ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

高潔な人

2018-02-23 | アメリカ事情

billygrahamlibrary.org

 

William Franklin Grahamは、高名な伝道者で、日本でもビリー・グラハムと言ったらおそらくわかる方もいらっしゃると思うが、99歳で2月21日亡くなった。日本へも四回、1956年、1967年、1980年、1994年と訪問し、ビリー・グラハム国際大会を開催した。現に、のびたさん(のびたとブレイク)は、ご両親と兄上と、日本でのビリー・グラハム氏の大会へ足を運ばれたとおっしゃり、その後ご両親と共に影響を受けた兄上は、神学校へ進み、牧師となられた由。のびたさんご自身、音楽を通じて奉仕活動をなさっていらっしゃる。

 

グラハムは、第二次世界大戦後、福祉の充実を図るため、福音の価値をアメリカ人に思い起こさせるべく、伝道師として活発説教するスタイルで名声上がった。彼の力強い話し方は、1949年にロサンゼルスのダウンタウンのテントに35万人を誘ったのである。最初の主要なビリー・グラハムの集会であり、65の説教をした後、魅力的な説教者として世界中で知られた。 やがてグラハムは、アメリカの伝道師と呼ばれ、トルーマン大統領の1950年代から何十年にもわたって、12人のアメリカ大統領と知り合い、保守的な人で民主党支持者ではあったが、共和党、民主党のどちらの大統領とも親しくし、ビル・クリントンと共に祈ったこともあった。日本では、彼がアメリカの保守派を中心とした政界に強い影響力があった、と報道するが、実際は、本人も晩年述べていたように、政治的ではなく、霊的な精神的な支えとなっていたにすぎない。

 

https://www2.wheaton.edu/bgc/archives/exhibits/LA49/01intro.html

 

グラハムは、また英国のエリザス女王とも親交があり、NetflixのThe Crownシリーズをご覧になっていらっしゃる方は、シーズン2、エピソード6で、彼が女王に会見しているのをご存知と思う。伯父の元キングエドワード8世が、離婚者のアメリカ女性(ウオーリス・シンプソン)と結婚したことによって、その重責を弟であったエリザベスの父に押し付け、さらに第二次世界大戦中にナチスと友好的になり、弟王を転覆させようとするドイツの企てに加担、英国爆撃の助けともなった。その事実は戦後になって、次第に明るみに出て、エリザベスは、その伯父を赦すべきか、非常に悩む。その時グラハムは、女王に、赦しがたい人のために祈ることを進言したのである。彼は、「私はただのキリスト者ですから」と常に謙遜であったので、女王にも好かれた。

 

1970~1980年代のジェリー・ファルウェル的なクリスチャンを票田にするかのような宗教活動や、政治に影響を及ぼそうとする信仰コミュニティを避けるため、次第にグラハムは、政治的行為・活動を控えて、むしろ持てるエネルギーを、人道的な理由に使うようにしてきた。1987年彼は、「私は、それ(政治的活動・行為)を避け、ただキリストの福音を述べ伝えたいのです。何故ならば、ワシントンや政治的な場所からは、世界を助け、男女共に、よりよい存在となるために、(必要なことは)一切出てこないからです。そうお出来になるのは、キリストです。」と述べた。生涯福音主義のキリスト教徒を、公共の広場に引き寄せ、政治的力となることを助けた伝道師は、人生の終わりに近づいて、やはりイエスキリストを礼拝することへ、帰依したのだった。


現在の副大統領マイク・ペンスは、妻以外のどの女性とも一対一の時間を持たないことで有名だが、それは、ビリー・グラハム流と言われる。グラハムが、生涯どんな時でも、昼食や空港への乗り継ぎ時間でも、妻以外の女性と二人きりで時を過ごすことは、一切なかった、とロサンジェルス・タイムズ紙が報告している。そして彼は、自らの財政規制のために、切った(支払いに使った)小切手は、必ず残高記入するシステムを設定していた。小切手(チェック)と残高記入は、balancing your checkbookと言うが、アメリカなら誰もが、個人のチェックブックに残高を記入して、きちんと管理すべきことだが、それが必ずしもできないので、いろいろ問題が起こるわけである。それをきちんとし、女性問題を一切寄せ付けない高潔さを持ち、実践していたのが、グラハムであった。

 

