ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

朝のキャンパス

2019-06-20 | アメリカ事情

 

 JOHN WALKER JWALKER

この雪量の半分ほどになったが、いまだ雪をかぶっているシエラネヴァダ山脈

 

 

 

 

 

大学は五月の卒業式の翌週から夏学期が始まり、スタッフは夏時間体制に入った。つまり朝7:00から午後3:30勤務で、ランチタイムは30分。ここは午後はとにかく灼熱の砂漠天候だから、朝は早くから就業するのである。今朝は他のオフィスのある建物へ行く途中のキャンパス風景を写してみた。

 

 

パカベルを演奏しているヴァイオリンの音が流れているので音楽学部校舎の方へ眼をやると、ひとり学生が外で練習している。朝方特有の涼しい空気の中でその音は澄んで流れている。この音楽学部の教室では、娘が高校を出るまでドイツ人教授からチェロのレッスンを受けていた。娘が高校を卒業してからしばらくして、その教授は同じ市内にあるメノナイト(キリスト教アナバプテストの教派、メノー派)の大学へ移ってしまった。彼の持つストラデバリウス・チェロの艶やかな音色がふいに脳裏に浮かんでくる。ドイツ人にしては陽気で気難しさがなく、よい教授だったなあ。この教授は娘に様々な演奏の機会を与えたり、各種の名誉オーケストラへ推薦してくださったが、「仕事として弾くチェロはつまらない。趣味としてだから楽しめるのだ」という持論の娘は、大概「どうぞ他のお弟子さんにその機会を回してください」で終わった。何度も他のチェリストたちに挑戦されながらも、一度も主席チェリストの椅子を譲ったことはなかったのは不思議なことである。

 

 

 

 

 

 

 

このセントラル・カリフォルニアには、アルメニア系アメリカ人が多い。故国アルメニアで、当時のオスマン帝国(後にトルコ)によって19世紀後期から20世紀初頭にかけてアナトリア東部から強制移住させられたり、虐殺されたりした。これはアルメニア人ジェノサイドと呼ばれ、世界中から非難されているが、トルコは決してこれを認めていない。そのアルメニア人ジェノサイドを忘れないためにここのアルメニア・アメリカ人たちは、キャンパスに慰霊碑を作ったのだ。アルメニア学も専攻課程としてある。この慰霊碑には、毎年4月24日のジェノサイド追悼記念日にアルメニア・アメリカ人はここに集り、かのカダーシアン家も実際にアルメニアで追悼式に参加し、国際的なトルコに対する批難するキャンペーンを繰り広げている。


下の記念碑入口にある文字はアルメニア文字で、ギリシャ文字からヒントを得ているともいわれる興味深い字体である。アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国でもあり、それはアルメニア正教と呼ばれ、この街にもその聖堂がある。この街出身の高名なアルメニア人と言ったら、おそらく「わが名はアラム」でおなじみの作家・劇作家のウィリアム・サローヤンだろう。彼は1981年にたった47歳で逝去したが、ピューリッツア賞を取っても、気取ることなく、自転車で街中を駆け抜けていたということだ。

 

 

 

 

 

 

 

暑くなる前にオフィスに戻った私を出迎えてくれたのは、窓外のこのキジトラさん。キャンパスの有志が避妊手術から食餌から安全に夜を過ごせる所も確保している何匹かの「野良」猫の一匹。こうしてアボカドの木陰になる場所で、トンビやタカに見つからないのをちゃんと知っている。こちらからはしっかりその姿を見られるが、あちらからは窓ガラスに貼られたフィルムのせいで、見えない。ゆっくり休んで行ってね。

 

 

 

 

 

 

 

 


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