何が存在するかを考えることは、案外難しい。今、部屋ではブラームスの交響曲第2番が流れているのだが、ブラームスの交響曲第2番は、存在するのだろうか。
ブラームスの交響曲に、第5番は存在しない。彼は4曲しか交響曲を書いていないからだ。一方、ブラームス交響曲第2番は存在する。どこに、存在するのと聞かれると、どこという場所にはない。CDの中に存在しているわけでもない。かなり抽象的な意味で存在しているのだ。
大阪フィルでも、ベルリンフィルでもいいのだが、その演奏に存在しているのだろうか。この場合、40分程度の時間において存在しているというのだろうか。音は、消えては表れる。この音の連続、空気の振るえの時空的な存在がブラームス交響曲第2番なのだろうか。それとも、楽譜の全体がブラームス交響曲第2番なのだろうか。
ある演奏、出来事として存在しているという風にも思えるが、一方で誰も演奏していない時でもやはりブラームス交響曲第2番は存在しているというのが、常識的な考え方のように思う。多くの人の常識の中に存在していると考えるのだろうか。ブラームス交響曲第2番は概念上の存在であり、実在ではないとそう考えるのか。一方で、ブラームスのCDは実在だが、その内容は実在ではない。
そうすると、実在って考えていくと、世の中にあるもので実在と言っているものの多くが分解、瓦解していくように思う。 |
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