歴史の足跡

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歴史は語る27孝謙天皇と仲麻呂政権時

2014-10-04 17:25:18 | 例会・催事のお知らせ
二十七、孝謙天皇と仲麻呂政権時代(恵美押(えみおし)勝(かつ))

聖武の容態は実母の太后の宮子の死去から徐々に悪くなり、病床の聖武は光明・孝謙を伴って難波行幸した後、河内の六カ寺を廻って天平(てんぴょう)勝(しょう)宝(ほう)八年(756)五十六歳で死去した。
天平感(てんぴょうかん)宝(ほう)元年(749)聖武天皇の皇女阿倍内親王は平城京は大極殿において即位した。
孝謙天皇の誕生である。
聖武の死去後に即日に人事が行われ、参議に藤原仲麻呂が大納言に昇格し橘諸兄の子橘奈良麻呂なども参議に入った。
その後、橘諸兄が引退し天皇の身の回り雑事、世話をするする内豎(ないじゅ)の淡海三船(大友皇子の曾孫、三十五歳)誹謗(ひぼう)の罪で拘禁され、暗い影が見え始めた矢先に今度は聖武天皇の死の間際に仲麻呂に言い残した後継者に道祖王への指名に、未来を予測してか、聖武の遺言に背いたならば天地地祇の災い身に降りかかると予言をした。
天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱が勃発し、孝謙天皇と仲麻呂政権の蜜月期に橘奈良麻呂は多治比、大伴、佐伯の各氏らは計らい、塩焼(しおやき)王(おう)、安宿王、道(ふなど)祖王(おう)の中から皇嗣を出そうと計画を立てたが左大臣の父橘諸兄の死、大炊王の立太子を機に実行に移そうとするが山背王(長屋王の子)、巨勢堺麻呂などの密告によって未然に捕獲された、この乱で反藤原勢は一掃された。
橘奈良麻呂の血脈は父橘諸兄、光明と父は異父兄妹、母は藤原不比等の娘、敵対する仲麻呂は従兄に当たり、複雑な人間関係であった。
この橘(たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)の乱で謀反の疑いの奈良麻呂の処遇は明記されていないが、おそらく獄死をしたのだろうと思われている。
奈良麻呂の乱から一段と発言力が高まった藤原仲麻呂の強権体制は大炊(おおだき)王(おう)の天皇擁立である。
孝謙天皇は皇太子の大炊王に譲位し、淳仁天皇が誕生した。淳仁天皇に時代に入って大きく変わったことは、役所名を変えたことで、これは強権仲麻呂の示唆によるもので仲麻呂は中国の国家体制に関心を寄せていたのでそれを実行に移した。また自ら名前を藤原仲麻呂から藤原恵美朝臣と改めた。
政権の支配者は実質的には孝謙天皇と恵美義勝で何事も淳仁天皇は孝謙の太皇太后にお伺いを立てねば物事が進まない傀儡政権(かいらいせいけん)であったようである。
事態が大きく変わったのが恵美押勝の叔母光明が亡くなって大きな後ろ盾を失ったと言うことである。
逆に孝謙はかねがね大炊に即は快くは思っておらず半ば恵美押勝に押されに譲位した形が、母の光明と言う箍(たが)が外れた状況は皇権の逆襲に出た。
この頃、天皇の王権の象徴として「鈴印」が有った。天皇の命令を伝える「鈴令」と天皇が認めた時に押す「印」が必要、「鈴印」争奪戦が始まった。
先に仕掛けたのは孝(こう)謙(けん)太上(だじょう)天皇(てんのう)の方だった。少納言の山村王を派遣して淳仁天皇の許に有った鈴印の奪取を試みた。鈴印奪取に気付いた押勝は淳仁に近侍していた子の訓儒(くす)麻呂(まろ)に鈴印を奪い返した。
訓儒麻呂は一旦、山村王から奪い返すことに成功したが、授(じゅ)刀(とう)少尉(しょうい)坂上(さかうえ)苅田(かりた)麻呂(まろ)と授刀将曹(じゅとうしょうそう)牡(お)鹿嶋(おじかしま)足(たり)(じゅとうしょうそうおじかしまたり)を急行させた。
ここからまるで喜劇映画を見るような活劇が始まる。場所は法華寺と中宮院と結ぶ線上の平城京内、内裏から県犬養門に至る宮内近辺と思われる。
この戦いで訓儒麻呂は弓で射殺された。鈴印は再び山村王に手に移った。押勝は鎮国衛将監(ちんくにえしょうげん)矢田部(やたべ)老(おゆ)に山村王を追わせ再度鈴印を山村王の手から取り返そうとするが、矢田部老は授刀舎人紀船守に刺殺されて、山村王から鈴印は孝謙の手に戻された。
鈴印が孝謙の手許に戻ったことからこう言った行為は謀反の行為に当たると見なされた。
孝謙は直ちに押勝の大師(以前は大臣だったが押勝が官僚の名前を変えた)を解任、位階を解き、資産の全てを没収した。
一方押勝はその夜の内に、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。
近江国は琵琶湖を擁した要所で、代々藤原氏の政治基盤の国司を務めた所で藤原氏の領地が点在し、東海道を行けば伊勢国、東山道を行けば壬申の乱の美濃国は押勝の子が守を命じられた所で少しでも追手を逃れれば勝ち目はない事は無い分けでもなかった。
そこで最大の難関、瀬田川を渡らなければならない。孝謙方は瀬田川の勢多橋を焼き落とした。
止む無く押勝は琵琶湖の西岸を北上した。
孝謙側は押勝に阻害されていた吉備真備が孝謙方の参謀となって東山道からと琵琶湖北上軍との挟み撃ちにあって、吉備真備の術中に嵌ってしまった。
押勝の子も殺され、最早勝ち目はなく湖上に逃れ船に乗って鬼江に浮かぶ所で捕獲され処刑された。押勝の死は平城京を離れ二日後のことだったと言う。
この勝利の知らせが孝謙に知らされ即日、押勝に左遷されたりしたものの復権がなされ、押勝の兄藤原豊成が右大臣として復帰した。
孝謙は早晩に淳仁の決着をつけるために、数百の兵を出して中宮院を包囲し淳仁天皇を廃し、大炊王として馬で淡路島に向かわされて幽閉された。
押勝によって変えられた官名や仕組みを元に戻されたと言う。

