ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

54年前の遠雷

2019-08-19 | アメリカ事情

 shutterstock.com

 

 

 

過去にポール・ハーヴィについて書いたが、三回目の今日は、彼の”If I were the Devil"(もし私が悪魔だったら)をご紹介したく、ここにコピーする。これは、1965年に自らのラジオ番組で放送したものだが、54年経って、これがなんと予言的であったか、驚かざるを得ない。彼はソープボックス(演台の意)の上から、悔い改めよ、と声を涸らして道を説く者ではなかったが、人が人間らしく生きることについては、どんな説教師や道徳教育の権威よりも多くを語ったのではないだろうか。私の年代の多くの人々は、「おじいちゃんとランチした時には、必ずポール・ハーヴィを聴いた」とか「ポール・ハーヴィのきっちり正午12時からの放送は、畑仕事から戻る父親と一緒にサンドウィッチを頬張りながら聴いた」と言う。私はせいぜい70年代の後半からだが、いつも彼の放送はできるだけ聴き逃したくなかった。結婚して夫がランチタイムに帰宅すると、まずラジオのスイッチを押して共にハーヴィに耳を傾けながら昼食をしたものだ。”If I were the Devil"のラジオ放送を聴いて、人々はこの遠雷を聞いたことだろう。

 

 

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もし私が悪魔だったら、もし私が闇の王子だったら、私は全世界を暗闇の中に飲み込みたいと思うだろうし、世界の三分の一の土地とそこの五分の四の国民を所有するだろうが、それで満足はしない、木の上の一番熟したリンゴ(あなたのことである)をもぎとるまでは。だから私は、米国を乗っ取るために必要なことはなんでも着手し始める。 私は最初にひそひそとした噂のキャンペーンから始める。 イブにささやいた蛇の知恵をもって、私はあなたにささやくだろう、「あなたの思うがままにおやりなさい」と。

 

 

若者に、「聖書は神話だ」と噂を流す。私は彼らに、人間が神を創造したのだと信じ込ませよう。 悪いことは良いこと、良いことは「四面四角」だと確信させよう。そして、年かさの人達には、「ワシントンにまします我らの父よ、」と私の後について祈らせよう。

 

他のなんでもが退屈で面白味がなく見えるように、愚かな文学を刺激的に書く方法について作家を教育し、汚い映画でテレビを脅したり、その逆も然り。 私は麻薬をできるだけ誰にでも売ろう。 アルコールを名誉ある男女に売りつけよう。 その他の人々を薬剤で落ち着かせる。

 

私が悪魔だったら、すぐに家族を互いに戦い合わせ、教会は教会同士で戦わせ、そして国々を国同士で戦わせる。 その順番でそれぞれが消え去るまで。 そして、より高い視聴率のためだという約束を匂わせて、私は報道機関が炎をあおるように魅了する。 私が悪魔だったら、学校に若い知性を磨くように勧めるが、感情を訓育することは怠ろうー皆が気付く前にすべての校舎のドアには違法薬物探知犬と金属探知機が必要になるまで、彼らを野放しにしよう。

 

10年以内に刑務所があふれ、裁判官がポルノを宣伝するようにするだろうーただちに私は裁判所から、次に校舎から、そして議会堂から神を追い出すことができるのだ。 そして神自身の教会では、私は心理学を宗教に置き換え、科学を神格化するのだ。 司祭や牧師を誘惑して、少年少女を惑わさせ、教会の献金を悪用させよう。 私が悪魔だったら、復活祭のシンボルを卵にし、クリスマスのシンボルをボトル(酒瓶)にしよう。

 

もし私が悪魔だったら、大望のある者のやる気を殺すまで、私は奪い、それを欲しいと言うものに与えよう。 そして、あなたは何を賭けるのか? 金持ちになるための方法として、全州にギャンブルを促進できようかのために? 私は、愛国心、道徳的行為における極度な努力と尽力を厭わない者に注意しよう。 私は若者に、結婚は時代遅れであり、奔放に性的自由を謳歌する方がより楽しく、テレビで見るものが現実だと確信させよう。したがって、私はあなたに人前で服を脱がさせ、治療法がない病気のはびこるベッドにあなたを誘い込めるだろう。 言い換えれば、もし私が悪魔だったら、彼が今やっていることを続けるだけだ。