「グラハムが自分の利益のために何百万人もの人々の注意を簡単に指示できたろうに、彼はプライベートで謙虚な人生を生きることを選んだ」と、テネシアン紙にThe Rainer LifeWay Christian ResourcesnoのCEOであるライナー氏は、述べた。そしてこう付け加えた。「彼の人生で、焦点を当てるべきは、自分自身ではなく、一つのこと、すなわち十字架上のイエス・キリストであることをずっと願ってきたのです。」


その高潔なキリスト者は、晩年病をいくつか得た末、昨日、99歳で神の御顔に触れたのだった。John Gillespie Magee, Jr.の有名な詩、”High Flight"の如くに。

 

 

High Flight

by John Gillespie Magee, Jr. (1922-1941)

 

Oh! I have slipped the surly bonds of Earth
And danced the skies on laughter-silvered wings;
Sunward I've climbed, and joined the tumbling mirth
Of sun-split clouds, — and done a hundred things
You have not dreamed of — wheeled and soared and swung
High in the sunlit silence. Hov'ring there,
I've chased the shouting wind along, and flung
My eager craft through footless halls of air… .

Up, up the long, delirious burning blue
I've topped the wind-swept heights with easy grace
Where never lark, or ever eagle flew — 
And, while with silent, lifting mind I've trod
The high untrespassed sanctity of space,
Put out my hand, and touched the face of God.

 

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帰還した旗

2018-02-22 | アメリカ事情

https://pixabay.com/en/background-beach-coast-peace-ocean-2361/

 

 

https://www.rd.com/true-stories/inspiring/wwii-veteran-returned-flag/  Credit: EUGENE HOSHIKO/AP PHOTO

 安江辰也さんに日章旗を返還するマービン・ストロンボさん=岐阜県東白川村で2017年8月15日

 

私は、CBS放送局のニュースで見たが、毎日新聞にも2017年8月15日報道されたのが、題して「終戦の日 日章旗、遺族の手に。。。73年ぶり、元米兵から」である。同じ記事は、今月発行のリーダース・ダイジェストにも載っている。私自身、少し前に友人から、同じような署名のたくさん入った日本国旗を渡されて、持ち主を見つけて欲しいと依頼された。友人の父親が亡くなり、遺品整理で、彼が持っていた古いフットロッカー(ベッドの足元におくトランク)を開けたところ、丁寧にたたまれて、その中で保存されていたのである。友人と母親は、初めて目にしたのであるが、一目で、これは最初の持ち主に是非返還しなければならないと感じたのだった。そして私の手元にこの旗はやってきた。持ち主を探して、返還してほしいと頼まれたのだった。

 

私は、友人にいつどこでこれを父親が入手したのか尋ねた。私はその少し前に彼女の父親についての系図を調べ終わったばかりで、それによると、確か彼は、第二次大戦終結直後海軍に入隊し、一切戦闘活動には参加しておらず、戦後処理というような仕事で、彼が乗り組んでいた軍艦は、太平洋のあちらこちらを寄港していたのだ。彼女は、実際にどこそこで見つけたというのではなく、同じ乗務員の先輩が、くれたらしい、とのことであった。ガダルカナルか、サイパンか、はたまた硫黄島か。場所は結局わからなかった。その旗には、「xxx君戦地でのご無事を祈って」と書かれていた。それを手に取って見ていた私は、急に胸にこみ上げるものがあり、再び丁寧に旗をたたみ、薄紙に包んだ。

 

結局日本の姉に連絡を取り、靖国神社へ奉納したほうがよいのではないか、との姉夫婦の提案で、丁度近々訪米する姉が、持ち帰ることにした。友人に、その旨伝えると、快諾してくれた。そしてその国旗は、姉夫婦が靖国神社へ奉納してくれた。あの時、この記事のようにマスコミを通じて直接ご遺族を探した方がよかったのかもしれないと思ったのだが、父親が、火事場泥棒的に思われるのは心外だろうと友人が言ったので、靖国神社を選んだというわけである。火事場泥棒。。。敵地に入り、負けた死者からなにかを奪って戦利品とすることは、往々にして戦地ではあることなのだろう。アドレナリンがそうさせるのか、今まで生きるか死ぬかの戦闘を経てきて、そのツケがやってきたのか、その心理は通常の世界にいる私にはわからないが、その時ポケットにいれられたからこそ、今まで生き延びてきたとも考えられるので、その黒白はつけなくてもいいのかもしれない。

 

