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『歴史研究』5月号案内

2014-04-26 18:19:59 | 例会・催事のお知らせ
『歴史研究』第621号・2014年5月号・特集江戸幕府三代改革・竹村紘一氏・特別研究・鰻学事始・後閑正尚氏・本会の会費について☆会費一カ月700円・一年分まとめて収めてください。☆会費は全国誌『歴史研究』の購読料となります。
歴史研究会事務局〒141-0031.東京都品川区西五反田2-14-10
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『院政の政争”信西”一石」川村一彦

2014-04-22 19:52:21 | 例会・催事のお知らせ
「院政の政僧“信西(しんぜい)“の一石」
平安時代は大きく分けて摂関時代と院政時代に分けられる。
摂関(せっかん)時代は藤原良房・基経から忠平・実頼・伊伊・頼忠・兼家・道長・頼通と摂関家によって引き継がれていった。
一方、院政は後三条天皇に端を発し、白河・堀河・鳥羽・崇(すとく)徳・後白河・二条・高倉らの上皇・法王らによって引き継がれていった。
こう言った引き継がれた王権と権力継承には血縁と、複雑な人間関係と主従関係の絡みの中で権力構造が形成され、事変に展開されて行った。
また登場する一人一人の人物像に、柵に生きた数奇な運命の物語に、平安時代と言う時代の趨勢(すうせい)に生きた人間像が浮かび上がってくる。
そんな院政末期の後白河院政に総師として権力に中枢にあって辣腕(らつわん)を振るった政僧「信西(しんぜい)」の特異な生き方を綴ってみた。
総師信西
保元元年(1156)保元の乱に勝利した後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。王土思想を強調した宣言の新制は荘園(しょうえん)整理令(せいりれい)を主たる内容としていた。
要は鳥羽院政では荘園の乱発に加え管理が不十分で各地で国務遂行に支障が生じ紛争が多発していた。
この荘園整理令はその混乱を収拾し、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたもので、荘園の公領制の成立の大きな契機となった。
平安期には荘園制度は何度も荘園整理令が出された。寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)が諸国に点在し、しかも税金逃れに貴族たちや開発領主たちは寺社に寄進し管理を任せた。寺社領地には免税処置があって、国衙、国司の税金を逃れる隠れ蓑になった。特に興福寺などは全国に寺領は点在し大和一国とまで言われた。
特に後白河天皇は南都の興福寺や北嶺(ほくれい)の延暦寺の肥大化し寺院に僧兵を持って傲訴(ごうそ)で朝廷に狼藉(ろうぜき)の限りを尽し翻弄(ほんろう)をさせた寺領に快くは思っていなかった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺の僧兵はそれぞれ三千人を有し豊かな財源で支えられていた。
その豊富な財源を絶つにも信西は思い切った荘園整理令を出し公領を増やさなければならなかった。
後白河天皇の思いのまま成らないもの一つに僧兵と嘆き検非違使を手もとから手放せなかったと言う。
また開発領主や貴族の朝廷より受けた恩賞などは転売されたり、寄進を装って国衙に税収されない事態に、荘園公領制に立案・推進したのが後白河天皇の側近の信西でった。
信西は改革実現に、記録書を設置ために長官に上卿には大納言・三条公教を就任させ、実務を担当する弁官からは右中弁に藤原惟方(これかた)・左少弁に藤原俊(とし)憲(のり)(信西の嫡子)が起用された。
その下で二十一人の寄人らが荘園領主から提出された書面を審査し本所間の領主間の紛争や度重なる転売で、その所有者の判定をしたり、荘園主と荘官(しょうかん)、国衙領(こくがりょう)への公領への査定を厳しく行った。
信西の言葉に後白河が「暗主」であると言う、記録所の寄人の一人だった清原頼業が後日九条兼実に語ったと言う。
信西は後白河の威光の許に強権を発動してた節があった。そして老朽化した内裏にも着手して保元二年(1157)に再建したり、新制三十箇条を出して、公事・行事の整理・官人の綱紀粛正に積極的に取り組んだ。
この間の信西の一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする信西の子俊憲・貞憲は弁官として「紀二位」(後白河の乳母)に成憲・修憲は受領になった。
信西自身は保元の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の所領を没収し自らも蓄財を確保した。
では何故このような信西が強権を後白河から信頼と負託されたかについては、出自と後白河天皇の関係を考察すると理解が出来る
信西に出自
信西は嘉承元年(1106)平安末期の貴族・学者・僧侶で信西は出家後の法名、号は円空で俗名藤原通(ふじわら)憲(みちのり)又は高階通(たかしな)憲(みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言が彼の出自である。
通兼(信西)の家系は曽祖父は藤原実範以来、学者一家(儒官)の家系で祖父の藤原季綱は大学頭であったが、父が蔵人所で急死し通憲は七歳で縁戚の高階家に養子に入った。高階家は摂関家の家司として諸国の受領を歴任した。
通憲は祖父譲りの学業の才能を積み重ね、保安二年(1121)には高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇の第一の籠臣である藤原家成と親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があった。
通憲の官位の初見は天治元年(1124)の中宮少進(中宮藤原璋子は鳥羽天皇の皇后、白河天皇の母)に仕え鳥羽院の近臣として通憲は頭角を現し、後白河天皇と通憲の信頼関係がこの頃より築かれていった。
長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の北面の伺候(しこう)(そばについて奉仕する)するようになって評判は当世無双の博識と見識と称されその才知を生かして院殿上人・院判官代と地位を昇格させていった。
通憲の願いは曽祖父・祖父の様な大学頭・文章博士・式部大輔を志したが、世襲化の当時は高階家に入ったことがその道を閉ざしてしまった。
これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。その通憲の出家の噂を知って止めさせようと書状を送り、数日後には対面し、その才能を惜しみ「ただ敢えて命を忘れず」と涙流したと言う。
鳥羽上皇は出家を引き留めるために、康治二年(1143)正五位下を与え、翌年には藤原姓を許し少納言に任命をし、更に子に文章博士・大学頭に就任する資格を与えた。
それでも通憲の意志は固く出家し信西と名乗った。
しかし信西は俗界から身を離れることなく「にぎかふる衣の色は心をそめぬことをしぞ思ふ」心境を歌に詠んでいる。
鳥羽上皇の政治顧問が死去すると信西はそれに取って代わるように奪取し下命を受けるなどして信任を強固なものして行った。
そして後白河天皇の近臣者として采配を振るようになった信西は、国政改革の為に以前からの馴染みの平清盛を厚遇をする。
平氏一門は北面武士の最大の兵力を有していた。保元の乱後は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と四ヵ国の受領を占めていた。
またその役割は,荘園整理、荘官、百姓の取締、神人・悪僧(僧兵)の統制で戦乱で荒廃した京都の治安維持に平氏は不可欠であった。
だがここにもう一つの別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心とした二条親政派である。美福門院は鳥羽上皇から荘園の大半を引き継ぎ大荘園主となっていた。
美福門院は養子・守仁の即位を信西に要求し、止む得ず後白河天皇は二条天皇に即位しここに「後白河親政派」と「二条親政派」が生まれ新たな軋轢が生じて行った。二条親政派は藤原経宗・藤原惟方(これかた)が中心となって美福門院を背景に後白河の動きを抑圧した。
これに対して後白河即位は近衛天皇の急死によって継承した都合上、頼れるのは信西のみであった。
※美福門院は藤原得子の流れを汲む勢力、藤原得子は鳥羽上皇の譲位後の籠妃。近衛天皇の生母。女御。皇后。藤原北家未茂流の生まれ、父は中納言・藤原長実、母は左大臣源俊房の女、院号は美福門院。
信西と信頼の確執
しかし美福門院派の巻き返しに抗するためにも、また二条親政派に対抗するためにも信西だけでなく、ここに後鳥羽上皇は近臣の育成に抜擢起用したのが武蔵守藤原信頼であった。
信頼は保元二年(1157)に右近権中将、蔵人頭・参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と矢継ぎ早に昇進し、元々信頼一門は武蔵・陸奥を知行国として関係が深く、源義平が叔父義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦にも活躍し、保元三年(1158)後白河院庁が開設されると、信頼は軍馬を管理する馬別当に就任する。
源義明も宮中の軍馬を管理する左馬頭で両者の関係が深まり、信頼にとって武力の切り札を得たことなる。
また義明と信頼とは親戚として婚姻のやり取りで固く結ばれていたと言う。
反信西の結成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河親政派と平氏の武士集団と複雑に人間関係が絡んできた。
信西と信頼の確執の要因に、信頼が近衛大将を望んだがそれを断ったにあると言われ、反信西派の結成は強権総師の信西の反発の結成で、二条親政派も後白河院政派も一致していた。
そんな不穏な動きに最大の武力集団の平氏清盛は中立的立場を守っていたと言う。折も折、清盛が熊野詣に赴いていたその時を突いて、反信西派は決起した。
平治元年(1159)十一月九日に信頼とその一派の軍勢は院御所・三条殿を襲撃し後白河上皇と上西門院を拘束し、三条殿に火を放ち、逃げる者容赦なく殺害をした。警備の大江家中・平康史ら官人や女房が犠牲になった。
これを知った信西一門は身の危険を感じ逃亡していた。拘束した後白河上皇・上西門院には丁重に「すゑまいらせて」と信頼は一本御書所に擁したと言う。後白河上皇を乗せた御車には源重成・光基・季実らの護衛が付き、美福門院の家人らが関わって二条親政派の同意があってのことと推測され、信西の子ら俊憲・貞憲・成憲・修憲らは逮捕全員配流された。
一方信西は山城国田原に逃れたが源光保の追手を振り切れず、郎党藤原師光に命じて自らの遺体を地中に埋めさせること命令し自害をした。
信西の自害を知った源光保は遺体を地中から掘り起し首を切り落とし、京に持ち帰り首は大路に棟木につるされ獄門にさらされたと言う。
何故に執念を持って信西の遺体を掘り起こし首を切り落とし都大路の獄門にさらし首にしたかについて、保元の乱の処理・処遇に多くの公家・武将に反感を生んだことにある。
① 雅仁親王(後白河天皇)即位擁立には雅仁親王を養育していた信西の策動があった
② 後白河天皇擁立に立太子しないままに即位は無理がった。美福門院の反発は根強かった。
③ 鳥羽上皇の葬儀は信西が取り仕切った。
④ 薬子の変後公的死罪を復活させた。
⑤ 荘園整理令に反感を持つ荘園主がいた。
⑥ 信西は自分の子息に要職に就け、旧臣に反感を持たせた。