ポールハーヴィでした、良い一日を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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多くのダニー

2019-08-17 | わたしの思い

mohonk.com

 

 

 

 

夫の長い間教育者として教育関係の仕事に携わってきた父親は、32年前の8月31日に避暑先の北アリゾナで逝去した。その葬儀には、思いがけずに大勢の参列者がいらしてくれた。葬儀では夫の長兄が、John Gillespie Magee, Jr.によるHigh Flightと言う詩を引用した弔辞を捧げ、まだまだ幼かった孫たちがJanice Kapp Perry の Where is Heavenを歌った。そしてある一人の方が、Danny Boyを歌った。これは故人の生前からのリクエストだった。

 

Danny Boyダニーボーイ、この曲は1913年に英国の弁護士だったフレデリック・ウェザリーが、英国サマセット郡バースにて作詞し、後「ロンドン・デリー・エアの歌」のメロディで今日まで歌われてきている。この詞が作られたサマセット郡バース地方は、夫の亡き父の先祖が1600年代アメリカ大陸に来るまで住んでいた地域である。詳しく言えば、亡父の母方の先祖である。この曲は、女性(母や姉妹や恋人や妻)が戦いに行く愛する男の人を見送る時の歌だが、葬儀でも良く使われる。夫の父の葬儀で、素晴らしいテナーで歌われたダニー・ボーイは、涙で目をかすませながら聴いた。最近の著名人の葬儀では、2018年9月1日に行われたジョン・マケイン上院議員の式で、ペギー・フレミングが歌った。


夫の父は長男で妹が二人いて、アリゾナの鉱山の小さな町で鉄道員の父親と、教会や近隣の住民との活動に盛んに活躍した母親のたった一人きりの息子であった。一番下の妹は10歳の時、白血病で亡くなった。もう一人の妹は高校を出るや否や、すったもんだの挙句、若くして結婚し、隣の州へ移っていった。長男だった一人息子は大学へ行くのに、生活道具一式を荷車に載せ、馬にひかせて同じアリゾナの大学へ向かった。そこの大学の修士課程に居た時、学部で数学を教え、そのクラスで出会ったのが、夫の母親であった。


以前も書いたが、二人が婚約中にデートで映画館に居た時、真珠湾攻撃を知り、翌月の1942年1月に結婚を早めたのだった。その後ダートマウスやウィスコンシン州で軍事訓練を受け、アラスカのアリューシャン列島の要所で、教育士官として軍役についた。北アリゾナの町から彼を見送った母親や新しい妻は、この曲で、戦に赴く愛する者への思いをより重く持ったことだろう。

  

Oh, Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side.
The summer's gone, and all the roses falling,
It's you, it's you must go and I must bide.

But come ye back when summer's in the meadow,
Or when the valley's hushed and white with snow,
It's I'll be here in sunshine or in shadow,
Oh, Danny boy, oh Danny boy, I love you so!

But when ye come, and all the flowers are dying,
If I am dead, as dead I well may be,
You'll come and find the place where I am lying,
And kneel and say an Ave there for me.
And I shall hear, though soft you tread above me,
And all my grave will warmer, sweeter be,
For you will bend and tell me that you love me,
And I shall sleep in peace until you come to me!
 
 

初頭にある”the pipes, the pipes are calling”とは戦いに向けて部隊を招集するのにバグパイプを使ったからで、その音が聞こえる時、家族も出兵する男たちも、せかされる気持ちであったことだろう。生きて戻ってきて欲しいという願いを込めて、その姿が見えなくなるまで手を振り、見送った愛する家族の情景が目に浮かぶ曲である。アイリッシュやスコティッシュ系アメリカ人やカナダ人にとってこの曲は長い長い間愛されているクラッシックだ。


