ。
  この後、どうなるのかは今の時点では分からない。合格していれば準備をして、だめなら後期試験だがこれは難しい様子。
  
  

私達が知ることができるのは、私達は何も知らないということだけだ。

2017-02-05 07:52:21 | 日記
  最近読んだ本(言語哲学入門から中級まで・ライガン)に、自分が言ったことは含めないということが書かれていたのだが、その中に「私達が知ることができるのは、私達は何も知らないということだけだ。」という一節があった。考えてみて少し面白かったので、ここにメモしよう。
  
  「私達は何も知らないということ」を知っている。
  「「私達は何も知らないということ」を知っている。」ということも私は知っている。私は、この時点で二つのことを知っているわけだ。
    この時以後、私は二つのことを知っているということも知っているので、私は三つのことを知っている。
  「三つのことを知っているということも知っているので、以下、延々と知っていることが4つ、5つに増えていく。」ということも知っている。
  「私達は何も知らないということ」を知るだけで、その知識は1が2に、3にとなる。
  何が言いたいかというと、知識が一つあれば、その知識を元に知識は無限増殖していくということ。

  この文には、突っ込みどころが他にもあるのだが、知っているということはどうして知っていると言えるのか、については知らないとしか言えないところ、このためこの文の成否、真偽は検証できない。
  また、「私達」、「知る」という概念や言葉は知っているのではないか。また、文法的に正しく発言しているのは文法を正しく知っているのではないか。
  この言葉は、多くの前提、知識が成立して初めて言える。また理解できる言葉でしかない。その前提条件は知っているのではないか。
  私達の知識というのは、言葉の基礎、ネットワークがあって初めて成立している。そのことには、この言葉は気がついていないというか、知っていての言であれば確信的に「何も知らないということ」意外も知っているじゃないかと言いたい。ソクラテスはどこまで本気で言っていたのだろうかと思う。
  高校の倫理の時間では、こんな話はせず、「無知の知」とか言ってさらっと流してしまうのだが、今から思うとけっこう突っ込みどころが満載で、好きな人には面白い話になっただろうと思うが理屈っぽい人以外はこういう話は興味がないのだろうと思う。そういう意味では、さらっと流した高校の時の先生は正解なのか。



イザベルファウストSACDの感想

2017-01-31 19:45:27 | 日記
  年末にイザベル・ファウスト無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ全集を買った。SACDでとても高価なので、大分迷ったが買ってよかった。
   SACDも効果のあるやないや色々言われているけど、聴いた感じがどうもアナログレコードのような音がしている気がするので、これも信仰のうちと思って買っている。
  音質、演奏どちらも満足。普段は、交響曲かピアノ協奏曲くらいしか聴かないのだが、バッハは別枠という感じでピアノ曲とかも聴いている。
  バッハの何が良いのかというと、バッハは何かを表していると思うのだけど、何なのか分からないでも、神様とかいるんじゃねとか、人生ってこうやって回想して終わるんじゃないとか思えるところ。
  自分の人生がバッハのシャコンヌやフーガのようにすごいものというわけでは決してないのだが、どんなに小さな人生の中にも、人それぞれに、そんなシャコンヌやフーガのようなものがあるんじゃないかと思う。私視点の小さな人生なんだけど、それでも色々あったよなと思う。それがシャコンヌのような感じがするわけ。