平治の乱とそのその後
清盛は、紀伊で京の異変を知って、動転し九州に逃れることも考えたが紀伊の武士・湯浅宗重・熊野別当の協力で帰京できた。
その後の京の軍事の均衡は乱れ、義明の軍勢は少数に過ぎず、信頼の威信は崩れ後白河院院政派にも二条親政派にも信西を排除した今は、信頼は無用の長物で御用済みはあからさまにであったが、清盛は信頼とは姻戚関係を結んでいたので、恭順の意を示した。
二条天皇も内裏を脱出し、清盛邸のある六波羅蜜に行幸した。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この状況を藤原成頼が京中に触れ回り、公卿・諸大夫や武士集団が続々集結し、信頼・義明に追討の宣下が下された。
信頼軍は源義明・重成・光基・季実・光保の源氏を中心とした兵力と清盛を中心とした平氏軍と六波羅合戦が始まり、信頼混成軍は敗北、藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王の前に出頭し、清盛の前に引き出され、信西殺害・三条殿焼打ちの罪で処刑された。
摂関時代は藤原家の身内同士の覇権を廻って幼少の天皇の後見人なるための女御を持って天下の政治を執った。
院政派は幼少の天皇に即位することに於いて後見人として、上皇、法王の身分で天下政治を執った。
院政末期には平氏・源氏の台頭で武士の起用なしでは政治の運営が出来なくなって、武士の発言力に武力に朝廷と藤原家の衰退が顕著になって平安時代は終末に向かって、武士の時代、武布へと移って行き、頼朝の天下創設の幕が開かれた。

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『壬申の乱』の血脈と人脈

2014-04-19 06:17:34 | 例会・催事のお知らせ
「壬申の乱」の血脈と人脈
古代史上最大の政変と言えば「壬申の乱」である。天智天皇の後継を廻り、天智帝の長子大友皇子と弟大海人皇子の皇位継承の争いであった。天智帝の後継者として大海人皇子が暗黙の了解として、「乙巳の変」から大化の改新から「白村江」の戦いを経て、近江遷都と天智帝を支え続けた弟大海人皇子の存在は臣下は元より皇族の次期天皇と周知されてきた。天智帝には皇子の継嗣に恵まれず大友皇子には母系に血筋に問題があって、大海人皇子には天智帝の娘の鸕野皇女(持統)、太田皇女の二人を血脈を絶やさぬように差し向けてあった。
「白村江」の戦いで敗北し、大和より遥か北に遷都し防備に備えた天智帝に心身共に衰え、老い先を考えた時に、思ってはならないこと、大友皇子への寵愛はつのるばかり、賢人の誉れも高く、唐使の劉徳高は「この君子、風骨(風格と容姿)世間の人と似ず、実にこの国の分似非ず」と絶賛したと言う。老いの一徹、その決意は大きな禍根の種になる事も知る由もなかった。
臣下に思いを告げると驚きようはただ事ではなかった。何故なら「日本書記」にはこう記されている。「成人して雄々しく、武徳に優れた大海人皇子は、天智天皇の女、兎野皇女を迎えて正妃とされた。天智元年に、立って東宮(皇太子)となられた。」
天智十年(671)正月、大友皇子に左大臣、右大臣以外に太政大臣に任命された。余命少ない天智帝は矢継ぎ早に手を打たれた。
大海人皇子を呼び寄せ「後を託し東宮に皇位を譲りたい」と伝えられた。あくまで大海人皇子への本意への探り、後事の承諾と協力への心情の示唆が込められていた。
「私は病気を抱え身でとても天下の政治は執れません。王位は倭姫にお譲りください」と断り「私は今日にでも陛下の為に出家して仏道に励みます。」と許しを請い大海人皇子は吉野に向かった。
老いて気力も失せていた天智帝はこれを許してしまった。
人々は、その様を見て「虎に翼をつけ野に放つようなもの」と表したと言う。
これらの記述は天武系の編纂によるもので、決して公正なものとは言えない、強権天皇天智帝は十二月三日、四六歳の生涯を閉じた。
天智帝亡き後の大海人方の華々しい戦いぶりに比べ、近江方の戦いぶりの記述は、もろくも崩れるさまを空しく伝える。
天智帝の威光を失った近江方の大友皇子は若干二十五歳で重臣と言っても天智帝に重用された臣下で、旧来の豪族は大和に残しての近江宮遷都であった。
それでも勝算は無いわけではない。直ちに兵を起こせば歴史は変わったかもしれない。
大海人皇子こそ吉野に逃れたものの大海人皇子の家族は残されたまま、討たれるか討つか二者択一は明白、当然のことのように記された中に、奇跡や運の良さに加え、人脈と大海人皇子の老練な計算と戦略が盛り込まれて、「壬申の乱」を綴られている。
吉野から大海人一行は脱出に成功、同時に大和側の支援と同情を取り付けていただろう、美濃出身の家臣の舎人の伝手で兵士を招集し、近江、美濃国の要所を押さえた。
又行く先々で豪族が多数の兵士を率いて帰順し、美濃で三千人余りを集め、尾張の国司が二万人を率いて帰順した。近江への総攻撃は数万の兵を進めたが、近江方も数万の兵で迎え撃った。不破を廻る攻防は熾烈を極め、近江方は徐々に後退していった。
大友皇子の取り巻きの人脈、布陣は蘇我赤兄他六人の重臣、細い糸で結ばれた風船のようなもの、やがて風船は風に流され大和側に寝がえる始末、時勢は大和側に味方し各地で多数の兵士と豪族の帰順、不破関を押さえて近江方から高市皇子らが脱出し合流し、近江宮への攻めが万全となった。
大和での戦いで近江方に勝利し、近江宮に向かって進撃、瀬田川での決戦で決着、近江大津宮は陥落、炎に包まれた。

強権天智帝には継嗣に恵まれなかった。
それに対し天武帝には鸕野皇女を皇后に草壁皇子が生まれる。太田皇女を妃に大伯皇女、大津皇子が生まれる。大江皇女を妃に長皇子、弓削皇子が生まれる。新田部皇女を妃に舎人皇子が生まれる。臣下の娘に六人に、鎌足の娘に氷上娘を夫人に但馬皇女が生まれた。鎌足の娘の五百重を夫人に、新田部皇子が生まれ、蘇我赤兄娘大ヌイ娘に穂積皇子、紀皇女、田形皇女が生まれた。鏡王の娘の額田女王に、十市皇女が生まれ、胸形君徳善の尼子娘に、高市皇子が生まれ、穴人巨大麻呂の娘には忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女、天武帝には、十人の皇子と七人の皇女が生まれた。

何より天武系の正当性を伊勢神宮と結び付けている。「壬申の乱」の決起し。途中伊勢神宮に向かって、大海人皇子は遥拝し戦勝を祈願し、近江より大和に還る途中に、伊勢神宮に寄り奉幣し、勝利を報告した。この頃より伊勢神宮を皇祖を奉る所として、その存在が記述によって明らかになってくる。
「壬申の乱」には皇統と血統の正当性を誇示しながら、政変を穏便に治めた皇系の記述であった。


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『記紀』と『魏志倭人伝』の論点・川村一彦

2014-04-18 05:22:08 | 例会・催事のお知らせ
「記紀」と「魏志倭人伝」の論点                     

日本の最も古い古書、史書である「古事記」と「日本書記」は七世紀後半に天武天皇の命によって編纂され同時に作られほぼ同時に出来上がった。
「日本書記」は日本六国史として対外向けに編纂されたと言う。
国家事業四十年を費やし「帝記」「旧辞」から中国、朝鮮の史書を参考に作られたと言う。全三十巻系図一巻で川島皇子、忍壁皇子ら六人と官人六人で編纂され、のちに舎人親王によって完成させた。
当初日本の国の成り立ちについては、当初「日本書記」のほうが重きに置かれていたが、天皇家の私史として造られた「古事記」が江戸時代辺りから評価されてきた。
その編纂について諸説はあるが「帝記」「旧辞」が基本となって、稗田阿礼が誦習し、その口述を太安万侶が書き綴ったと言われている。
「日本書紀」と違って音読みを使った日本文で描かれ二九年間の誦習し四ヶ月の編纂で完成していると伝わる。上巻、中巻、下巻からなり和銅五年(西暦七一二年)献上されたと記されている。

「魏志倭人伝」は「三国志」の中の「魏書」の中に東夷伝の中に倭人、倭に付いて書いてあるものを「魏志倭人伝」呼称しているものである。
全文約二〇〇〇文字からなっていて、著者は西晋の陳寿、西暦280年から二九七年までの間、呉の滅亡から陳寿の没年までの間、書かれている。
*「魏志倭人伝」において倭国への呼び名は中華思想により、他国の国名、人名は篾字を表記する。

一、「魏志倭人伝」には朝鮮半島の帯方郡から倭国に向かっての、行程と国々三〇カ国と地形、国々の位置と戸数を記されている。
*倭国に至るには帯方郡(韓国)から水行、南へ東へ、七千余里で狗邪韓国、更に千余里で対馬国、山険しく四〇〇余里四方千余戸、そこから南に千余里渡り一大国三百余里四方で森林が多く三百家族、次ぎに海を一万余里渡り未廬国、四千余戸、海産物多く、皆潜る。それより東南五百里陸行で更に陸行、伊都国に着く、千余戸あり。世、王が居るが女王に属する。更に東南に百里進む、奴国に至る。二万余戸が有る。そこから百里行くと不弥国に至る。千家族が有り、そこより南へ水行二〇日で投馬国に付く五万戸余り、更に南へ水行一〇日と陸行一カ月で女王の都、邪馬台国に至る推計七万戸。
その他に斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国。
* 魏国の使者、随行員は何名くらいで、何日間くらい、滞在したか移動だけでも往復半年はかかり、推測として滞在を含めて1年間の倭国親善訪問隊だったか謎は残る。 
* この時代で大和王国に対抗できる国として「出雲国」「吉備国」の記述が「魏志倭人伝に」残っていない。
* 航海術は未発達時代、帆船、手漕ぎ合わせ季節、派遣人の規模は不明であるがそれによって行動範囲が推測される。