私には三人の息子があり、孫息子も来月には五人となる。息子たちが18歳になった時、それぞれ郵便局で、Selective Service System Registration(選抜徴兵登録)をした。アメリカ合衆国の徴兵制はベトナム和平協定成立時の1973年に、廃止され、1975年には選抜徴兵登録も廃止されたが、1980年7月には復活されている。19~25歳のアメリカ合衆国国民男性および永住権を有する外国人男性は、この登録を連邦選抜徴兵登録庁(大抵は最寄りの郵便局)でしなければならず、もし怠った場合、未登録者は5年以下の禁固刑または250,000ドル以下の罰金を科される可能性がある。また連邦政府機関への就職は認められず、連邦政府からの大学等への奨学金制度を受けることができない。


この登録は、有事に備えての貯蓄的なことであり、今日現在合衆国軍兵士たちは、みな志願して入隊した者であり、2014年10月28日ラルフ・リグビー准尉が退役したのに伴って、合衆国陸軍の徴集兵士はいなくなっている。連邦議会では、議員も大統領も、国防総省も、徴兵制の復活は必要がないと、繰り返し述べるが、アメリカ合衆国は、そのテリトリーを攻撃・侵略されれば、即座に有事となり、国土を死守することだろう。

 

息子達はボーイスカウト活動でも夫にならいイーグルスカウトまで三人共獲得し、合衆国への忠誠心を持つが、有事にはその資格が満たされれば、立ち上がることと予想される。私の姉の亡夫は、徴兵制の許、二回ベトナムへ行った。幸いにして生きて帰国できたが、自国を守るだけでなく、民主主義が脅かされる外国からの要請があるならば、アメリカ軍人として銃を取る覚悟を持っていた。「それが自由を守ることで、死守すべき平和なんだ。平和は空から落ちてくるのではなく、戦ってでも守っていくものだ」と信じていた人だった。


今平和の中で生活する私たちは、この平和が多くのダニー・ボーイズによってもたらされていることを忘れてはならない。



Needpix.com





 

 

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タフィ

2019-08-15 | 家族

pexels.com

 

 

 

 

初めての子供を無我夢中で育てている末娘は、9月のレイバー・ディの翌日から新学期の始まる法学大学院生の夫と二人で、眠らないうちに迎える明け方のひと月を過ごしている。最初の10日間のお手伝いを終えた私を空港へ落としてから、突如「これから夫婦二人で息子を育てていくのだ」とハタと気づき、青ざめたのだそうだ。そこで娘の夫は、自分の母親に電話をして、少しの間助けて、と。あちら側のおばあちゃんは、すぐに駆け付けて少しの間でも若い親たちが30分でも多く眠られるようにしてくれた。

 

「この子は、おばあちゃんたちがそばにいると、良い子にしているようなのよ。」と言うが、娘よ、それは自然にそうなったわけではない。赤ちゃんが新しい母親を伸ばしに伸ばし、曲げたり、折ったりして、おばあちゃんを作るからなのだ。そう、ちょうどソルト・ウォーター・タフィのようなもの。最初は只のお砂糖と水。それを沸騰させ、煮詰め、水飴にして、それから幾度も捏ねて空気を含ませ、それを伸ばし伸ばしして、できる柔らかいタフィ。あれですよ。

   

pebblekeeper.com                                                                                                                                                               edelweisschocolates.com




だいたいあちらのおばあちゃんは、7人を生み育て、7人の孫も世話してきたから、よく練られてできた上等なタフィである。タフィな祖母は新生児は特に、何を欲し、どうしたらあやせるか、その腕が知っているのだ。かつて自分が新米ママだった頃、あれこれ考えては試し、失敗しては又新しい方法を考えてきたことを頭にある引き出しに入れてある。普段は忘れていても、その腕に赤ちゃんを抱けば、ほぼ自動的に引き出しからいろいろ出てくるだけだ。それだけである。

 

