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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

父と子の対話(強者と弱者)

2012-07-07 09:09:04 | 子との対話
子 マンガではこういうセリフを言うと主人公にふっ飛ばされるよね。
  敵「人間には2種類の人間がいる。強者と弱者だ。」
  主人公「お前だけは、許さね~。オラオラオラ、とか」
父 「てめらの血は何色だ~。ヒョーシャウ~、プシュー」
  という感じですか。敵と主人公、結局はやってること一緒だよね。


父 少し気になるんだけど、人間には、2種類の人間しかいないのか。
  3種類の人間はいないのでしょうか。と訊きたくなるね。
  強者でも弱者でもない人、又は強者でありかつ弱者である人の可能性は否定できないのでは。

子 どちらか、二つに分けると言っているのだから、分類は2つという前提だよ。

父 では、どうして分類は二つしかないのだろう。

子 私の意見を言っているのだから、他人が3つやそれ以上n個の可能性を言う問題ではないよ。

父 なら、その人が言っていることは正確には、「私の意見の限りにおいて、人間には2種類の人
  間がいる。他の意見の可能性は否定できない。」これでいいんでしょうか。

子 いや、他の意見の可能性は否定しているよ。私がこうだと言っているのだから。

父 それでは、その人は他人の意見は聞かないのに、自分の意見だけを聞けと言っているのだね。
  そんな都合のいい人物の意見なんか聞く人がいるのか。意見は正しいかどうか議論できるか
  ら、意見になるんだよね。

子 マンガの絶対的強者なら、そんなことは構わずに俺の言うことを聞けというでしょ。

父 いいね。私がそんなに強いなら、私とその他の2種類しか人はいないね。
  いっそのこと「平家にあらずんば人にあらず。」これでいいんじゃない。
  これなら世の中に、人は1種類しかいないよね。

子 それって結局、敵と同じ主張だよね。

父 ・・・・・  

バカについて(父と二人の子の対話)

2012-01-14 09:58:54 | 子との対話
子A よく人のことをバカと言って見下している態度は腹が立つ。その人の何が分かってバカと言っているの。
 
父 それでは、その人の全てを知り尽くした上でしか、バカと言えなくなるよ。そしてその人の全てを知り尽くすことなんかできないからバカという言葉は、誰も使えなくなる。それは困らないか。それに、普遍的バカが存在すると思っている。プフ。
 
子B バカの格好をしている奴を、外見上バカに見える奴をバカと言ってはいけないのか。バカかどうかは、人はほとんど外見上で判断しているのではないか。金髪をしたり、学生服の下からスウェットのフードを出したり、学校のルールが決めていることを、あえてしている人は、バカではないか。
 
子A そういう外見から観てバカという判断ができるの。その人の置かれた状況や考えも知らないで外見だけでバカということは、あなたもバカにならない。
 
子B その人がどういう環境にいても、わざわざルールを破って回りに迷惑をかけることはバカだろう。同じ環境にいてもちゃんとしている人はいるし、その人のことは気づかないだろう。まわりの気を引きたくてやっているだけなんだよ。
バカをバカと言うと、どうしてバカになるんだい。それなら、そう言った人もバカになるんじゃない。
 
父 人は、全てを知ることはできないし、普遍的なバカ、バカの理想像が決まっているわけではない。だから、自分で人を見下すことが、愚かだと知りつつも、その気持ちを捨てることはできないし、人をバカにすることが愚かであることを知りながらも、人をバカと呼ぶんだよ。人をバカにして、自分も人からバカにされる。バカは循環している。それが分かっていれば、人をバカと呼ぶことも、自然な気持ち、行為ではないかな。
大人になっても、作業服を着て電車に乗ることを嫌う人もいるが、その背景には作業服をバカにしているんだよ。バカでもネクタイを締めていれば偉く見えてしまうからね。私も、普段はネクタイをしないけど、偉く見える方が良い時はネクタイをするんだよ。バカと言わなくても、外見で人を見下すことはあるし、そして、人を見下すことが向上心や闘争心に繋がっているのかも知れない。自然な感情として人を見下さないことは、とても難しいし、そのような感情を持つことができる人はすばらしい。南無という感じかな。でも他人との競争というものに向いていないのかも知れない。
余談だけど、私達の後ろには理想のバカがいて、その姿にさらに後ろから光が投射され、私たちはそのバカの写し、影絵を見ているに過ぎないんじゃないかな。その写しは、人それぞれにあるということだ。振り返って、その理想のバカを直接みることができればいいんだけど、人はその姿を見ることはできないように前向きに固定されているんだ。もし人が見ることができれば、そこには、自分の姿そのものがあるのかもしれないよ。
 