二 邪馬台国の所在論。
邪馬台国の所在地については、魏志倭人伝の行程通りに計算すると太平洋の海上になる。
計算方法や案内の作為的行程で「魏志倭人伝」の行程の距離を狂わせたとか諸説があるが、未だ示された行程では「邪馬台国」を特定できていない。
邪馬台国の所在地については古来より論議、推測や憶測を呼び未だに決定的な立証がされていない。
古くは新井白石も本居宣長も和辻哲郎や多くの学者が機内説、九州説に分かれ、侃侃諤々論争を繰り返したが未だその解決、解明を見ない。温厚な学者もこと両学説になると人格を失ってしまう度、日本人を熱く語る歴史課題である。 
畿内説
言葉発音説では新井白石が「古史通或問」などで「邪馬台国」を「大和」と言う発音語源から大和説を比定している。
機内説には琵琶湖畔から大阪府下などあるが、中でも最近の奈良は纏向遺跡を邪馬台国の都として、次の事項が理由により有力とされている。
年輪年代学で最盛期が弥生終末期~古墳時代で邪馬台国時代と合致する。
また纏向遺跡周辺からは各地より持ち込まれたと思われる搬入土器が出土され、瀬戸内海から吉備、北陸、東海までの交流のあとが窺え、政冶文化の中央の体を成していたのではないかと思われる。
吉備、西四国の勢力の技術によって初期の前方後円墳が大和を中心に分布していった。(卑弥呼の墓とされる箸墓古墳)
全国各地に土器が出土し、纏向から諸国に広まる中心的役割を果たした。
三角縁神獣鏡は機内を中心に分布、古墳より発掘された年輪年代で3世紀に築造され時代が合致。
「日本書記」神功紀では、魏志「後漢書」の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書において「晋書」帝紀では「邪馬台国」を「東倭」と表現して居る。
だが近年有力な北九州説が後退、「邪馬台国」の時期に遺物が多数出て有利だった九州に対して放射能炭素測定と年輪年代で纏向遺跡の「箸塚古墳」が年代的に「邪馬台国」時代と合致して形勢は逆転し、今尚究明されつつある。
九州説
邪馬台国への行程の位置は九州地方の方が機内より合致し易い。
「邪馬台国」と対立した狗奴国(球磨)の勢力を比定すれば、官「狗古知卑狗」が「菊池彦」と音訳と考えらえる。
「魏志倭人伝」の中で「邪馬台国」の埋葬方法が「有棺無槨」を甕棺が北九州地方に多く出土している事。
九州説の中で「倭の五王」の遣使も九州勢力が独自に行なった。機内王権の関与はないとするが、余り説得力が思われる。大和王朝の時代と五王時代の西暦四一三年から五〇二年の間が短すぎ説明が付かない。
東遷説
「記紀」に出てくる神武東征を史実として九州で成立した王朝(邪馬台国)が神話と通りに神武東征を高千穂、宇佐、岡田(筑紫国)速吸門、多祁理宮、高島宮、浪速から熊野を越えて大和に東遷した説で、戦前白鳥庫吉や和辻哲郎などが主張したが神話を史実として取り上げるに歴史学上忌避された。
しかし戦後東京大学を中心に支持、発展され多くの学者の賛同を見た。
* 当初自分自身も東遷説を、最も分かりやすく合理的判断と思っていたが、後々余りにも短絡的解釈と気付いた次第である。
九州小国説
あの「古事記」説いた本居宣長は日本こそ中心たる国、天皇が中国に朝貢などあるはずがないと、九州熊襲説を説いた。
大阪府下説
河内説として倭の五王の河内王朝を考えてきた場合、大阪府下も有力な候補ではないだろうか。
並立説として「邪馬台国」「大和王朝」が大和、九州の個々の国で「大和王朝」が九州の「邪馬台国」を征服したと全く考えられないことは無い。
その他に吉備国説、琵琶湖説など邪馬台国の候補地は広まっている。
* 機内説がもし定説化された場合、「記紀」に見る九州の天孫降臨はどうゆう意味を持つのか、邪馬台国以前に遡った神話なのか、「古事記」の出雲神話と出土された「荒神谷遺跡」との符合性はどう説明をするか、これからの古代研究と発掘に推移に注目をしなければならない。」
*「魏志倭人伝」の行程の矛盾点は北九州にも、機内にも到達できない。当てはまらない点が疑問点である。
* 邪馬台国が九州に国を築いたとすれば、大陸に攻められやすい立地条件になり、防備上を考えた場合、更に内海を経て内陸部に国を形成した方が、小国を平定し易いのではないかと思われる。

三、倭人の風俗、生活様式、制度などが詳しく記されている。
 
◎男子は顔、体に入墨をし、墨や朱や丹を塗っている。
 ◎古くより、中国に来た倭の使者は自ら大夫と称している。
 ◎男は冠を付けず、髪を結び髷をして、女はザンバラ髪。
 ◎着物は幅広の布に結び付けているだけ。
 ◎牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない。
 ◎兵器は矛、盾、木弓を要いる。
 ◎土地は温暖で、冬夏の生野菜が食べられる。
 ◎人が死ぬと10日余り哭泣き、「もがり」の間、肉を食しない、他人は飲酒歌舞し、埋葬が済むと、水に入って身体を禊をする。
 ◎倭の者が船で海を渡る時には持衰(じさい)(留守番)が選ばれ、持衰は人と接せず、虱を取らず、服は汚れ、肉を食べずに帰りを待つ、無事船が帰ってくれば褒美が貰え、船が災難にあえば殺される。
 ◎特別な事を行なう時、骨を焼き、割れ目で吉兆を占う。
 ◎長寿で百歳や九十歳、八十歳の者が居る。
 ◎女は皆、慎み深く嫉妬もしない。
 ◎法を犯す者は、軽い者は妻子を没収、重いものは一族根絶やしにする。
 ◎盗みは少なく、訴訟も少ない。
 ◎種族には尊卑の序列があり、上の者の指示に従う。
* 魏国の使者、随行員は季節的には何時頃、倭国に訪れたものか、季節によって服装、食物、儀式を見て知ることが変わるので、邪馬台国への経路に各国の特色が記載されていれば、当時の様子が窺われて良かったのにと思われる。
* 人の死は穢れがあって、禊によって邪気を振り祓う、古事記にイザナミが死に黄泉の世界にイザナギ呼び戻しに失敗、穢れを払う為に水浴をする所は魏志倭人伝との接点がる。
* 古代の人が入墨をしていると記されているかに、古代にその風習があったかは疑問。
* 寿命が八十,九十歳、百歳は案内の倭人(日本人)の誇張かも知れない。

四「女王卑弥呼」
卑弥呼について「魏志倭人伝」女王卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で国民を惑わしたと言う。
元々男子を王として七〇~八〇年倭国を治めたが長期間騒乱が起こったと記され、「卑弥呼」と言う少女を女王にすることで混乱は鎮まった。
「卑弥呼」は鬼道を祭祀として(占い師、祈祷師)人心を惑わし、高齢にも拘らず夫を持たず、宮廷や、楼観で暮らし、千人の侍女に囲まれ、多数の兵士に守られ、王位に就いてから他人に会う事も無く、弟が国の政治の補佐をし、一人の男子が取次ぎや飲食の世話をしていたという。
「卑弥呼」と魏国との交流は帯方郡を通して使者を送り皇帝から「新魏倭王」に任じられ、狗奴国との紛争にも支援を受けている。
西暦二四七年頃に「卑弥呼」が死去すると大きな墳墓が造られ、百人が殉葬され、その後男王を立てられたが、国民はこれに服さず内乱となって千人の死者が出たと言う。「卑弥呼」の親族で十三歳の壱與を王にたてられて国は治まったと言う。
壱與も魏国に使者を送っているが、この壱與の朝貢を最後に倭の五王の讃の朝貢の西暦四一三年まで一五〇年近い中国の史書に記載されない空白が日本の古代の大きな謎を産む結果となる。

五「卑弥呼の人物比定」
神功皇后説
「魏志倭人伝」は江戸時代まで「記紀」の説が正統性であると信じられ、一般的に「卑弥呼」がヤマト王権の神功皇后と考えられていた。記紀に拠れば九州で応神天皇を出産し朝鮮半島への大規模な軍事行動が「魏志倭人伝」に何の記述もされておらず、今では説を支持する人は少ない。
(神功皇后が朝鮮半島に深く関与した伝説に、倭の五王も百済、新羅、任那など支配下に置いていたと中国の史書に記述があって、時代のずれは有るが、何らかの関係がないか)
熊襲女酋説
本居宣長らが提唱したもので、大和王権が魏国に朝貢したことに対し、日本の古来独立を保持し従属せず、九州の熊襲が倭国を偽って魏国と交流をしたと言う説である。
甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は「筑後風土記逸文」に記されているもので、筑紫君の祖「甕依姫」(ひかよりひめ)「卑弥呼」(ひみか)の事を指し可能性を主張した説。
宇那比姫説
「海部氏勘注系図」「先代旧事本紀」尾張氏系譜に記されているものを元に、彦火明六世孫、宇那比姫を卑弥呼とする説。別名「大倭姫」ヤマト王権の女王と思われる名を持つ天造日女命、大海靈姫命、日女命とも呼ばれ、卑弥呼と音訳する。卑弥呼の後に就いた台與は天豊姫とされている。
天照大神説
中国の史書に残るほどの人物であれば、日本にも特別な人物として、天照大神しか居ないとする説、白鳥庫吉、和辻哲郎らに始る。アマテラスは別名「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、「日の女」となり、太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)に符合すると言う。
卑弥呼が没した時に近辺に二四七年に二回北九州で日食が起きた可能性があり、「記紀」の神話に天の岩戸アマテラスが隠れた伝説と符合する。或学者は卑弥呼が生きていた時代の平均在位年数から推定すると時代が重なると言う。
また天照の弟のスサノオとの対立は「邪馬台国」と「狗奴国」の敵対と符合する。
倭迹迹日百襲媛命説
孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)「日本書記」の「倭迹迹日百襲媛命」または「倭迹迹姫命」「古事記」で「夜麻登母母曾毘賣命」で近年最も卑弥呼に有力な説になっている。
「日本書記」の倭迹迹日百襲媛命の墓として造営された箸塚古墳は邪馬台国の都に有力な候補地である「纏向遺跡」の中にあって、同時代にあって他の古墳に比較して規模が隔絶していて、全国に類似した古墳が存在し、出土遺物して埴輪の祖形となった吉備系の土器が見られ、当古墳より築造により古墳時代の始まり開始された向きが窺われる。
「記紀」には倭迹迹日百襲媛命について三輪山の神との神婚説など神秘的な伝説が多い。