眠れない夜が続いても、必ず夜明けは来るし、その夜明けを寝ながら迎える日も近いのだ、ということを忘れなければ、耐えていける。泣き声でパニックに陥らないように、まず深呼吸をしてから、抱き上げ、子供の体温を感じ、授乳やらおむつ交換やら、すればよい。それでも泣き止まないなら、抱いて揺り椅子に腰かけて、あるいは抱きながら部屋をそっと歩き回り、背中をさすったり、やさしくぽんぽんと叩く。単純な動きがやがて眠りにつかせるし、小さな声での子守歌も耳に心地よいであろう。母親がパニックを感じると赤ちゃんはしっかりそれを受信するから、余計にむずかることがある。私は大丈夫、と声に出してでも自分に言い聞かせるのも、大切なことだとかつての新米だった私は思う。

 

私が末娘に「おかあさんは異国(一応)で5人産み、どんなに大変でも誰も殺さずに育ったのよ、貴女にできないはずはないわ」と励ましたのを聞いて、長女が、「え、それってどっちかっていうと、余計ストレス感じさせるわよね?」と言った。そうなのね、昨今は、そういう言い方は政治的に正しくないのかもしれない。けれども、娘たち、育児は政治的に正しいかどうかなどと論ずる場所ではないのだ。根性あるのみ、星一徹と星飛雄馬なのだと言った根性論は要らないが、負けまい、と頑張ることは大切だ。ただし、根性よりも気持ちの余裕を少なからず持つようにすればいいのだと思う元新米ママ。つまりそれぞれがそれぞれにあった育児をこころがけることだろうか。

 

そして今から5年も経ってごらんなさい、幼,稚園に初登園する我が子の写真を撮りまくりながら、「まあ、いつのまにこんなに大きくなってしまって。。。新生児期あんなに、てこずった頃が懐かしいわ」となるのだから。坂を転げるかのごとく、子供の成長は早く、新米親は中堅となり、やがてよく練られたタフィになるのだ。今は今、腕の中であやしながら、やっと会いにきてくれた、必死の思いで生まれてきてくれた子をそっと抱きしめることである。明日は思いがけずに早足でやってくるのだから。

 

 

   

いつの間にやら次男家にいる#3と#6もすくすくと育っている。

次男と末娘の昔々。それぞれが今や親!

だからこの#7だって、あっという間。明日は大学生。




 

 

 

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歌詞というもの

2019-08-13 | 人間考察

 

 freshsoundrecords.com

私の好きなアルバムのひとつ

 

 

 

 

 

日曜朝は教会へ行く前に、出かける支度をしながら時計代わりにCBS局の”Sunday Morning"という番組をつけておく。7月21日の番組では、なんとZZ Topが、結成50周年を迎えた、というセグメントがあった。えっ!?50周年?ってことはあの三人は70歳代!? セグメントに出てきた三人はあのお髭の二人も、いつも髭を剃っているもう一人も、すっかりSenior Citizen(お年寄り)な風貌である。そうよね、ミック・ジャガーだって75歳、ポール・マッカートニーだって、77歳だもの。もし生存していたら、かのフレディ・マーキュリーも73歳。こういう時は、伸び放題の夏草を目にして、かつてそこで競い合っていたツワモノどもを思いたくなる。70歳代なら私からすれば「お兄ちゃんたち」だが、かく言う私とて、あちらこちらにアイタタのある花のxx歳ではないか。「花の」とつけるのは、そこに意地をみせたいからである。

  

 

   

かつてと現在のZZ Top

imdb.com/cbsnews.com

 

 

そうか、みんな年を取るんだ。日本ではすぐに年を取る=劣化、などと自分だけ絶対老いないと錯覚してそんなひどい言葉遣いがあるが。好きだった歌手のマイケル・ジョンソン(Michael Johnson)だって、ちょうど今から二年前、72歳で長い闘病の末ニューヨークで亡くなっている。彼のRough and Tumble(荒々しい、粗野な、というような意味・彼はややそんな感じの声だった)的な歌声がラジオから流れてきた1978年の夏、その歌詞がメランコリックでいい、と若~い私は感じたものだ。その歌は、”Bluer than Blue"で、当時かなりのヒット曲だった。当時大学で出会ったばかりだった夫が、州都にある移民局で永住権(私は結婚によってではなく、姉を通じて取得)の最後の手続きをしにその大学町を留守にした私が帰宅すると、訪問してきて、この歌を歌った。

