19歳の夏、父と私は、アメリカ東部州に住んでいた上から2番目の姉家族を訪問した。乾いた西部州からレッドアイと呼ばれる夜間フライトでほぼ6時間の距離を飛んだ。しかも途中テキサス州ダラスに寄港するというもので、寝ぼけ眼で窓外の煌々と照らされた空港をぼんやり眺めていると、隣に座っていた父親が、「まだまだだから、なるたけ眠っていた方が良いよ。」と囁いた。
次に目を開けると、目的地の空港で、眩しい朝日の中、降機するや否やロビーで姉が手を振っていた。わたしが13歳だった春、姉は結婚して渡米したのだから、6年は会っていなかったわけだ。姉は得意のイタリア料理で父と私の滞在中もてなしてくれ、また古い街並みを案内してくれた。
姉の街は独立戦争で戦場となったところに近く、かなり古く、築200年は超えているだろう民家が多くあり、そうした歴史ある家々のフロントには1780年だの1800年だのと書かれた小さなプラクが付けられていている。アメリカの誇る詩人ウォルト・ウィットマンがかつて短期間住んだ家もあり、由緒のある風景だが、同時に、姉はポルターガイスト活動の頻繁な家だの、「出る」と言われている家だのもついでに教えてくれた。「息子のクラスメイトの何人かは、そんないわれのある家に住んでいて、しょっちゅう話しているのよ。」と姉は言っていた。
私たち父娘は、そこにただ1週間滞在しただけだが、街のはずれにある姉の家は林と畑地に隣り合い、翌朝早くに目覚めた私は、二階の寝室の窓を開け放した時、広大なトマト畑と果樹園をうっすらと朝霧が覆っているのを目にして、思わず大きな深呼吸をし、それだけで幸せな気持ちになったものだ。
かつての日本のように、夏はこの地方では午後、さっと激しい夕立があり、すさまじく轟く雷音は、カミナリ、というよりも、いかづち、と言う方がふさわしい。 しかし雨はすぐ止み、その後に湿った大地に吹く涼風は、ここちよかった。そんなある日、早めの夕食後、姉は、庭にローンチェアを並べ、「今夕は、外のほうが気持ちいいから、皆ここでお話しでもしましょうよ。」と、作ったばかりのレモネードのグラスを運びながら、家族や私たちを誘った。
話ははずみ、夕闇に包まれんとする頃、何かちいさな光る物が浮遊しているのを私は目の端にとらえた。首を回してその光の行方を探ると、二つも三つもそして何十もの小さな光が庭中溢れてきていた。蛍。日本では一度も見たことはなく、その時19歳の生涯で生まれて初めて蛍を見たのだった。
すると姉は、私の白いワンピースの胸ポケットを指差し、「あ、光っているわよ。」と言った。いそいでポケットを見ると、なるほど蛍がひとつ忍び込んでいる。ポケットの空き口をそっと指で広げると、その蛍はふよふよと飛び出していった。その小さな光を目で追うと、いつのまにか大勢の仲間に紛れてしまった。その数週間後に二十歳になる私を、生まれて初めて出会った蛍のひとつが、訪問してくれたのだと思えて、嬉しかったし、光栄にさえ思えた。私は何十年も経った今でも、そのことははっきりと覚えている。
その夜二階の寝室の明かりを消して、窓外に目をやると、多くの蛍は未だ闇の庭で飛び交っていた。それを飽くことなく眺めていると、私たち一人ひとりも、実は自分の中に「光」を持っているのではないかという想いが湧いてきた。その光は、しばしば灯っても、不安定がちで、輝くほど明るいわけでもないけれど、私たちがその光を放つたびに、私たちは少しずつ、だんだんもっと明るくなるのではないだろうか。そして、その光を分かち合うたびに、私たちは他の人の光も目覚めさせ、同じように輝かせられるのではないだろうか。
この世界でお互いの愛を分かち合うために最善を尽くせたら。たとえそれがちらつきにすぎないと思っても、持っているだろう光を輝かせるために一人一人が、最善を尽くせたとしたら。。。そうしたら、あなたはあなたが思っているよりもずっと明るいのではないだろうか。そして、あなたや私がより多くの光を放ち、より多くの愛を分かち合えば分かち合うほど、神はより多くの光と愛をあなたや私に与えて分かち合ってくださるのではないだろうか。そしてそれは終わりのない光であり、愛であろう。その時の思いは未だ変わってはいない。
この世界でお互いの愛を分かち合うために最善を尽くせたら。たとえそれがちらつきにすぎないと思っても、持っているだろう光を輝かせるために一人一人が、最善を尽くせたとしたら。。。そうしたら、あなたはあなたが思っているよりもずっと明るいのではないだろうか。そして、あなたや私がより多くの光を放ち、より多くの愛を分かち合えば分かち合うほど、神はより多くの光と愛をあなたや私に与えて分かち合ってくださるのではないだろうか。そしてそれは終わりのない光であり、愛であろう。その時の思いは未だ変わってはいない。
素晴らしい夏を一緒に過ごした東部の姉もその夫も、姉夫婦の長女も、父も、今は亡く、あの時そう思った19歳の私は、化石化に急いでいても、未だにその思いを抱き続けている。