六 「邪馬台国」と「ヤマト王国」との関連性

「邪馬台国」が「記紀」の何時の時代に該当するかについて、纏向遺跡が邪馬台国と推定し、の卑弥呼の墓と推定され、放射能炭素測定を鑑み、年輪の検証から最有力候補の「箸墓古墳」を仮定した場合、箸塚古墳の祭祀が「倭迹迹日百襲媛」が「卑弥呼」と考えた場合、孝霊天皇の皇女とされる「記紀」を考えた時に、欠史八代の謎に包まれた不明瞭の時代が「邪馬台国」の混乱期と比定し時代設定を「欠史八代」と符合させた方が初期ヤマト国から、河内王朝へとの繋がりがあるのではないだろうか。
代目  天皇名  皇宮地場所     享年   陵墓地 
第二代緩康天皇 高岡宮 (御所市)  四五歳 (橿原市)
第三代安寧天皇 乳孔宮 (大和高田市)四九歳 (橿原市) 
第4代懿徳天皇 曲峡宮 (橿原市)  四五歳 (橿原市)
第五代孝昭天皇 池心宮 (御所市)  九三歳 (御所市) 
第六代考安天皇 津嶋宮 (御所市)  一二三歳(御所市) 
第七代孝靈天皇 廬戸宮 (田原本町) 一〇六歳(王子町)
第八代孝元天皇 境原宮 (橿原市)  五七歳 (橿原市)
第九代開化天皇 率川宮 (奈良市)  六三歳 (奈良市)
欠史八代の王朝は主として葛城を拠点として皇宮と陵墓が点在し、古墳の初期時代を考えれば合致しないと言われる。
謎に包まれた欠史八代にこそ邪馬台国の秘められた成り立ちがあるのではないだろうかと推定される。
王権を巡る激しい権力争いは、ヤマト王朝に続く系統内の主権を争う紛争であったか、機内の氏族の蜂起による主権の移動からか、または従属国の反乱による王権の入れ替わりか、事態は一応の収束見たかもしれない。
やがて王権は纏向遺跡周辺へと移って行く、それが邪馬台国の成立と推測する。
邪馬台国の後継者とされる、壱與が引継ぎ、詳細は不明であるが推測であるが、初期ヤマト王権に受け継がれていったのではないだろうか、その唯一実在性に近い第十代崇神天皇から初期ヤマト王朝の始まりと考えても不思議はない。
 祟神天皇から垂仁天皇へと、後継が兄弟争いや、九州の熊襲の反乱、景行店のの皇子ヤマトタケルの平定の為の東征、西征の遠征は神話の物語としても初期やヤマト王朝の確立への基礎固めであっただろうと思われる。
“ 古代ロマンの探求の思いは果てしなく、限りなく史実に向かって想像と共に広まって行くのである。”








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『招魂社から靖国神社・護国神社への考察』川村一彦

2014-04-17 05:42:27 | 小論文
招魂社から靖国神社・護国神社への考察       川村一彦

童謡に蹴鞠、お手玉など共に数え歌が伝わって、時代やその地域を象徴する伝承文化となって残っている中で「一番初めは一ノ宮」と言う数え歌がある。
一番初めは、一ノ宮
二は、日光東照宮
三は、讃岐の金比羅さん
四は、信州の善光寺
五は、出雲の大社(おおやしろ)
六つ、村には鎮守様
七つ、成田の不動様
八つ、やはたの八幡宮
九つ、高野の弘法さん
十は、東京招魂社
これだけ真願かけたなら、浪子の病も治るだろ、ごうごうと鳴る汽車は、
武男と浪子の別列車、二度と逢えない汽車の窓、鳴いて血を吐くほととぎす。

ここに出てくる数え歌の十に出てくる「招魂社」は何かと訪ねて直ぐに答えられる人は少ない。実際は数え歌に出てくる、十は、東京招魂社は「靖国神社」「護国神社」の前身の名称である。
明治に入って戌辰戦争後の大総督有栖川宮熾仁親王が戦没の官軍の将校の招魂祭を江戸城に斎行に始るという。
その後、戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、お国の為に殉死した、「忠霊」「忠魂」を祀るために「招魂社」が創建された。

靖国神社 
東京招魂社は軍が管轄するものとされた、一般の神社と異なるために問題が生じ正規な神社とするために軍当局は明治天皇の裁可を経て、社名を明治十二年に「靖国神社」と改め直され、別格官幣大社に列せられるようになった。
祭神は幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まりペルー来航以降の日本の国内外の事変、戦争等、国事に殉じた軍事、軍属の戦没者を「英霊」として祀る。 
戦後は政教分離の推進により国家管理を離れ、宗教法人になり、公職に就く者の参拝については問題になった。
一時はGHQは靖国神社を焼き払い、ドックレース場計画が持ち上がったが、賛否両論で混乱し「靖国神社を焼却する事は、連合軍の占領政策と相容れない犯罪行為ある」と言って残されて、日本国のために殉死した英霊を祀る神社として平成16年度現在246万6532柱が祀られている。
戦後日本では国家の為に殉死した英霊の合祀の是非をめぐり神社本庁との包括関係にない、また管理の処遇を巡り政治色の強い神社となって、未解決の問題が多く残っている。

では明治時代に各地に祀られた招魂社はどうなったのか、概ね各府県に一社が設立された招魂社は昭和十四年に内務省令によって改称し「護国神社」と改められた。
各護国神社の祭神は靖国神社に一部重なるものの、靖国神社から分祀されたものではなく、府県に国の為に殉死した人の英霊を祀るための神社である。
終戦後、軍国主義の施設と見なされ、維持存続をするために社名をかえた。
独立後は元の社名に戻された。
府県に五十二社あって、昭和三十五年より天皇、皇后陛下から幣帛が終戦から数えて十年ごとに賜与されている。
社格は府社、県社と相当する内務大臣指定護国神社と村社に相当する指定外護国神社に分けられた。
指定護国神社には北海道に三社、兵庫県、広島県、島根県、岐阜県に二社の護国神社が祀られている。

