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赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-3

2024-10-11 16:52:12 | 世界史を変えた女スパイ

赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-1
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赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-2
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からの続き

 

 

 

ルーズベルト大統領とノルウェー王女との不倫

ここまで読み進まれた人は、赤いファーストレディと呼ばれることになるエレノア夫人とルーズベルト大統領の夫婦関係が気になると思われます。

二人が仮面夫婦になるきっかけは、エレノアの私設秘書(ルーシー・マーサー:Lucy Mercer Rutherford)と夫の不倫にありました。


1918年9月、海軍省次官であったFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)はフランス西部戦線視察(第一次世界大戦)からニューヨークの自宅に戻りました。

エレノアは、疲れ切って帰った夫を床に就かせると旅行鞄の整理を始めた。 そこに複数の恋文を見つけた。 ルーシーが夫に宛てたものであった。 文面から二人はただならぬ関係にあることは明らかだった。

 

彼女は絶望の中で離婚を考えたが、二人の人物が思いとどまらせた。 一人はFDRの母サラである。 ルーズベルトの加計は母方デラノ家の財力で支えられていた。 サラの父(ウォーレン・デラノ)は清国へのアヘン密売で巨利を得たラッセル商会の幹部だった。

デラノ家の財産はアヘンの生んだと見であった。 19世紀半ばに上海と香港に暮らしたデラノ家の避暑地が、日本の長崎でした。

サラはデラノ家からの金銭援助を断つと脅し、離婚を思いとどまらせた。 当時の上流階級にとって離婚はステータスを大きく傷つけるために、息子への愛がさせた『説得』だった。

 

もう一人はルーズベルトに心酔するジャーナリスト、ルイス・ハウ(ニューヨーク・ヘラルド紙、後のスピーチライターであった。 彼は、ルーズベルトは必ず大統領になる人物だと信じていた。 FDRはアメリカの影の政府と呼ばれる、CFR(外交問題評議会)のメンバーだった。

 

離婚は大統領の芽を摘むだけに,サラとともにっ懸命に離婚を思いとどまらせた。 エレノアは、新進政治家の『良き伴侶』を演じ続ける覚悟を決めた。ただ、二度と寝室をともにしない条件だけはつけた。

 

仮面夫婦となったエレノアはその後フェミニズムに染まり、女性ジャーナリストであるロレーナ・ヒコックとレズビアンの関係となったことは、既に紹介しました。

一方のルーズベルトの不倫はいっそう盛んなった。

 

マーサーとの関係は続いたことは、彼女がルーズベルトの臨終の場(1945年4月12日)にいたことからも分かる。 言うまでもなくその場にエレノアの姿はなかった。

 

ルーズベルトの不倫相手の中でも特筆すべき相手は、ノルウェーの王女マーサである。
ルーズベルトは、ナチスの占領下で苦しむ国の王女を抱くほどの男(アホボン)であった。

 

 

 

 

国を追われたノルウェー王女マーサ

ナチスドイツにとって鉄鉱石の供給ルートを安全なものにすることは大きな問題であった。 ドイツは戦争が始まった1939年当時、およそ1000万トンの鉄鉱石をスウェーデンから輸入していた。 全輸入量のおよそ半分にあたるだけにその供給ルートは安定させなければならなかった。

 

スウェーデン産鉄鉱石は、同国の港ルレオから積み出されていた。 ルレオの港はバルト海の最北部ボスニア湾に面している。 北緯六十度伊北にあり冬季には凍結する。

ドイツはスウェーデン産鉄鉱石の安定確保のため不凍港が欲しかった。 ノルウェー北部の港ナルヴィクはその条件を満たしていた。

ルレオと同じような緯度にあったが、北大西洋海流(暖流)の恩恵を受ける不凍港であった。

 

ヒトラーはイギリスとの戦いを止め、本来の狙いであるウクライナ方面へ侵出したかった。 しかし、頑迷なチャーチルは国内の対独融和派を排除し、ドイツとは最後まで戦うと宣言していた。

ヒトラーの攻勢はポーランド侵攻後しばらくは大人しいものだった。 ヒトラーの「消極的な戦いの時期である」。

欧米の歴史家はこの時期の戦いを「見せかけ(偽り)の戦争(phony war)」と呼んでいる。 ヒトラーは英国との手打ちの機会を探っていたのである。

 

 

チャーチルの態度は変わらないと判断したヒトラーは長期戦を覚悟した。 彼がノルウェー北岸の征圧を決め侵攻を開始したのは、1940年4月9日のことであった。 これを予期していた英国艦隊との激しい戦闘となった。 「見せかけの戦争」はヨーロッパ全土に広がる「真のヨーロッパ大戦」になった。

 

ノルウェー王室のマーサー(マッタ)王女(1901年生まれ)はハラルド王子(三歳)を連れて母国スウェーデンに逃れた。 同国は中立国であったが、ナチスドイツを刺激することを怖れて彼女を歓迎しなかった。

マーサ王女に米国への亡命を勧めたのはフランクリン・ルーズベルト大統領だった。
彼女はフィンランドの港ペツアモから米国に向かった。 米海軍輸送船『アメリカン・レジョン』が二人を運んだ。

ルーズベルトは、無事ニューヨーク港に入った王女と王子を歓迎した(1940年8月28日)。 二人をニューヨーク・ハイドパークの私邸で、そしてホワイトハウスで暫く過ごさせた。 その後、王女はワシントンDCから遠くないベセスダ(メリーランド州)の町に邸を借りた。

 

この町には、ルーズベルトが新聞記者に隠れて心臓疾患の治療を受けていた海軍病院があった。 ルーズベルトとマーサ王女はたちまち親密になった。 ルーズベルトの当時の記録からマーサ王女が頻繁に彼の傍らにいたことが分かる。

1941年8月4日早朝、ルーズベルトは大統領専用ヨット「ポトマック」号で釣りの旅に出た。 船上にはマーサ王女の姿があった。

その晩はマサチューセッツ州マーザス・ヴァインヤード沖に停泊した。

 

翌未明、FDRは重巡洋艦オーガスタに移り、カナダニューファンドランド沖に向かった。 チャーチルとの極秘会談が目的だった。 ポトマック号には自身の影武者と警護のシークレットサービスを残し新聞記者を攪乱した。 王女はカムフラージュの道具でもあった。

 

ルーズベルトは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズでやってきたチャーチルとの会談に臨んだ(大西洋会談:8月9日~12日)。 実態はいかにして米国の参戦を実現するかの打ち合わせだったが、戦後の和平構築の理念を語る大西洋憲章の作成が目的だったと胸を張った。

 

 

ルーズベルトとマーサ王女の関係がどこまで親密だったかは詳らかではない。 しかし、後の歴史家の作成したFDRの愛人リストには、彼女の名が記されている。

 

ラッシュとの不倫を咎められたエレノアがルーズベルトと修羅場を演じた。エレノアは夫の不倫の数々を知っていたはずである。 売り言葉に買い言葉の激しい応酬の後に、陸軍防諜部は解散させられた。

その後もFBIによる監視やヴェノナ計画によるソビエト暗号交信傍受は湯漬けられたとはいえ、米国の防諜能力は格段に低下した。

 

 

続く

 

 


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