子A あ~疲れた。
 

子との対話(権利の存在について)

2011-10-16 12:58:28 | 子との対話
夕食での会話、子は、高校の倫理で権利について学んでいる。
 
子 自殺しようとしている人を止める権利は、あるでしょうか。
 
父 その人を止める力があれば、止める権利はあるんじゃない。権利というものは、力の行使であって、止めさせることができる人には、その権利がある。
 
子 力を行使することは、権利じゃないのでは。
 
父 権利には、理念の面と、力の行使の面の両面がある。世界の人すべてが幸福に暮らす権利があると言っても、理念的には、そのような権利は存在するかもしれないが実現できない、実現する力を持たない権利は、在るとは言えない。
目の前にピストルを持っている人に対して、あなたには私を殺す権利はないと言っても無意味だろ。そんなこと
を言っても、引き金さえ引けば死んでしまうのだから。生殺与奪は、目の前の人の考え一つにあるんだ。私なら、
その人の権利を認めて、お金を払うとか考えるけど。
 
子 じゃあ、実現する力がない弱者には権利がないということ。強者だけに権利があることにならない。
 
父 どのような、権利も強者の力の裏づけがあって、初めて権利と言える。日本では、国家権力に認められた権利が、国家によって強制させているだろ。今、日本で認められている権利は、日本の法律で定められた範囲だ。そして国家の前では、誰でも弱者だ。それでも、日本の法律を守らないことを初めから決めている人に対しては、日本の法律も有効ではない。ピストルを持った人の前で権利を主張することは馬鹿げているだろ。権利とは、相対的なものなんだ。
 
子 弱者は、いじめられっ子は黙っているしかないの。弱い者をいじめる権利はだれにもない。
 
父 弱者を守るために、法律があるんだが、自分で声をあげない弱者は誰も助けない。弱いものをいじめる者に対して、あなたにはその権利がないと言える力がなければ、それは権利にならない。権利の上にあぐらをかくものは救済しない。困った人の全てが助けられるのではなくて、権利は自分で助けを呼ぶ人を助けるんだ。
労働者がサービス残業をすることは、法律上は必要がないことだが、労働者が自分でそのようなことをしないと
主張しないと権利は実現しない。理念上でいくら存在する権利でも行使しなければ権利にならないんだよ。
 
子 何かおかしいと思うんだけど。学校でならう権利と違う。
 
父 学校で習う権利は、主に理念的な面を教えているんだ。権利は力によって勝ち取られたものだ。権利だけ叫ぶ人がいるけど、権利の理念の面しか教えないとそうなってしまう。権利があるところには義務が必ずある。民法という法律の考えに同時履行の抗弁権という考え方があるんだけど、お互いに何か契約する時は、特に取り決めをしなければ、互いに同時にそれを提供しなければいけない。商品の売買をすれば、買った人はお金を提供する義務があるし、売った人には商品を提供する義務があるんだ。それはお互いに代金をもらう権利だし、商品をもらう権利でもある。だから権利だけが存在するということはない。権利があれば義務があるし、義務があれば、それを実行する力がなければいけない。
 
子 じゃあ、ピストルを持つ人には人を殺す権利があると言ったけど、撃たれる人には死ぬ義務があるの。死ぬ義務なんて直感的におかしい。
 
父 たしかに、死ぬ義務はおかしいな。だけどピストルで撃たれると結果的に必ず死んでしまうから、その人には死ぬ義務があるんじゃない。何回撃たれても死なない人がいれば死ぬ義務はないけど。日本には死刑があるけど、この時には、殺される人に死ぬ義務があると言えるよ。ヨーロッパはそのような義務は認めていないけど。戦争で人が殺される時も、殺される人には、そのような義務はないと思うけど、相手方からすれば戦争のための尊い犠牲であって、その人は死ななければならなかったと言うと思うよ。この意味で、権利は相対的なものでしかないんだよ。理念上の権利は、人を殺す権利でさえ立場によって異なるし、実行力の存在で権利と言えるかどうか決まる。また、実行力のない理念だけの権利も潜在的な可能性としてはあるかもしれないが、それを権利が在ると言えるかどうか。
 
子 お皿をかたずけて、分かったんだけど、私に食べられた豚からすれば死ぬ義務はないように思うけど、やっぱり食べられた豚には死ぬ義務があるんだ。
 
父 。。。。。
 
 
 