北海道護国神社  指定、 北海道旭川市
北海道,樺太関係の戦没者を英霊として祀る。戌辰戦争から大東亜戦争までの63141柱の英霊が祀られている。明治35年大迫陸軍大将を祭主として招魂祭を執り行なったのが始まりと言う。昭和14年には招魂社から内務省護国神社となった。昭和19年に樺太護国神社が合祀された。戦後はGHQからの追及を逃れるため北海道神社と社名を変えたが独立後、北海道護国神社に戻された。
幌護国神社   指定、 北海度札幌市中央区
明治10年の西南の役に戦病没した屯田兵の霊を祀る。 有栖川熾仁親王により屯田兵招魂碑と題し、明治12年8月2日屯田兵司令部に於て祭祀を斎行する。日露戦争の戦病没者の合祀のため忠魂碑を建て、乃木将軍之を題す。昭和8年札幌招魂社を造営し官幣大社札幌神社に、昭和14年4月1日内務省指定の護国神社となる。
松前護国神社、      北海道松前郡松前町
 明治元年10月榎本武揚らの率いる旧幕府軍函館を戦いに、同2年5月平定に至る迄官軍に従って戦死した遺骸を神止山に埋葬し招魂場と称して祀ったことに始まる。昭和14年3月全國の招魂社を護國神社と改称せられた。松前郡下の英霊を奉斎している
桧山護国神社       北海道桧山郡江差町桧山護国神社 日本海をはるかに眺める小高い丘の上にあります。境内には1、407柱の殉死者の英霊をまつった戦没者墓所があります。
十勝護国神社       北海道帯広市
 日露戦争が終わって明治39年、矢後喜一郎之命を始め9柱の戦没者招魂祭を執行したのが十勝護國神社の起こりであった。大正2年4月、現在地に帯廣神社の旧仮殿を譲り受け、帯廣招魂社と称した。昭和11年には招魂社祭典協賛会を組織し、昭和21年に帯廣護國神社と改称、翌22年4月帯廣平和神社と改称し、7月15日を例祭日とした。昭和33年に現社殿を造営、同39年4月には帯広出身者のみでなく十勝管内の町村出身者も合祀の為、十勝護國神社と改称した。1208柱の殉死者を祀る。
 函館護国神社   指定  北海道函館市
函館護国神社は、日本国に殉じた戦没者の英霊を祀り、その始まりは、箱館戦争終結後に明治政府が政府側の戦没者をまつるために建てた「招魂場」です。
この「招魂場」時代以来、函館護国神社には箱館戦争・西南戦争・日清戦争・太平洋戦争までの戦没者が英霊としてまつられています。13000余柱の御霊だ祀られてる。
青森懸護国神社、 指定  青森県弘前市
戊辰戦争で死亡した津軽藩士67人を明治二年に慰霊したのが始り、昭和14年に内務省指定護国神社となった。敗戦後青森県を本籍とする軍人、軍属計2万9171柱を祀る。
岩手護国神社、  指定  岩手県盛岡市
日清戦争後の明治三十一年に組織され昭忠社が母体となって日露戦争の明治37年に現在の地に招魂社が建設され昭和14年に内務大臣指定の護国神社となった。戦死、殉死者五万6千人で靖国神社と同様に戊辰戦争より朝廷、天皇側に立った戦死者を祀っている。
宮城懸護国神社、 指定  宮城県仙台市青葉区
宮城県護国神社は青葉山の仙台城址にあって明治維新後、事変戦没者殉死者5万6千余りの英霊の御柱を祀る。日清戦争の昭忠社を母体として日露戦争後現在野地に招魂社を建立、昭和14年に内務大臣指定の宮城懸護国神社となった。
福島懸護国神社、 指定  福島県福島市
明治十二年、相馬、三春、若松の三箇所にあった招魂場に祀られていた戊辰戦争の従軍者とこれら祀られていなかった従軍国者及び西南戦争で戦死した管内の殉死者の御霊を合祀し招魂社を創設したことに始まる。昭和14年に内務大臣の指定護国神社となった。祭神は69512柱の英霊を祀っている。
秋田県護国神社、 指定  秋田県秋田市
明治2年秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者を祀ったのが始まりという。明治32年秋田出身の軍人軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和十四年に秋田懸護国神社となり、戦後は県に軍人、軍属の英霊を3800余柱を祀っている。
山形懸護国神社  指定  山形県山形市
明治維新から第二次世界大戦まで殉国者4万余柱の英霊を祀る。明治2年戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀ったのが始まり、その後山形県関係の殉職者を合祀したが社殿が焼失,大正3年に再建され、昭和9年に現在の地に遷座され、昭和十四年内務大臣の指定により山形懸護国神社と称した。
鶴岡護国神社       山形県鶴岡市
鶴岡護国神社の創建は明治二十八年で旧庄内藩主酒井忠胤が発起人となり、戊辰戦争、西南戦争の戦死者を祀ったのが始まりである。鶴ケ岡城本丸の西南の隅に鎮座し庄内神社と隣接してる。
茨城懸護国神社   指定  茨城市水戸市
明治11年(1878年)、明治維新に殉死した、水戸藩士約1800柱を祀るため、常盤神社の境内の現在の東湖神社の場所に立てられた鎮霊社を起源とする。茨城県出身の殉国者を逐次合祀していった。1939年4月に鎮霊社護国神社に改称した。昭和16年(1941年)10月、内務大臣指定護国神社となって茨城県護国神社に改称し、同年11月に現在地の偕楽園内の桜山に遷座した。戦後は県に関係した軍人、軍属の英霊を合祀、祭神の数は63、494柱が祀られている。
栃木懸護国神社  指定  栃木県宇都宮市
栃木県宇都宮市にある護国神社は、境内には護国会館がある。 明治維新、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者や警察、消防、自衛隊の殉職者などの旧 宇都宮藩、栃木県関係の英霊55,361柱を祀る。 天皇・皇后が日本全国で唯一公式に親拝している護国神社で、世界平和と人類共存を祈る神社とされている。 大東亜戦争後、海外各戦地の慰霊巡拝を国籍や当時の敵味方の区別なく永年に亘って継続しており、皇族や神社本庁とも所縁が深く、天皇・皇后が親拝した時の写真が本殿正面左右上方に掲げられている。
大田原護国神社      栃木県太田原市
群馬懸護国神社  指定  群馬県高崎市
群馬県高崎市にある護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの群馬県出身関係の殉国の英霊4万7千余柱を祀る。明治42年に群馬県招魂会が結成され、高崎公園内の英霊殿で毎年招魂祭を行っていた。昭和16年に内務大臣指定護国神社に指定され、同年に鎮座祭が行われた。
渋川護国神社       群馬県渋川市
千葉懸護国神社  指定  千葉県千葉市中央区
戊辰戦争から太平洋戦争に至るまで、国事に殉じた千葉県出身・由縁ある英霊を祀る神社。合祀祭神は現在五万七千余柱。
明治11年(1878年)1月27日に柴原和初代県令の発起により、「千葉縣招魂社」として創建され、明治維新で亡くなった佐倉藩の安達直次郎盛篤ら16人の霊が祀られた。昭和14年(1939年)、招魂社の制度が護国神社に改められるのに伴い「千葉縣護國神社」と改称した。昭和18年(1943年)4月には主務大臣により1県1社の「護國神社」として指定される。
四街道護国神社      千葉県四街道市
新潟懸護国神社  指定  新潟県新潟市中央区
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者を英霊として祀り、現在の祭神の数は75,000余柱となっている。
鳥羽・伏見の戦いから始まり、やがて全国各地に広がった戊辰戦争は、新潟市も例外なく激しい戦場と化した。西軍(薩摩、長州ら新政府軍)と東軍(米沢、会津、庄内)の両軍に多数の戦死者が出て尊い命が失われた。明治元年に新政府軍(西軍)側戦死者の墓碑を常磐ケ岡(旧新潟大学本部の跡地)に設置され、戊辰戦争の戦没者415柱を祀って社殿を造立し新潟招魂社として祭られた。 昭和16年新潟招魂社から護國神社と改称し、昭和20年に西船見町に移転された。
富山懸護国神社  指定  富山県富山市
富山県富山市にある護国神社は富山県出身の明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)までの戰歿英霊を祭神とする。祭神は28,678柱である。明治45年(大正元年・1912年)3月に富山縣招魂社として設立が認められ、昭和14年、富山縣護國神社に改称した。大東亜戦争でを焼失した。社殿は昭和29年に再建された。
石川県護国神社  指定  石川県金沢市
石川県金沢市にある護国神社は市街地中心部の兼六園の隣にある。戊辰戦争で戦死した水野徳三郎寛友ほか加賀藩の107人の霊を祀るため、明治3年に加賀藩14代藩主前田慶寧が創建した招魂社にはじまる。当時は卯辰山にあったが、境内が狭く式典を行うのが困難であったため、昭和10年、現在地である旧陸軍小立野練兵場の一角に遷座した。昭和14年、石川護国神社に改称した。
福井懸護国神社  指定  福井県福井市
明治維新前後から第二次世界大戦までの国難に殉じた福井県関係者約3万2千柱を祀る。この中には、明治維新の志士・橋本左内も含まれている。別殿・公安霊社には、警察等の殉職者、満州開拓団の戦災死亡者、自衛隊殉職者が祀られている。昭和14年の護国神社制度の成立を受けて福井県知事らを中心としてに護国神社創建のための奉賛会が結成された。昭和16年(1941年)3月に社殿が竣工し、鎮座祭が行われ、内務大臣指定護国神社となった。
山梨懸護国神社  指定  山梨県甲府市
山梨県甲府市にある護国神社は西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人・軍属の英霊25039柱を祀る。明治12年、招魂社として市内太田町に建立されたのに始まる。昭和17年(1942年)に現在地に遷座し、昭和19年(1944年)、山梨縣護國神社に改称した。
長野懸護国神社  指定  長野県松本市
長野県松本市美須々にある護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた長野県出身者を祀る。昭和13年に長野県招魂社として仮社殿で創建された。昭和14年(1939年)3月に長野縣護國神社に改称した。昭和32年、神社本庁の別表神社に指定された。
諏訪護国神社       長野県諏訪市
岐阜懸護国神社  指定  岐阜県岐阜市
岐阜県岐阜市にある護国神社は岐阜城の築かれた金華山の麓に鎮座する。春は桜の名所として境内の早咲きの鵜飼桜(江戸彼岸桜)が有名である。明治維新以来の岐阜県関係の護国の英霊3万7千余柱を祀る
濃飛護国神社   指定  岐阜県大垣市
岐阜県大垣市にある護国神社は大垣城址に鎮座する。岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の護国の英霊1万9千余柱を祀る。明治4年(1871年)、元大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争の戦死者54名を祀るため招魂祠を創建したのに始まる。明治8年に官祭招魂社となって大垣招魂社に改称し、昭和14年、招魂社の制度が護国神社に改められたのに伴い濃飛護國神社と改称した。
飛騨護国神社       岐阜県高山市
静岡懸護国神社  指定  静岡県静岡市葵区
靜岡縣護國神社は静岡県静岡市葵区にある神社である。明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る静岡県出身の英霊7万6千余柱を祀る。社務所の二階は遺品館になっており、戦没者の遺品約4千点が展示されている。
愛知懸護国神社  指定  愛知県名古屋中区
愛知県名古屋市中区にある護国神社は戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。明治元年、尾張藩主徳川慶勝が、戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を、現在の名古屋市昭和区川名山に祀り、翌明治2年5月、「旌忠社」として祠を建てたのに始まる。明治8年に招魂社となり、明治34年には官祭招魂社となった。大正7年、城北練兵場(現在の名城公園内)に、更に昭和10年には現在地に遷座、昭和14年に愛知縣護國神社に改称した。
三重懸護国神社  指定  三重県津市
三重県津市にある護国神社は禁門の変・戊辰戦争から第二次世界大戦までの三重県関係の戦歿者6万3百余柱を祀る。明治2年、津藩主藤堂高猷が、戊辰戦争で戦死した藩士の霊を祀る小祠を津八幡宮の境内に建て、「表忠社」と称したのに始まる。明治8年に官祭の招魂社となり、明治42年に現在地に遷座、昭和14年に三重縣護國神社に改称した。昭和20年の空襲で本殿・神饌所以外の建物を焼失した。昭和32年に本殿も含めて新たに社殿を造営した。
滋賀懸護国神社  指定  滋賀県彦根市
滋賀県彦根市の彦根城址には護国神社である。戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県関係の戦歿者3万4千余柱を祀る。明治2年、彦根の大洞竜潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられた。明治8年元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した。昭和14年に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称した。
京都霊山護国神社 指定  京都府京都市東山区
京都府京都市東山区にある神社である。慶応4年、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。1936年(昭和11年)、支那事変(日中戦争)をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営した。
大阪府護国神社  指定  大阪府大阪市住之江区
大阪府大阪市住之江区にある護国神社は、明治33年より毎年、城東練兵場で弔魂祭を行っていた。昭和13年、知事・市長らが護国神社造営奉賛会を結成し、昭和15年(1940年)5月4日に鎮座祭が行われた。ただし、人材・資材の不足のため正式な社殿の建築をする事が出来ず仮社殿での鎮座であった。昭和38年社殿が竣工し、5月29日に遷座祭が行われた。
兵庫縣神戸護國神社   指定     兵庫県神戸市
兵庫県神戸市灘区にある護国神社は、兵庫県東部地区出身の護国の英霊約5万3千柱を祀る。明治以降、兵庫会下山(現 兵庫区会下山町)に祭庭を設けて英霊の招魂祭が行われていたが、昭和16年灘区王子町に社殿を造営し、内務大臣指定護国神社となった
兵庫懸姫路護国神社 指定  兵庫県姫路市
兵庫県姫路市の姫路城の近くにある護国神社である。兵庫県西部地区出身の護国の英霊56988柱を祀る。明治26年より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて英霊の招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、昭和14年、制度改革により兵庫縣姫路護國神社となり、内務大臣指定護国神社となった。
奈良懸護国神社  指定    奈良県奈良市
奈良県奈良市にある護国神社は明治維新から大東亜戦争までの国難に殉じた奈良県出身者29,110柱の英霊を祀る。昭和14年、奈良県知事を会長として護国神社建設奉賛会が組織され、昭和15年10月に創立を許可されて造営を開始、昭和17年(1942年)に竣工・鎮座し、内務大臣指定護国神社となった。

和歌山県護国神社 指定  和歌山県和歌山市
明治戊辰の役以降、大東亜戦争に至る迄の国難に殉じられた本県出身の神霊36,669柱命。明治戊辰の役以来、国家のため散華され、靖国神社に合祀された本県出身の戦没者を祭祀するため、招魂祭が執り行われていた。
昭和3年に入り和歌山県招魂社建設期成会が発足、和歌山市より敷地の譲渡をうけて現在地に招魂社が創建された。昭和14年4月1日、内務省令により和歌山県護国神社と改稱、内務大臣指定神社となる。昭和同37年5月24日、昭和天皇、皇后両陛下御親拝。
鳥取県護国神社  指定  鳥取県鳥取市
松江護国神社   指定  島根県松江市
島根県松江市の松江城址にある護国神社は明治維新後の国難に殉じた旧出雲国・隠岐国出身の英霊2万2千余柱を祀る。昭和10年に島根県招魂社建設奉賛会が組織された。昭和14年に松江招魂社として創建・鎮座したが、同年4月、招魂社の制度改革により松江護國神社となった。

濱田護国神社   指定  島根県浜田市
島根県浜田市の浜田城(亀山城)址にある護国神社は明治維新後の国難に殉じた旧石見国出身の英霊約2万3千柱を祀る。島根県内には他に松江護國神社がある。浜田では、明治39年より年2回の浜田招魂祭が行われていた。昭和10年に島根県招魂社建設奉賛会が組織され、昭和13年に濱田招魂社として創建・鎮座した。翌昭和14年、招魂社の制度改革により濱田護國神社となった。

