ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

矛先

2018-01-18 | わたしの思い

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昨年の夏、ある大学で、毎年社会人一般を対象にして催す生涯教育週間の一クラスで、心理療法士の夫妻が話したことは、私がいままで考えていたことを非常に適格に表していて、おおいに共感・賛同した。不幸な事や死を全て神のせいにすべきか、というテーマ。例えば、昨秋のカリフォルニアの大火事。あるいは先週の南加の土砂崩れ。あるいはニューヨーク市のいくつかのアパート火災。あるいは、無差別殺人事件。子供の虐待事件。こうしたことが明るみに出るたびに、必ずひとりや二人が、インタビューに答え、下の写真のように、こぶしを振り上げて怒りの矛先を天に向ける。


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「神はいない」、 「神は眠っているか、死んでいる」と言う自論を持つ人々は、思いがけない死や自然災害や人的災害などの悲劇が起こると、即座に「神」を見つけて、その怒りをぶつける。へりくだって神を見つけるのではなく、怒りの矛先を向けるために、かなり簡単に、神を見つける。煮え湯を飲ませられるかのような思いは、生きていれば、つきもので、それが皆神のせいだとするのは、そこに間違った「常識」があるからである。


前述の心理療法士夫妻の説明では、艱難・苦難につきもののの虚偽・欺瞞は、神が唯一の原因であるとし、自分の悩む問題は、神が自分に与えた物だ、と半ば信じている人がいて、それが世間一般の常識になりつつある、と言う。実はそれは他でもない自らがあるいは、人間が原因であることが多いし、自然の摂理から発生したことでもあるかもしれない。何よりも、この世が完璧でなければならない、という誤解がある。人は、本当に神がひとりひとりの人間の死を計画して、その死因を起こしているのだと信じているのだろうか。

 

悪いことや悲劇は、神がおぜん立てをしたのだ、という考え方は、とても人気のある信条である。ある人は言う:「神は十年前父を”奪い”ました。」 本当に? 神がその父親が亡くなった時、彼を受け入れたのは理解できるけれど、神が彼の命を”奪った”とは到底思えない。「神が私達の愛する者を奪うーそれが一つの計画で、神は彼の存在が私達の間ではなく、神との間にあるべきだと、愛する者から彼を奪いさる」という考え方は、まことしやかに育成され、醸成されているので、神に怒りを覚える人々が多いわけである。思うに「神が奪った」ということで、ある人々は慰めの言葉として使うのである。

 

多くの人々はどなたかが亡くなると、慰めようと、その遺族に往々にして次のように言う。「彼女はもっと良い場所に今います。」これはその通りかもしれないが、遺族の喪失感を癒すものではない。「私はあなたが、これからどのようにお感じになるかよくわかります。」という言葉は、虚偽であるばかりか、自己中心的でさえある。こうした一見慰めの言葉は、まだかわいい方かもしれない。私が一番好まないのは、「これは神の御意志に違いありません。何事も起こる理由があるのです。」である。それを言う本人や言われる遺族は、本当にそのようなことを信じられるだろうか。すべての不運が神の意志で起こるものだろうか。

 

マタイ伝第六章十節に、「。。。御意(みこころ)の天のごとく、地にも行なはれん事を。」とある。これは、いわゆる主の祈りの一節だが、これは、地においては、神の御心は行われていないので、天のように、それが行われるようにとの祈りである。私達には、自由意志が与えられていて、この世で、それをどのように使うかは私達の責任である。それが正しく使われるならば、それこそ神の御心に叶うのだが、実際は、どうだろうか。旧約聖書を紐解けば、一体何度、神は地上の人間の起こした事々に立腹し、苦悶し、挫折感を味わい、また人々に嘆願をなさったことだろうか。地上において神の御心、すなわち神の意志は、実際には、ほとんど行われてはいないのである。


もし人が、神がすべての起こることに起因していていると信じるならば、当然彼・彼女は、神に対して怒りを覚えることだろう。何故ならば、人生には、たくさん悪いこと、時には死も含めてが、起こるからである。ケイス・ウェスターン大学の心理学者ジュリー・エクセリンは、五課程で、人々の神への怒りについて調査・研究し、悪いことが起きるとそれが神の仕業であるということが、社会一般の通説になりつつあると発見した。彼女の調査・研究によれば、調査対象になった人々の62%は、神への怒りがあると答え、カソリックやユダヤ教の人々がプロテスタント教徒よりも多く怒りを持ち、年配の人々は若年層に比べて怒りが少ないのを発見した。無神論者でさえ、神への怒りを持っていると答えたのである。神の存在を認めない(はずの)無宗教者(無神論者)で不可知論者の大学生は、信仰のある学生よりもずっとその怒りが大きい。それは、人々が究極、神に責任があるのに、自分は見捨てられた、裏切られたと、特に愛する者を亡くすと、そう決めつけているからだと心理学者は説明する。