後記
殺す権利については、理念上も存在しないのかもしれない。
日本には死刑があり、国家にその権利が認められているが、それは本当に権利なのかと考えると、生殺与奪に関しては、権利概念から外して考える必要があるのかとも思う。
子が疑問に感じる死ぬ義務は誰にもないということは、普遍性を持つ真理なのかもしれない。
ただ、生には死があるだけであり、死は人がなす行為と言えない。生物は生きることが本質であり、死ぬことは生物の結果でしかない。それを死ぬ義務という行為(生きるという生命の本質から外れた設定)で考えることに無理があるようにも思う。首を吊られる義務と死とは別に考えれば整理できそうに思うが、分けて考えることも形式上の整理でしかない。
人が人を殺す時には、権利でなく、ただ事実がある、利便として、手段として人を殺しているそのように考える方がしっくりするのかもしれない。

父と子の対話 労働者の賃金について

2011-09-17 11:02:17 | 子との対話
   福島原発では今も、労働者が日給8千円程度で働いているよ。
   それに比べて東電元社長の退職金は5億とも10億とも言われているよ。
   何でこうなるの。どうして福島原発で働く労働者は、個人の危険手当をピンハネされて日給が8千円というようなこと起きるのだろう。
   この労働者が低賃金であるのは、何故か。それは労働者に教育がないからだ。
   教育がないから、抗議ができないの。
   抗議ができないから賃金が安いのでなく、その仕事しか労働者が選べないから。他に仕事がないからだ。
   労働者に教育があれば、仕事を選ぶことができる。その教育を十分に受けることができなかった人の賃金は安く評価されるということだ。
   賃金の評価は、xという人にfという機能をかけたところで評価される。xという人は変わりがないとしても外に表示される機能fによって、人はそのxを判断してしまう。
   人を雇用するときには、xそれ自体を見るような時間はない。fという機能に着目してその人が出力する力に期待をする。
   だから、fが東京大学卒業と○△高校卒業とでは期待がかわってしまう。fは1個だけでなく、たくさんのfがf’f’’としてその人に表示される。弁護士や何かの資格があればf’になって、f・f’(x)という具合になる。学歴がない人は、違うfを表示して学歴以上のものがあることを示す必要がある。だから、fはその人を文字変換するように、fが高い評価があれば、xという個人を高い評価へと変換するんだよ。
   このfの評価が低い人は安い賃金しか得ることができない。
   ただ、実際に仕事をすると、標準的なxという人でなく、Xという個人の能力が、期待されているxと比較して低い場合は、係数として0.5(半人前)や必要な数を係数としてかけることになる。そして出力された仕事があまりよくなければ、その人は首になってしまう。
   だから、fだけが高い評価があってもXという個人の能力が低ければ、結局は評価はされないよ。
 
   でも、東電の元社長は、退職してハワイに行ってたらしいよ。
   5億の退職金で福島の人がハワイに行くのが本当じゃないの。
 
対話はここで終わり。
   東電元社長というfは、5億円に相当するのだろうか。  原発多重下請け構造の下で、使命感をもって仕事をされている労働者への評価と比べると全く不当だと思う。東電の元社長の5億円は、彼の後始末をしている今後何十年と続く後処理を行う労働者が得るべきものではないか。なぜ、彼は退職金をもらう権利があるのだろうか。

父と子の対話

2011-09-10 12:29:51 | 子との対話
夕食時の会話。概ね、このとおり。
 
父(私)
   学校の平均点など気にしなくていい。周りの点数など気にしなくとも、唯私一人が点数が良ければよい。
   私一人の点数がよければそれで良いという言い方は駄目だ。学校では皆が点数がよくなることが良いことであって、私一人が点数が良いということは、反感を買う言い方だ。
   勉強とは一人でするものだ。私が努力をし、私の点数を上げることについて何らやましさはない。私が影響を与えることができるのは、私の点数であって、皆の点数ではない。皆の点数は、個々の人が努力をすることだ。
   先生の視点であれば、皆の点数が上がることが良いことだが、私からは私の点数が上がることが良いことだ。私の点数が上がることで他人の邪魔をするわけではない。間違ったことを言っているのではない。
   同じ事象であったとしても、日本人的な表現では、「私の点数が良い」という表現はよくない。先生によっては、きっと何か言われる。こういう時は、「がんばって勉強しました。」と言うんだよ。
   「1000人の人がいる。このうち、500人を助けるためには500人を殺さなければならない。」と言うよりも、
   「1000人の人がいる。このうち、500人を助けるために500人の人が死ぬことができる。」
  同じ500人が死ぬことについて、このように言うことができるんだよ。
   同じ事象を言い換えることによって、良く見せたり、悪く見せたりすることは良い表現とは思えない。むしろ、このような表現の中にはおかしさがないかを考えることだ。
   日本人的な表現としては、私は他人の言葉の言い換えを見つけることができ、私は他人に対して言い換えを十分に発揮できる。これが良いことだね。
   .....。