岡山懸護国神社  指定  岡山県岡山市中区
岡山県岡山市中区奥市にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。境内には戦死者の慰霊碑が数多く建立されており、明治7年)3月17日に官祭となり、岡山招魂社となった。大正4年に現在地に移転、4月26日に社殿が竣工した。昭和14年に内務大臣指定と共に「岡山縣護國神社」と改称した。
備後護国神社   指定  広島県福山市
広島県福山市丸之内の福山城北側に護国神社がある。祭神は備後国出身の護国の英霊、大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主である。明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と箱館戦争での戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのに始まる。明治34年に官祭福山招魂社に改称した。昭和14年に内務大臣の指定を受けて福山護國神社と改称した。戦後昭和32年に備後護国神社に改称した。
鞆護国神社        広島県福山市鞆町
広島護国神社   指定  広島県広島市中区
広島県広島市中区にある護国神社は広島城址公園内にある。祭神は第二次世界大戦までの広島県西部(旧安芸国)出身の英霊のほか、広島市への原子爆弾投下によって犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒および女子挺身隊等など含め約9万2千柱である。
可部護国神社       広島県広島市安佐北区
五日市護国神社      広島県広島市佐伯市
山口懸護国神社  指定  山口県山口市
山口県山口市にある護国神社は山口県関係の明治維新以降の国難に殉じた護国の英霊を祀る。この中には、吉田松陰、久坂玄瑞、来島又兵衛、大村益次郎、高杉晋作、月性も含まれている。昭和14年山口県にも護国神社を創建することとなり、昭和16年、現在地に社殿が竣工した。内務大臣から指定護国神社の指定を受け創建された。山口県出身の英霊7159柱を合祀されている。
宇部護国神社       山口県宇部市
岩国護国神社       山口県岩国市
防府護国神社       山口県防府市
朝日山護国神社      山口県山口市
徳島懸護国神社  指定  徳島県徳島市
徳島県徳島市にある護国神社は戊辰戦争から第二次大戦に至る事変・戦争等の国難に準じた徳島県出身の英霊三万四千三百余柱を祀り、相殿に徳島県出身の殉職自衛官二十余柱を祀る。1879年、眉山公園に招魂社として創建された。明治39年、徳島中央公園の徳島城跡に遷座。昭和14年、徳島縣護國神社と改称する。
香川懸護国神社  指定  香川県善通寺市
香川県善通寺市に鎮座する護国神社は讃岐宮(さぬきのみや)とも称する。境内面積は.604m²。香川県出身の護国の英霊35700余柱を祀る。 明治31年(1898年)、善通寺に陸軍第11師団が設けられた際、招魂社を設置したのに始まる。昭和13年(1938年)、内務大臣の指定により護国神社となった。
愛媛懸護国神社  指定  愛媛県松山市
愛媛県松山市にある護国神社は戊辰の役以来の愛媛県出身の戦没者のほか、軍属、女子学徒、看護婦、電話交換手、報国隊、義勇隊、富山丸・東予丸犠牲者、警察官・消防団・自衛隊等の公務殉職者、交響に尽くして県民に恩恵をもたらせた先賢諸士として加藤嘉明・藤堂高虎・久松定行・伊達秀宗をはじめとする各藩の藩主、足立重信、建武の新政から明治維新に至るまでに国事に殉じて贈位を受けた方々、産業功労者として義農作兵衛、下見吉二郎、鍵谷カナ、文化人として尾藤二洲、近藤篤山、矢野玄道、正岡子規などを合祀し、49722柱を祀る。
南媛懸護国神社      愛媛県宇和島市
高知懸護国神社  指定  高知県高知市
高知県高知市にある護国神社は、国難に殉じた高知県関係の護国の英霊4万1千余柱を祀る。 知県護国神社奉賛会がある。東征の陣で没した土佐藩士105柱。 明治維新志士四天王とされる武市半平太命・坂本龍馬命・中岡慎太郎命・吉村寅太郎命。堺事件(慶応4年)で没した11名の土佐藩士。幕末以来日清・日露、大東亜戦争にあたって国家公共の為に殉じた高知県にゆかりのある英霊。高知県出身並びに、縁故ある護国の英霊、4万1千余柱。
福岡懸護国神社  指定  福岡県福岡市中央区
福岡県福岡市中央区にある護国神社は明治維新から大東亜戦争/太平洋戦争までの国難に殉じた福岡県関係の護国の英霊約13万柱を祀る。明治元年、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。明治39年、馬出招魂社に妙見招魂社を合祀して妙見馬出招魂社とした。昭和13年に福岡招魂社と改称し、昭和14年、招魂社の制度改正により福岡護國神社に改称した。これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
柳川護国神社       福岡県柳川市
八景山護国神社      福岡県京都郡
佐賀懸護国神社  指定  佐賀県佐賀市
佐賀県佐賀市にある護国神社は明治維新以降の国難に殉じた佐賀県関係の護国の英霊および第二次世界大戦後の殉職自衛官、あわせて約3万5千柱を祀る。明治3年、旧佐賀藩主・鍋島直大が、戊辰戦争で戦死した藩士78柱を祀ったことに始まる。明治7年以降、佐賀の乱などの戦死者を合祀した。当初は「招魂場」と称していたが、明治8年に官祭招魂社となり、昭和14年、招魂社の制度改正により内務大臣指定の佐賀縣護國神社に改称した。
長崎縣護國神社    指定   長崎県長崎市
長崎県長崎市にある護国神社は明治維新から太平洋戦争(大東亜戦争)までの国難に殉じた長崎県関係の護国の英霊約6万柱を祀る。明治2年、長崎市梅ヶ崎に、戊辰戦争で戦死した藩士43柱を祀る梅ヶ崎招魂社が創建された。明治7年、長崎市西小島に台湾の役の戦死者536柱を祀る佐古招魂社が創建され、以降、国難に殉じた英霊を合祀してきた。昭和14年、招魂社の制度改正により両招魂社は護国神社となった。昭和17年両護国神社を合併して内務大臣指定の長崎縣護國神社とした。
壱岐護国神社        長崎県壱岐市
祭神の亀山天皇、後宇多天皇は元寇の役に日本国の危き時に国家安泰を祈願した。 壱岐島民は、壱岐神社御創建の事業を進め、昭和19年御本殿の建設を実現した。昭和23年に御祭神三柱の鎭座祭を執行し、同27年には壱岐護国神社の鎭座祭を執行した。壱岐で一番新しい神社である。
長崎懸護国神社  指定  長崎県長崎市
長崎県長崎市にある護国神社は明治維新から太平洋戦争(大東亜戦争)までの国難に殉じた長崎県関係の護国の英霊約6万柱を祀る。明治2年(1869年)、長崎市梅ヶ崎に、戊辰戦争で戦死した藩士43柱を祀る梅ヶ崎招魂社が創建された。明治7年(1874年)、長崎市西小島に台湾の役の戦死者536柱を祀る佐古招魂社が創建され、以降、国難に殉じた英霊を合祀してきた。昭和14年、招魂社の制度改正により両招魂社は護国神社となった。
熊本懸護国神社  指定  熊本県熊本市
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)までの国難に殉じた熊本県出身または縁故のある護国の英霊約6万5千柱を祀る。明治2年、熊本藩主細川韶邦と細川護久が、明治維新に殉じた藩士150柱を祀るために市内花岡山に招魂社を建立したのに始まる。明治7年に官祭の招魂社となり、昭和14年、招魂社の制度改正により内務大臣指定の熊本県護国神社となった。
相良護国神社       熊本懸人吉市
大分懸護国神社  指定  大分県大分市
大分県縁故の英霊約4万4千柱を主祭神とし、殉職警察官・自衛官を相殿に祀る。明治7年佐賀の乱の戦死者15柱、台湾出兵での病死者3柱、明治維新の勤皇の志士など5柱の英霊を合わせて祀り、翌明治8年、霊顕彰のために招魂社を創建したのに始まる。昭和14年昭招魂社の制度改正により大分縣護國神社に改称し、内務大臣指定護国神社となった。
宮崎懸護国神社  指定  宮崎県宮崎市
 しかし宮崎県は、明治維新の当時、小藩分立の状態で招魂社は創立されていなかった。 昭和16年県民の要望に応えるため、当時の知事をはじめ各界の代表者数十名が設立者となって宮崎県護国神社建設奉賛会を組織し、昭和18年4月23日内務大臣の許可を得て宮崎市下北方の高台に尾国神社を創建した。
鹿児島懸護国寺  指定  鹿児島県鹿児島市
明治維新以降の国事に殉じた鹿児島県出身の英霊や、殉職した自衛官、警察官、消防士等77,000余柱を祀る。明治元年、明治天皇から与えられた鳥羽・伏見の戦いの戦死者を祀るための金500両により創建された靖献霊社(いさたまれいしゃ)に始まる。当初は照国神社の右手横(現在の戊辰駐車場)に鎮座していた。明治8年に鹿児島招魂社に改称、昭和14年に鹿児島県護国神社に改称した。
沖縄懸護国神社  指定  沖縄県那覇市
沖縄県関係の護国の英霊だけでなく、第二次世界大戦の沖縄戦に殉じた本土出身者や犠牲となった一般市民も祭神として祀っており、平成17年現在の祭神の数は17万8689柱である。昭和11年の日清・日露戦争以降の国難に殉じた英霊を祀るために創建された招魂社に始まる[1]。昭和15年の内務省令により内務大臣指定護国神社となり沖縄県護国神社に改称した。

  
戦前日本各地に護国神社が創建されたが、敗戦後軍国主義の影響を恐れ排除され各地の護国神社は名称を変えて偲び、独立後もとの護国神社に社名を戻した。
戦後も靖国神社と同様日本の国に為に殉死者の英霊を祀っているが、靖国神社ほどに関心、注目は去れず、むしろひっそりと各地の護国神社は鎮座している。維持管理され参拝される縁故者も年々減少し、祀られる殉死者も自衛隊員と公職での住職者に限られて、その参拝も減少傾向にある。機会がなければ訪れることのない護国神社は近代日本の礎となった人々の英霊を祀られていることを後世の人々にも受け継ぎ伝えなければ、日本の伝統歴史の軽視に繫がるのではないだろうか。たまたま大阪の護国神社の前を通りかかって知った次第である。













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『神功皇后伝説の謎』川村一彦

2014-04-16 04:54:24 | 小論文
「神功皇后」伝説の謎           

日本人に取り古代英雄伝説で最も代表的な物語が「神功皇后」である。
その活動は九州を中心に展開し、日本の各地に分布される八幡神社は、神社総数の約12万社ある中で4万社余りが神功皇后を祭神として祀り、地域の一ノ宮として多く崇敬を受け、皇孫の祖神として古くより伊勢神宮と共に崇拝されている。