★孝謙天皇(718~770)在位九年間、重祚で称徳天皇在位六年間、女性天皇で聖武天皇の皇女。母光明皇后。女性として初の立太子。実際の政治は光明皇后と恵美押勝の負う所が多く、母の影響で仏教の帰依深く、752年に父聖武天皇の東大寺大仏の開眼供養を行ない、754年には大仏殿の前で戒壇院を設け来朝した鑑真に父母と共に菩薩戒を受けた。
756年に父聖武天皇が没すると、仲麻呂の意向を受けて大炊王を即位させ淳仁天皇として即位させた。その後病気になって道鏡に病を治療され、道鏡を重用し仲麻呂らと不仲になって、再び天皇に重祚をした。
★藤原(ふじわら)仲麻呂(なかまろ)(706~764)奈良時代の官人、藤原武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉。叔母光明皇后の信任を得て、政権を把握した。756年聖武天皇は道(どう)祖(そ)王(おう)を立太子として遺詔を残して死去するが、道祖王を偽って廃し、自分が後見人になって大炊王を擁立した。
その後橘奈良麻呂の乱を鎮圧、仲麻呂傀儡政権の淳仁天皇と孝謙太上天皇と対立し、ついに仲麻呂、淳仁天皇は敗北し、逃亡の末近江の琵琶湖上で斬殺された。
★淳仁天皇(733~765)奈良後期の天皇。在位六年間。父は舎人親王、母は当麻山背。池田王・船王の兄。仲麻呂との関係深く、仲麻呂の顕彰(けんしょう)し、恵美義勝の名を与える。
孝謙大上天皇と不仲になり藤原仲麻呂の乱の後、廃帝された。

※藤原四兄弟が亡くなっても、その子らが平城京に影響を及ぼすものである。藤原宇合の子の広嗣は反乱を引き起こし、仲麻呂は専制政治で淳仁天皇の傀儡政権で孝謙太上天皇と紛争を起こし、遂に仲麻呂の乱の末斬殺された。
強権恵美押勝も光明皇后と言う叔母の後ろ盾を失って、失墜し逃亡の身に、其の追手に冷遇された吉備真備は俊敏な仕返しに仲麻呂も成す術がなかった。
橘奈良麻呂の乱で反仲麻呂の一掃も何の意味もなさなかった。辣腕を振るった仲麻呂も遂に琵琶湖の湖上の露と消えた。
天智系から天武系に時代が移っても皇位後継に問題がつきものであった。
この仲麻呂の乱は鈴印の争奪戦は活劇を見るような展開である。