教義と戒めは、人々が自由意志を用いて判断し、やがて神の許へ帰るガイドであるにも関わらず、人の選択、従うか従わないかは、ひとりひとりの判断である。神は人々が自由(自由意志)に慈愛と忠実さを持つことを念頭に創造された。人が自由意志を持つことが、神の制御よりも大切であると判断されたのである。私がこの世を去る時、死を神のせいにはしない。神が関わっていることではないからである。むしろ復活が神によらなければならないからである。だから、私の家族は、「この死は神のせいです」などとは言わない。この世での生を授けられたことを喜び、やがて時が満ちた時に再び生きることを感謝したい。それが神の愛であるからである。


この世は実に試しの世で、死はその一つである、誰もこの世が完璧で、生きるのはたやすいとは言ってはいないように。そして起こる不運や不幸も試しの一部である。死があるのは、それは人間だから、不死身ではないから、である。


森鴎外は、かつて「多くの師にはあったが、一人の主にも会わなかった」と述べた。これに対して亀井勝一郎氏は、それが鴎外の傲慢さであると言った。なぜならば、自らがへりくだらなければ、目前に主がいるとしても、決して目には入らないからである。傲慢さが目のハリとなって見えないからである。


備考: ここで私は、宗教を持たない人や神を信じない人やまた不可知論者を批判する気持ちは毛頭なく、他の人々の自由意志を曲げようとも思わない。私が私の自由意志を行使するように、他の考え方を持つ人もその自由意志で判断すべきことで、ここには単に私の興味を引いた調査結果への意見を書いているまでである。私の意見は私の意見である。圧力で改宗したり、宗教に入るのは、誰の目にも自由意志ではない。





 

 

 

 

 


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4 コメント

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キリスト教的世界観 (きなこママ)
2018-01-18 14:13:05
私は 無宗教なので ままちゃんの言うことがもっともな様な
気がいたします。
鴎外と 勝一郎については 勝一郎に分がありそうですね。
鴎外は その作品は端正で好きなのですが
何か ウソがありそうな人物です。これは私の勝手な思い込み。

ままちゃんのブログは実に論理がすっきりしていて
いつも じっくり読んでしまいます。
返信する
人間の都合で (ピースオレンジ)
2018-01-19 19:21:52

人は、
良い時は 「 神様のお陰 」 と感謝し、
悪い時は 「 神はいないのか 」 と叫び嘆く。

神は人間の都合で、
良い時も悪い時も心のなかに存在する。
それは、自由自在に現れ存在するものだと思う。

返信する
コメントありがとうございます。 (ままちゃん)
2018-01-20 01:25:13
きなこママ様、

逆に、宗教者でなくとも、礼儀をわきまえ、神や他人への感謝を忘れず、また人を助けることを当然のように、進んでなさる方も、いらっしゃいますね。そういう方を知っていることすら、ありがたいことだなあと思います。亀井勝一郎はカソリック、ギリシャ正教、メソジストの教会が立ち並ぶ函館の元町で生まれ育ち、自身を「宗教のコスモポリタン」と称したように、キリスト教の教えも少し習っています。けれど、改宗には至らず、その後主にマルキシズムなどへも関わりますが、結局仏教に帰依していて、その生涯は興味深いです。彼の森鴎外への意見は、実は高校の国語の教科書に載っていたのです。まだ若い学び舎にいた私に、まるでこれからの人生の指針を与えてくれたかように感じさせたのでした。
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コメントありがとうございます。 (ままちゃん)
2018-01-20 01:51:11
ピースオレンジ様、

”神は人間の都合で、
良い時も悪い時も心のなかに存在する。”

言い得て妙ですね。存在するのは、どこかに宗教的な体験を持っている、ということでしょうか。信心がどこかにかすかでもあるから、人生の節目に神社仏閣を訪ね、お参りするのでしょう。習慣だからと理屈づけても、元来人間は、”上に立つ者”があるのだ、と無意識に感じているのかもしれません。
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