又この記事にある元米兵も、友人の父親も、実に丁寧に保存し、虫食いの跡もなかった。そこにこうした旗に対する元米兵だったアメリカ人の礼儀と尊敬が感じられ、結局戦わねばならなかった時代を残念に思う。そして平和は、大きな事から始めるのではなく、小さなことの積み重ねだと思う。まずは、私達の家族や隣人への言動から、かもしれない。よくブログ世界でも意地悪が横行するらしいが、見ず知らずだからそうできるのか、小さな世界だからできるのか、理解しがたい。私がその一人とならぬよう自ら戒めていきたい。

 

以下は、毎日の記事からである。

 

終戦の日

日章旗、遺族の手に…73年ぶり、元米兵から

 
太平洋戦争中の1944年、サイパン島で戦死した日本兵の遺品の日章旗を持ち帰った米モンタナ州の元海兵隊員、マービン・ストロンボさん(93)が15日、岐阜県東白川村で遺族に旗を返した。旗の持ち主は東白川村出身の安江定男さん(当時25歳)。遺骨も戻らなかった定男さんの唯一の遺品が、73年ぶりに遺族の元へ返った。

ストロンボさんはサイパン島で44年7月、日章旗を拾った。東白川村で行われた返還式典で「こんなに長い時間がかかってごめんなさい。戦地で、いつか必ず故郷に返すと遺体に約束した。返すことができて言葉にならない」と述べ、定男さんの弟辰也さん(89)に旗を手渡した。

返還された旗は「戦争の悲しみが詰まった旗をたくさんの人に見てもらいたい」との遺族の意向で、村の戦争資料館に展示される。

遺品の返還活動に取り組む米国の非営利組織「OBONソサエティ」によると、これまでに100枚以上の日章旗が返還されている。遺族に直接返還するため来日したのはストロンボさんが初めて。

辰也さんは「優しくて頼りになる兄でした。兄の肌のにおいがするような大事な旗を保管していただき、太平洋を渡って来ていただき、ありがとうございました」と話した。【駒木智一】

 

 
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あの日

2018-02-21 | アメリカ事情

 http://mimileecanbe.blogspot.com/2013/12/free-printable-families-are-forever.html 



私たちのロマンスは、火花とともに始まったようなものでした。しかし、年月が経つと、私たちの情熱は、激しい怒りに変わり、たびたび火のような激しさを見せはじめました。中学生だった二人の息子を連れて、私は、そんな燃え盛る火元を離れるため夫から去り、私の故郷の町に落ち着いたのは、夫が私に去らせるのを目的のように敵意に満ちた手紙を書いたからでした。それが、ある日全てが変わったのです。夫が電話してきました。「人生に家族よりも重要なものはない、と深く認識している今、これから家族のためになんでもできることをみんなで一緒にやっていきたいと思っている。」と。そして言いました。「お願いだから、ここへ戻ってきてほしい。」

私たちは戻りました。その日は、2011年の9月11日でした。

オハイオ州コロンバスのクリスタ・スワンの話。


***


あの日、子供一人一人を抱きしめずにはいられなかった親は、私たちだけでなかった。職場でも、教会でも、グローサリーストアでも、人々は、家族の元へ、一刻でも早く帰り、抱きしめたかった子供や伴侶や親のことを、愛する人のことを考えていた。もう明日がないかのように抱きしめたかった。あの日、多くの管理者やボスは、従業員に、早く帰宅しても良い、と言った。そして家族とともにその日の残りを過ごすように、と付け足した。

 

 

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キルト

2018-02-20 | アメリカ事情

https://quiltpatterns.s3.amazonaws.com/14/capture_20170103045726.png



アリゾナ州サンタンヴァレーに住むジェニファー・ソンバーグは語った。

私は、叔母と一緒の時間を過ごしたい為、キルティングを始めました。妹が入院するまで、たいしてその仕事ははかどりませんでした。妹が入院した時、私とは13時間も離れている所に住んでいましたので、病床の妹のそばにいることが出来ませんでした。そこで私は、彼女の為にキルトを作ることにしたのです。一針一針には、涙と祈りが縫いこまれ、コットンとポリエステルの層の間には、二人の良い思い出が織り込まれていきました。医師達は、彼女が三回死ぬ間際のような容態に陥った、と言いました。神のご加護かどうか、私は、その出来上がったキルトを2年前彼女に届けることが出来、今でも彼女はそのキルトに包まれて、眠りについています。

 

***

 

私の住む地域に、小児病院があり、それが出来て間もない頃、Ronald McDonald Houseも併設された。ロナルド・マクドナルド・ハウスについては、ウィキによると、