  

私がZZ TopやAlice Cooperが好きだったと言うと、子供たちはのけぞりはしなかったが、一様に驚き、「おかあさんは、クラッシックとアンディ・ウィリアムスだけが好きなんだと思ってた!」と言った。調子に乗った私が「Mötley Crüe だっていい曲あるんじゃない?」などと言うと、今度こそ子供たちは一斉にのけぞる。いえ、ほんとうに、曲はどうであれ、歌詞によいのが一つあるのだ。それは”Home Sweet Home”の一節で、

”Just when things went right ちょうど物事がうまく運んだ時

It doesn't mean they were always wrong だからっていつも間違っていた、っていうわけじゃない

Just take this song and you'll never feel この歌を聞けば、君がひとりぼっちで残されたと決して感じることはないよ。

Left all alone”

である。1980年代からのアルコールやドラッグ漬けの生活ぶりで悪名高い(高かった)Mötley Crüeが、これは、まるで掃きだめに咲いた思わず可憐な雑草の花を見つけたような歌詞だと思う。究極ツアーに疲れて、早く帰宅して、パーティしたい、というのが彼らの本音だったかもしれないが。

 

歌詞。メロディも大切だが、良い、あるいは耳障りの良い歌詞は心に残る。そう言えば、Gilbert O'Sullivan(ギルバート・オサリヴァン)のAlone Againという曲がヒットした時、その歌詞を私は彼自身の内省的なものだと思い、密かにではあるが、相当心配したのである。後日あれは彼の自叙伝的ものではなく、ただ単に頭に浮かんだ歌詞だと言うのを知り、どれだけほっとしたことだろう。「母親の葬儀の後、教会堂に一人残され、気持ちが沈んだままならば、近くの塔(教会堂の塔)にてっぺんまで登り、そこから身を投げ、粉々になるほどの孤独感を誰にでもわかってもらおうと思う。。。母は愛する父を65歳で亡くし、そして今はその母さえも僕を一人にして逝ってしまった。。。」、実に暗~い歌詞である。後々、これは彼自身についてか尋ねられると、自分の父親は家庭内暴力者で、母親は(ヒット)当時まだ存命(していた)、と彼は答えた。どれだけ安心したことか。若かった、私。

  

ここまで書くと、結局横文字の曲がいいのだ、と思うが、いいえ、実はひとつとても好きな歌詞の日本の歌がある。それは「津軽海峡冬景色」である。北国の人々が、黙々と青森駅から青函連絡船に乗っていくのを書いているが、その様子がよく伝わっている。さもありなん、である。実際に私は冬の東北や北海道に行ったことはなく、青函連絡船を見たことも乗船したこともない。それでも凍えるのでないかと思えるカモメや灰色の空の下の竜飛岬や、傷心を抱えて帰郷するかわいそうな女性の姿が目に浮かぶではないか。怨念が沁み出てくるような演歌は、近寄りがたいが、この歌の歌詞は簡潔に抒情的で美しい。これが北国でも青い空の夏だったり、あるいはハワイ諸島間を行き来する連絡船だとしたら、阿久悠さんはどうお書きになっただろうか。女性の傷心にはやはり凍える冬の海景色である。

 

 

 

 

Michael Johnsonの”Bluer than Blue"

邦題:哀しみの序章

Blueは哀愁の意。

 

 

 

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眠たい

2019-08-11 | 調査・探求

 mozo.com.au

 

 

 

先日の記事タイトルは、「眠くない」であるが、今日は、「眠たい」である。ベネドリルやメラトニンやコンピューターマニュアル本や恐怖症リストを読んだ結果ではない。フルタイムで昼間は大学で勤務しているのに、夜は系図調査に精を出しているからである。つまり昼間眠たくなったりする。夫が、「死んでいる方々にお休みを言う方がよかない?明日はまだ金曜日なんだけど。。。」と、寝ぼけ眼で、夜半ダンジョン(Dungeon=地下牢、地下納骨堂などを意味する古いフランス語)と私が呼ぶロフトの書斎のコンピューター机に、壁のゲッコーのごとくへばりつく私へ声をかける。ロフトだから地下ではないが、系図調査をするには、やはり雰囲気としてダンジョンと呼びたい。