  *シャコンヌは16分ジャストからです。
  


大学受験について

2017-01-28 07:45:50 | 日記
  高校生の息子が大学受験真っ最中、受験校も決まった。難しい挑戦をするか、現役合格を目指すか。難しい選択、こちらにとっても難しい選択、現役合格を目指すと地方大学になるので、仕送りが必要になる。理系なので院も含めると6年が必要。学費と仕送りと足すと、6年間にかかる費用は大きなものがある。こちらの生活設計が変わるほどのものだ。どちらの選択でも誤りはない、どちらがより良いかを選ぶ選択だ。この選択も済んだので、後は子のがんばりに期待するだけ。
  学生の奨学金の借り入れが社会問題化しているが、うちの子も学校の先生に、奨学金を借りて地方大学に行ったら、生活も楽しいよと言われたそうだ。
  奨学金を月10万円借りると4年で480万円、返済は20年で利息3%で650万弱、大学卒業後の10月から返済が始まり、払い終わるのは、うちの子が42歳になるまで、毎月27000円弱の返済になる。
  気が遠くなる話だ。うちの子が42歳というのがショック、毎月27000円の返済を抱えて社会に出るのはきつい。先生は半額くらいを想定しているのかもしれないが、家庭事情によっては学費、生活全て学生自身で用意しなければならない人もいるだろう。この金を20年間返済することを考えると、一年浪人してでも近くの大学を目指すのが合理的だろう。
  地方大学に行かせることができるのはある程度の資力のある家庭に限られる。子供は現役で大学に行けるので就労が生涯で1年長くなる。子供の代で元は取れる。恵まれた家の子供はここで有利になるのだが、一年浪人した家庭の子供は、一年就労期間が短くなる。
  働くことが、生涯の全てではない。それは個人の視点に立てばそうなのだが、大きなシステムとして捉えると、家庭による教育を受ける機会、ハンデ、アドバンテージ、社会に既に組み込まれたことだが、社会階層の固定化、金持ちの子は教育を得て金持ちに、金のない家庭の子は教育がなくブルーワーカーや単純作業を主とした労働に就くことになる。
  会社での採用の前提が初めから、大卒、高卒でルートが違う。また、大学も社会階層化の一環になっている。
大学のヒエラルキーによって、採用する会社も違えば、同じ会社でも本社人員とそれ以外、これも構造化している。
  高校生でこのことに気がつくことは難しい。先生もあからさまに社会が大学ヒエラルキーを元に、会社のヒエラルキーが家庭のヒエラルキーを生産しているとは言いにくいだろう。このシステムが機能しているから、金持ちは総じて金持ちでいることができるだから。先生自身も、気がつかずそのシステムの構成員として影響しているのだが。

分岐点

2017-01-15 17:01:22 | 日記
  今日はセンター試験2日目、下の子がこれを受けている。前日の試験が新聞に載っていたが、これを8割解くとか、良ければいいのだが。
  今、人生の大きな分岐点にいるのは確か、A大学、B大学、どこへ進学するかで今後の人生が大きく変わる。どちらの選択肢が良いか、全く分からない。一般的に言って、こちらへ進学する方がいいんじゃないかということが言えるだけ。所謂、良い大学へ進学しても、災難に出会わないことが保障されるわけではない。蓋然性から見て、社会的評価の高い環境が得られるであろうことが言える。それは蓋然性でしかない。B大学へ行っていれば、という可能世界も存在するのだが、A大学へ行った時点で覗く可能性はなくなる。これはどちらへ行っても言えることだ。
  毎日の選択についても、基本は同じ、何か選択をする度に自分に在りえた可能性を一方閉ざしながら、現前する可能性を見る。
  何が良かったかは、自分を振り返っても分からない。もっと違う人生が無限にあったように思う。これからの選択でもそうだ。その中で、選択をしていくのだが、結局どの選択が良かったかは決して分からない。
  とりあえずは、当人が満足できる選択をその与えられた場面ごとにしていくしかない。これから、当人が満足できる選択ができるように応援をしたい。
  どんなことでも、後悔はあるし、あの時こうしていればということがある。その時、よく考えて判断していたならそれでいいだろうと思う。
  私の場合は、よく考えてなかったなとか、今思うと的外れな考えで選択していたなと思うことが多い。それで、今の生活、無限にある選択肢、分岐点から今があるのだが、ほんの少しでも違っていたらと考えると、恐ろしいとも思う。なるべくしてなったのだが。。。。。