ロナルド・マクドナルド・ハウス(Ronald McDonald House)とは、難病の子供とその家族を支援すべくアメリカのフィラデルフィア小児病院で誕生した宿泊施設で、ホスピタル・ホスピタリテイ・ハウスの中でも最初期に発足した組織である。

アメリカンフットボール選手であったフレッド・ヒルが、娘の白血病治療の付き添いで病院内での生活を経験した際、患者の家族が休息や睡眠を取るためのスペースが病院やその近隣に無く、また多くの家族が同様に困っていることを知った。このためフレッドは患者の家族が利用しやすい宿泊施設を病院の近くに作ることを思い立った。発端となった施設はフィラデルフィア新聞社主が家を提供し、ファーストフードチェーンのマクドナルドの店長らが支援したことからロナルド・マクドナルドの名前が付けられた。

2015年5月現在、世界38ヶ国に347ヶ所のハウスが設けられており、各地のマクドナルド法人が運営を支援している。日本での名称は、一部異なる。


そのハウスに宿泊する家族の為のキルトを作って寄付するプロジェクトを教会で行うことになり、私は、その一人のリーダーに選ばれた。必要とされるキルトサイズは、キングサイズで、これが普通作るキルトの中で一番大きい。デザインは、ログキャビンで、その材料は、その頃まだあった幾つかの生地屋を回って一番予算に見合うものを用意した。



http://www.orvis.com/p/battenkill-log-cabin-quilt/20p5

このパターンと同様のデザイン


ログキャビンは、小さな長方形の布切れを組み合わせていろいろなデザインができるが、その中でも、時間を考えて、比較的システム化して繋ぎあわせるものを選び、パッチワークを始めた。そして時間短縮を考慮して、普通のキルティングではなく、布地と同系色の毛糸で、結んでいく、Tie タイキルトにした。他の奉仕する婦人と皆でキルティングは、終わり、縁の始末などを引き受け、初めてから二週間で、私は完成したものを寄付することが出来た。


キルトを制作する過程では、誰もが、使用するであろう家族やその小児患者のことを思い、祈りながら、作っていった。その後ドメスティック・バイオレンスから逃げ出す女性とその子供達のたまの組織へ、寄付するキルト、主に子供達用のを作ってきたが、いつもその一針一針には、いつも使うだろう人々や子供達のことを思い、背負っているだろう重荷の少しでも軽くなることを願い、祈りながら作った。


キルトは、私の子供達一人一人、そして孫にも作ってきているが、その制作中はいつでも、同じである。キルテイングそのものが祈りの時間でもある。キルトの温かみが少しでも安眠をもたらすように。そして起きる朝が良い日の始まりであるように。

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姉の話

2018-02-19 | わたしの思い

cfaithministries.org

 

1人の姉は、小さな頃は、よく泣き、またぐずぐずとする子供だったそうで、母は、「この子は、繊細過ぎて本当に心配だわ。」とよく言っていたのを覚えている。「その点、この子は、小さなことを気にせず、むしろ、ずぼらだから、なんとか生きていける人間みたい。」と私の頭をなでながら、言っていた。よく泣き、ぐずぐずとしていた、というその姉が、義理の母、母、姉、弟を最後まで手厚く看病し、看取ったのだった。弟が、初雪の朝、息を引き取った時、「もうこれで看取るのはいやだ。」と姉は小さく言って泣き暮れた。

 

この姉は、ある日、自宅の前に黒い、歯のない、そして声の出ない、実際汚いとしか思えない、痩せた野良猫がいるのを見た。 姉は、躊躇せず、早速家に入れて、丁寧にきれいにしてやり、歯がないので、餌を柔らかくして、スプーンで食べさせていた。獣医に、いろいろ手当を施してもらったが、獣医は、その猫は、おそらく奇形で生まれ、声が出ず、歯がほとんどない状態だったようだと推察した。そう長いことはない、とも言った。誰からも愛されてはいなかった、この障害を持つ猫の生涯が、どんなものかは、簡単に想像でき、姉はそれならば、少なくとも最後は愛してあげたい、と抱きしめたのだった。その猫は、思ったよりも長生きしたが、それでもほんの数か月だけであった。必死の看護にも関わらず、姉の腕の中でその猫は逝った。姉は、それまでの飼っていた動物が、供養されているところに、その猫も埋葬した。


Photo Credit: Care Like I Do

https://carelikeido.com/category/cat-rescue/

 

子供の頃ぐずぐずとすぐ泣いたという姉は、本当は強く、弱い動物や病気の人には、誰よりも心を砕き、寄り添って生きて来た人である。そんな人が姉でよかった。

 

 

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