「神託と神功皇后」
 景行天皇の死後、後継に成務天皇が継承したが皇子にいなかったので「ヤマトタケル」の第二に皇子の足仲彦(仲哀天皇)が即位した。
 足仲彦(仲哀天皇)は父ヤマトタケルの武勇に長けているのに反し、弱々しく描かれている。ヤマトタケルクマス征伐後に、景行天皇が九州熊襲征伐を行なわれた。次ぎに即位した成務天皇が皇位就いたが継子が無かった為にヤマトタケルの皇子の仲哀天皇が即位したが、再び熊襲が朝廷に反逆を企てたと知って、天皇は熊襲征伐に向かいった。
九州は筑紫の香椎宮で武内宿禰が神降ろしの場で、神託を問うた所「西の方国があり、その国には金銀の財宝の財宝がる。その国に行くように」のお告げを仲哀天皇は疑って「西方を見ても大海があるだけ」行動を起こされなかった。神は「そなたはこの天下は統治する国ではない、そなたは黄泉の国に向かいなさい」と仰せになった。 
そのとき下された神託に従わなかった為に神の怒りに触れ、翌年仲哀天皇は崩御されたと記されている。
武内宿禰は神に、皇后の御腹の皇子の男女の別を問うた所、皇子とお告げがあって、大神の名を問えば「天照大御神の御心による、表筒神、中筒神、底筒神の住吉三神である」と答えたと言う。
* 仲哀天皇の不可解な謎の死は、神功皇后の御腹には世継ぎの予言と神託が述べられている。
何か仲哀天皇に身辺に、記述にない王権に政変があったのか、短い記述で神罰があったことを伝えている。
神功皇后を支える武内宿禰と住吉神三神の導きで国内統治、三韓征服を進めていく、九州を中心に展開されてゆく。
 一方、神託に従った神功皇后は、熊襲、土蜘蛛を次々征服した。
* 神功皇后の出自については、「日本書紀」には気長足姫尊は開化天皇の曾孫、気長宿禰王女である。母は葛城高顙媛と言う。幼少から聡明で、叡智があって、容貌も優れ、美しいと記されている。
また「古事記」には誉田別(応神天皇)の母オキナガタラシヒメについて新羅の沼の畔で娘が昼寝をしていると、日光の娘の陰部に日が射し、やがて身篭り赤い玉を産んだ。これを見ていた男は玉を貰い受けたが、ある時国王の子アメヒボコから牛殺しの疑いをかけられ許しを請う為に赤い玉を差出した。
赤い玉は美しい娘に変身、王の子と結婚、その後二人は不仲になって、やがて娘は「祖先の国」に行くと小船に乗って海を渡り難波に住みついた。後追ってきたアメヒボコは多遅摩(但馬)に上陸、新羅より持ち込んだ「八つの宝」八前の大神として出石神社に祀られ、アメヒボコは多遅摩に住み着き妻を娶り、その子孫から神功皇后(オキタナガタラシヒメ)であると語られている。これを見れば渡来系の影響の神と見られる。

「三韓征伐」
神の神託によって「三韓征伐」は「記紀」に記載されている。夫の仲哀天皇が急死後、神功皇后が六八年間代わって政務を執り行った。
先ず始めに齎宮に入って自ら神主になって、住吉大神の神託で再び新羅征伐の託宣がでた。対馬の倭珥津を出発し、妊娠したままの海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を攻めた。新羅は戦わずして降伏して、朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約束したという。「日本書紀」には新羅王は王子を人質に出した事記されている。
新羅国を馬飼と定め、百済国の海を渡った、地名を屯倉と定め、皇后は御杖を新羅の国王の門に突き立てた。
住吉三神の荒御魂を、国を守る守護神として鎮め祭り、帰国され新羅から帰国後、筑紫で誉田別皇子(応神天皇)を産んだと「古事記」に記されている。
神功皇后は帰国に際し出産を遅らせるために、御腹に月延石、鎮懐石と言われる石を当ててさらしを巻き、冷やす事によって出産を遅らせた。
月延石は3つあったとされ、長崎の月讀神社、京都の月読神社、福岡の鎮懐石八幡社に奉納されたと言う。

神功皇后の帰国後、新羅王汗礼欺伐は人質として倭国に渡った妻子が奴婢とされたので使者を派遣し返還を求めてきた。
神功皇后はこれを受け入れ、見張りに葛城襲津彦を新羅に遣わすが、途中の対馬で新羅の使者に騙され逃げられた。
これに怒った襲津彦は新羅の使者三人を焼き殺し釜山南の多大浦から上陸、慶尚南道梁山辺りを攻撃し捕虜を連れ帰った。
この時の捕虜は桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
「百済記」には神功四六年に百済が倭国に朝貢した記述が残されている。
神功四九年には神功皇后は将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅に急襲しょうとするが、兵の増強を進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪らに合流を命じて、新羅軍を破った。その後七カ国を破り、四つ邑は抵抗もなく降伏した。
神功五一年には百済は久氐を派遣し朝貢した。
皇后五二年には百済王は倭国との同盟を記念し七子鏡と七枝刀を献上した。
「葛城襲津彦の新羅征討」
神功皇后62年葛城襲津彦を遣わし新羅を打たせる。
「百済記」に拠れば新羅が倭国に奉らなかったために沙至比跪(さちひこ葛城襲津彦)を新羅に遣わし討伐したが、所が沙至比跪は新羅の美女に心奪われ矛先を加羅に向け滅ぼす。
加羅王は百済に亡命し、加羅王の妹は天皇に直訴し、天皇はこれに怒り木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また沙至資跪は天皇の怒りが収まらないと石穴で自殺した。

* 4世紀末から5世紀初頭にかけ大和政権は、新羅を征圧した事は歴史的史実で朝鮮半島の百済、新羅などに「記」残されている。
学説には神功皇后の新羅征服の伝説は「記紀」に押しはめたに過ぎず、継体天皇時代に形成されたと推測され、神功皇后の存在の史実に懐疑的な見方もある。
その要因として斉明天皇が新羅征伐に断行し客死しその後「白村の戦」に失敗、敗走し中大兄皇子の近江宮遷都になった史実と持統、元明へと女帝を元に神功皇后像が出来上がったのではとの説がある。
また近年まで魏志倭人伝の卑弥呼には天照大神と並んで、神功皇后が最も有力な候補とされていた。
江戸時代には新井白石が大和説、本居宣長が九州説など色々憶測を呼び、九州中心に活躍をした神功皇后の記述には、倭の女王が魏の皇帝に貢物を贈った、と言う魏志倭人伝の記事が引用されている。

「古事記」大和帰還への道
新羅から帰国した神功皇后は、九州に一旦落ち着かれ皇継の誉田別皇子を出産、大和に帰還には大きな問題があった。
先妻のオホナカツヒメの仲哀天皇の間に生まれた皇子二人、香坂王(カゴノサカ)、忍熊王(オシクマノ)が待ち構えていた。九州にあって神功皇后は大和の不穏な動きを察知、反逆のここ抱く事を懸念し策を講じた。
「古事記」にはこう記されている。棺を乗せる船一艘を用意し、皇子を喪船に乗せ「皇子はすでに亡くなられた」と噂を流された。
これを聞いたカゴサカノ王とオシクマノ王は皇后一行を待ち伏せて討ち取ろうと「斗賀野」(大阪兎我野町か神戸の都賀川の地か?)で可否を占って「誓約狩」をした。
カゴサカノ王は櫟(くぬぎ)に登っていたら、大きな怒り狂った猪が現れ、カゴサカノ王を食い殺した。弟オシクマノ王はそれを怖れる事無く、軍勢を立て直し皇后の軍勢に立ち向かった。
皇后も軍勢を降ろし相戦った。オシクマノ王は難波の吉師部(大阪岸部?)の祖先イサヒノ宿禰将軍として、一方皇太子は和禰臣宿禰をナニハネコタケフルクマノ将軍として、追い退けて山城に至った時、オシクマノ軍は立ち直り、相戦った。
皇太子側のタケフルクマノ将軍は「皇后は亡くなったのでもう戦う事は無い」と噂を流し、弓の弦を切って偽装降伏をした。その計略にはまったオシクマノ軍勢は武装解除した所へ、皇太子軍は隠し持っていた武器を追撃、逢坂辺りまで追い詰めは破り、楽浪で悉く切り伏せた。オシクマ王と将軍は追い詰められ湖上に乗り上げ、身を投げて共に死んでしまった。

戦いが終わってタケシウチウチノ宿禰(建内宿禰)は皇太子を連れて、禊をする為に、近江と若狭国を巡歴した時、越前の国の仮宮を造りそこに住まわせた。
その地のイザサワケノ大神が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたい」とお告げがあった。お告げに従う事を伝えると、明日、浜に来ればその贈り物を差し上げると告げられた。翌日浜に出てみると、鼻に傷付いたイルカが浦一杯に集まっていた。
これを見て御子は「神は私に食料の魚を下さった」と神を讃えて「御食津大神」と名付けた。それが今に「気比大神」であると言う。
イルカの傷付き臭かったので「血浦」と言ったが、今は「角鹿」(弦が)と呼んでいる。気比大神の前で成人の儀礼を終えた御子は都に帰還して、神功皇后が待ち受ける待酒によって「大御酒を献上し」御子が天皇と認められた。
この段は「酒楽の歌」が二首に歌謡によって作られている。仲哀天皇の御陵は「天皇を河内国の長野陵に葬りまつる」神功皇后は「狭城の楯列陵を葬り申し上げた」ときされている。
*「古事記」では難波に向かう筈の御子がわざわざ「角鹿」つるがに禊に行ったかについては神功皇后の出自の系譜の「天日槍命」に名を代える成人の儀式と一般的に言われている。「原始的な即位儀礼」と解されている。
「日本書紀」では御子を武内宿禰が抱いて戦っているが、「古事記」では皇太子、成人として陣頭指揮をしている。
若狭地方は海人部の拠点、漁業や海の産物で生業をしている。笥販大神、御食津大神は食物を司る神として、古くより朝廷に献上していたかも知れない。また北陸一帯は朝鮮半島に近く、白山神社のように新羅系に神々を祭神とする地域、オオクニヌシ系の国津神、地主神などが点在する。
この気比神社や若狭への巡行は神功皇后の出自の関連付けではないかと思われる。

