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シーア派内部の抗争

2022-08-29 05:58:38 | 哲学・宗教・思想
シーア派は、ムハンマドの嫁婿であるアリーの血を引く者が後継者になるべきという宗派で、スンニ派はコーランを信じるイスラム教信者で、血統には関係ないと、つまらぬ教科書で習いますが、シーア派の実態は、血で血を洗う内部抗争の歴史であります。宗教と言いながらユダヤ教は軍事・経済の同盟契約。

イスラム教も宗派は軍事同盟であり、銃を乱射しミサイルを敵側に打ち込む軍事攻撃現実を見れば理解して頂けると思います。TVに出てくる中東専門家がいう、イスラム教は平和の宗教といいますが、どこが平和の宗教?と言いたくなります。

ムハンマドは幼少の頃、両親が亡くなり6歳で孤児となり、年齢の離れた裕福な未亡人の女商人と結婚。生活も安定してきた40歳の頃、ヒラー山で最初の啓示を受け、イスラム教を創設しました。アリーはムハンマドの養子と言っても良い、娘ファティーマの嫁婿です。

シーア派はムハンマドが亡くなった時にアリーが後継者の地位につくべきという考えを持ちます。ムハンマドは最初の妻は年寄りで実際金で買われたようなものだったので、コンプレックスか?次の妻は40歳年の若いアーイシャが6歳の時婚約、9歳で結婚しました。この幼児結婚についてはイスラム教徒内、西欧社会からも非難があります。

632年ムハンマドの死に際してアリーではなく、アーイシャの父アブー・バクルが権力を掌握し、カリフとなり、状況はアリーに不利になっていきます。アリーは656年にようやく四代目カリフに就任しますが反乱に直面。

アーイシャとアリーは仲が悪く、常に敵方にはアイーシャの影がありました。661年、アリーは暗殺され、アブー・バクルやその盟友ウマルが重用したメッカの有力家系のウマイヤ家が権力を掌握して世襲王国を樹立。

これに対抗する勢力がアリーの血統をかつぎ繰り返し反乱を起こしますが、その都度に反乱は鎮圧されました。その中で最も語り継がれているのが、アリーの次男のフサインの殉教です。680年フサインを立てて反ウマイヤ朝の狼煙をあげた反乱勢力を、ウマイヤ朝のカリフ・ヤズイードがカルバラーで包囲し、フサインを惨殺。これを「カルバラーの悲劇」と言います。

宗派のみならず、シーア内で暴力団さながらの内部抗争。これがイスラム教の実態の真実です。フサインが惨殺されたのが、ヒジュラ歴61年のムハッラム月10日、シーア派の祭りで信徒が自らの体を叩き血だらけになりながら街を練り歩く祭りをTVで見た事が合う人もいると思いますが、これはフサインの死を嘆き、自らの無力を嘆き悔いる祭りです。

フサインの40日(アルバイーン)の喪が明けた日に、カルバラーのフサイン・モスクに巡礼を行います。これが「アルバイーンの巡礼」で、「アーシューラー」と並び、シーア派の信徒が一体となる機会です。


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