 

i.pinimg.com

 

どうしても完結したい調査があるのだ。アダムとイブ夫妻に辿り着けば完全完結するが、普通系図探求に完結はない。ある程度、つまり過去100年~400年くらい遡ってみた結果、というようなことである。先祖の名前を見つけても、徹底的にその人物に関する誕生、結婚、死の公的記録などを付随させるのが、系図探求たるもので、つまり存在した証拠がなければ、ただの家族の伝説に過ぎない。その作業は、昨今系図に関するデータベースでほとんど出来るし、FindAGrave.comへ行けば、おそらく合衆国の全域の墓地にある墓石についての情報と写真が得られる(無料)。


それでも未だデジタル化されていない書類は未曾有だし、風化した墓石群の古びた墓地もいくらでもあり、若輩国の合衆国でも人知れずなんとなく残っている誰が埋葬されているのかわからないところもたくさんあるのだ。昔ながらに、図書館や裁判所に実際に足を運び、埃をかぶった怖ろしく大きな登記台帳や遺書検認記録などを手に取り、調査することもある。ちなみにスマートフォンは、こんな時実に重宝する。フラッシュをたかずに書類をコピーできるからである。フラッシュ光やコピー機の光でさえ古書の紙質を痛めることがあるからだ。それに有料コピー機を使わなくてもよい、ということも重たい余計な小銭をじゃらじゃら持ち歩かなくてもよいということだ。


もちろん墓所へ赴いて直接該当する墓石を確かめ、墓所管理人事務所で埋葬記録を読ませてもらうこともある。荒野と化した古い古い墓地はたくさんあり、墓石そのものの質がもろければ、長年の雨風によって朽ちてきて銘刻が判読不可能なこともある。もちろんそのような墓地には管理事務所もなければ管理人もいない。墓所管理人事務所も管理人も不在、判読不可能な朽ちた墓石ばかりの古い墓地で、途方に暮れた私は、結局そこの郡役所や裁判所で、かろうじてあった記録で探していた1700年代後半に埋葬された先祖を見つけたこともある。

 

こんなMoonlighting(本職の他にこっそりする副業)であるが、私はこれに対して報酬は取っていない。本業を引退したらプロフェッショナルの道を進むやしれないが。第一、先ほどいただいた中華ランチに付いてきたフォーチュンクッキーには、"YOUR MOST IMPORTANT WORK IS YET TO COME"(あなたの最も重要な仕事はこれからやってくる)とあるではないか。今や合衆国の趣味第一位を園芸に代わって占める系図は、17歳の時からずっとコツコツと続けてきた研究でもあり、趣味以上である。




おそらく年配な人々は、こんな歌詞を思うかもしれない。実際、これは系図家の歌と言ってもおかしくない。


君の行く道は 果てしなく遠い

だのになぜ 歯をくいしばり

君は行くのか そんなにしてまで

 

君のあの人は 今はもういない

だのになぜ なにを探して

君は行くのか あてもないのに

 

君の行く道は 希望へと続く

空にまた 陽がのぼるとき

若者はまた 歩きはじめる

 

空にまた 陽がのぼるとき

若者はまた 歩きはじめる

 

”若者たち” 作詞:藤田敏雄;作曲:佐藤勝;歌:ザ・ブロードサイド・フォー;©2001~Interrise Inc.




まさに系図調査と系図研究者のテーマ・ソングである。さすがに「若者」は、おこがましいので、「あなた」や「わたし」、くらいに直しておこう。引退後の私の生活は、世界一周クルーズではなく(明白な資金不足)、おそらく8~10プラス人の孫の誰かを腕に抱きあやしながら、FindAGrave.comをサーフしていることだろう。もちろんこのテーマ・ソングを聞きながら。

 

 

昼も夜も関係なく、特に昼よく眠るこの人も、先祖の子孫なわけだ。




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