「日本書記」大和帰還への道
新羅を討った後、皇后は軍卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に遷って天皇の遺骸を乗せて都に向かった。
その時仲哀天皇の先妻の御子、麛坂王、忍熊王は「皇后には御子あり、郡臣は従っている、皇后は幼い御子を立てるだろう、自分達兄である、どうして弟に従えるか」と画策を立てる。
天皇の陵を造るまねをして、淡路島に渡り石を運び、人海で皇后を待った。犬上君の倉見別と吉師の五十狭茅宿禰は麛坂王に付いた。将軍として東国に兵を起こさせた。
麛坂王、忍熊王は兎餓野を出て様子を窺った。その時 赤い猪が突然襲いかかり麛坂王を食い殺した。
忍熊王は軍を率いて退却、住吉にたむろした。皇后は敵の動きを知って,武内宿禰と御子を抱いて迂回し紀伊水門から、皇后は真っ直ぐ難波に向かった。途中で船がぐるぐる廻って進まず武庫に帰って占われた。
天照大神のお告げには「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない、広田国(摂津広田)に置くが良い」葉山媛に祀らせた。
また天照大神の妹の稚日女尊が教えて「自分は活田長狭国(摂津生田神社)に居たい」それで五十狭茅に祀らせた。事代主が長田国(長田神社)に祀らすように、住吉三神が大津の淳名倉の長狭の祀らせるように、お告げに従った。  これら神々の鎮座を見て平穏になった。
忍熊王は陣を引き、宇治に陣取り、皇后は紀伊より日高で太子(応神天皇)に会えることが出来た。
群臣は忍熊王を討たんと小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移り、変事の障害に遭い、何日かが過ぎて武内宿禰と和珥の臣の祖先竹振熊に命じて、数万の兵を率いて山城付近に進出した。
宇治に至って忍熊王は陣営を出て戦おうとした。そこで武内宿禰は和睦を提案し、直ちに武器放棄を装った。
忍熊王はその偽りの言葉を信じ、忍熊王は全軍に武器を解き河に投げ込む事を命令した。
武内宿禰は隠し持っていた控えの武器を出して敵に迫った。
自分は騙されたと知った忍熊王は兵を率いて逃げたが武内宿禰は精兵を送り近江の逢坂で追いつき破った。逢坂の地名はこの地名に基づく。
「日本書紀」はここで仲哀天皇の陵を河内国の長野陵に葬ったと記され、誉田別皇子の立太子として「大和国の磐余に都を造った」と記されている。
その二年後、新羅王が朝貢されたと記述が残されている。
* 「日本書記」では神功皇后の大和帰還には難波から播磨国を拠点に住吉神のお告げと、お告げにより、神を祭り難を逃れ、神功皇后は和歌山から迂回、武内宿禰軍と合流、近江で策略で忍熊王を討ち取った。
麛坂王は「古事記」と戦いの最中に「日本書記」同じく猪に食い殺される。九州を立って大和帰還する時には誉田別皇子が近江に戦った時は成人になっているので、何年かの月日が経っていると言う事かもしれない。

◎神功皇后の邪馬台国の卑弥呼説について、「記紀」の編纂者は「神功皇后紀」には卑弥呼を意識して考えていたとようである。これを基に江戸時代までは神功皇后が卑弥呼と考えていた様であるが、神功皇后の三韓征伐に「魏志倭人伝」はこの件に言及していない。時代考証に100年のずれがあって、今日では余り論議されない。
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『欠史八代の真偽の検証』川村一彦

2014-04-15 05:02:33 | 例会・催事のお知らせ
欠史八代の真偽の検証                       

古代史に謎の空白の時代が“欠史、二代綏靖天皇、三代安寧天皇、四代懿徳天皇、五代孝昭天皇第、六代考安天皇第、七代孝靈天皇、八代孝元天皇、九代開化天皇の八代の記述に架空の王朝だったのではと古くより知られている。陵墓や宮跡に該当しない不自然な記述があって、古くよりその存在に疑問視されていた。その反面、限られた文面から推測するに当たり、補足された豪族、氏族の記述に広範囲な大和は葛城を中心にした豪族、氏族と都、陵墓などの系譜を考慮して、ヤマトの中心より距離を置く葛城王朝ではないかと思われる。
国津神(大物主神)との融和の記述がある。特に播磨国、丹波国の関係の深さを窺いさせる記述もあり、后にも遠く尾張国の豪族との婚姻関係もあって、その基盤は我々が思っているより確かな王権が存在していたかも知れない。

第二代綏靖天皇「神哼名川耳天皇」(かむぬなかわみみのすめらぎのみこと)
 高岡宮 (御所市森脇)  八四歳 (橿原市)
神武天皇の亡くなった後、神武天皇後の皇位継承は複雑に変動する。イワレビコの亡き後、皇子のタギシミミ(多芸志美美命)は義母のイスケヨリヒメを妻にしてその三皇子を亡き者にしょうと画策する。これを知ったイスケヨリヒメは皇子達の危険を歌に込めて伝えた。歌を聴いた三人の皇子は危機回避のため先手を打って、タギシミミを討つことになった。
中兄カムヤヰミミ(神八井耳命)が末弟カムヌカハミミ(神沼河耳命)に促され太刀を手にタギシミミの館に忍び込んだが、手が震えて殺害が出来なかった。カムナカハミミは兄から太刀を受け取ると、タギシミミを討ち取った。この勇敢な末弟の働きに中兄のカムヤヰミミは皇位を末弟タケヌカハミミは皇位を継承した。末子相続制によるものか、記紀の皇位継承に兄の例が少ないようだ。
欠史八代は謎多き時代ではあるが、各氏族が列挙され日本が古代を知る上に貴重な資料である。
「古事記」綏靖天皇(カムヌナカハミミ)は葛城の高岡宮において、天下を治め、磯城県主の祖先である、カハマタビメを妻として生まれた皇子、シキツヒコタマデミノ命一柱である。
天皇84歳で崩御。
* 師木県主、奈良県磯城郡を本拠とした古代豪族。*茨田連、河内国は茨田郡に因む氏族名*。*手島連、摂津国豊島郡に因む氏族名。*意富臣、大和国十市群飫富郷を本拠地とする多臣。「古事記」の撰者の太朝臣安万侶も同祖。*小子部連、雄略紀に少子部連蜾蠃(すがる)の伝説が見える。多朝臣と同祖。*坂合部連、姓氏録の大彦命の末裔とある。*火君、肥国に因む氏族。大分君、碩田国(豊後国大分郡)*阿蘇君、肥後国阿蘇郡に因む氏族。*筑紫三家連、筑前国那珂郡三毛郷に因む氏族。雀部臣、姓氏録に多朝臣と同祖。*雀部国造、未詳。*小長谷造、小長谷若雀命(武烈天皇)の御名の因む氏族名。祁直、大和山辺郡都介郷の因む氏族。*伊余国造・科野国造、伊予国。信濃国の豪族。*道奥の石城国造、陸奥の磐城国(福島東部)豪族。*常道の仲国造、日立国那珂郡の豪族。*長狭国造、安房国長狭部に因む氏族名。尾張の丹波臣、尾張国丹羽郡に因む氏族名。*島田臣、尾張国海部郡島田郷に因む氏族名。多朝臣と同祖。
「日本書記」「神哼名川耳天皇」(カムヌナカワミミノスミラギミコト)は神武天皇の第三子です。母は媛蹈鞴五十鈴媛命で事代主神の長女である。父王神武天皇が亡くなられて葬儀が終わって兄カムヤイミミノミコトは権力をほしいままに振る舞い、弟の皇子二人を亡き者にせんと策略を立てた。
その企ては秘かに知らされ、先帝の陵墓の造成が終わるのを待って、弓、鏃(やじり)箭を作らせて「今こそ好機、密事は二人で・・」と二人の兄弟で進入したが中兄のカムヤイミミノミコトは手足が震えて弓矢が引けない、弟の兄に代わって一発で胸に命中。このこと以来中兄は恥じて、弟に従った。
「自分はお前は兄だが気が弱く天位はお前が受け継ぎ、自分は神々を祀りを受け持つ」神哼名川耳天皇として葛城に都を造られた。高丘宮と定め、先の皇后を皇太后とした。五十鈴依姫を立てて皇后として、その間に磯城津彦玉手看命が生まれ、綏靖天皇は45歳で亡くなられ、畝傍山の北側に葬られた。
◎ 欠史八代のうち比較的に記述が多いとされている、その後継争いについては先妻の 皇子カミヤイミミノミコトと後妻に皇子二人の皇子との戦いで末御子カムヌカハミミが皇位を継ぐが、その経緯は赤裸々に裏面を物語れている。
即位後、綏靖天皇は葛城に都定め、関係が深くなったと思われる。「古事記」と「日本書紀」では兄、中兄、弟の筋書きは概ね一緒だが王朝内の役人の様子は日本書紀には述べられ、古事記には補足として当時も氏族、豪族を記載されており神武没後の臣の背景が分かりやすくなっている。
☆ *片塩の浮穴宮、宮址は大阪中河内の地とも大和は大和高田とも言われている。*県主波延、「日本書記」には磯城県主葉江とある。磯城一体を本拠とした豪族。*大倭日子鉏友命、後の懿徳天皇。*須知の稲置、「須知」は伊賀の国名張郡名張郷で、名張市薦生のあたり。「稲置」は姓の名称。那婆理の稲置鼻張りし辺り。
*三野の稲置、伊賀郡身野の地、名張市東部、豪族。淡道の御井宮、反正天皇が淡路宮で生まれた時、瑞井の水を汲んで身体を洗った。*蠅伊呂泥・蠅伊呂杼ともに孝霊天皇の妃となった。*畝傍山のみほと、「みほと」女陰の意。

第三代安寧天皇「磯城津彦玉手看天皇」(しきつひこたまてみのすめらぎのみこ)
 乳孔宮 (大和高田市)四六七歳 (橿原市)
「古事記」シキツヒコタマデミノ命は片塩の浮穴宮で天下を治めた。カハマハタビメの兄の県主ハエの娘を妃として、生まれになった御子はトコネツヒコイロネノ命、オホヤマトヒコスキトモノ命、シキツヒコノ命の三柱の中、二子の皇子が皇位を継承した。安寧天皇は四九歳で崩御、御陵は畝傍の山の美富登にある。
「日本書記」安寧天皇は綏靖天皇の嫡子である。五十鈴依姫命で母は事代主の次女である。二一歳皇太子になられ、八年後に綏靖天皇が崩御、倭の桃花鳥丘上陵(橿原市大字四条字田井ノ坪)都を片塩に移した。浮孔宮と言う。翌年淳名底仲媛命と立てて皇后とする。第一子息石耳命、第二子大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)
* 磯城津彦命は猪使連の始祖である。

第四代懿徳天皇「大日本彦耜友天皇」(おおやまとびこすきとものすめらぎのみこと)
 曲峡宮 (橿原市)  七七歳 (橿原市)
「古事記」オホヤマトヒコスキトモノ命は軽の境岡宮において政治を執る。師木県主の祖先のフトマワカヒメノ命、イヒヒヒメノ命を妻として生まれた皇子はミマツヒコカエシネノ命、タギヒシコノ命の二柱でミマツヒコカコカエシネノ命が継承され天下を治めた。
天皇は御年四五歳で崩御、御陵は畝傍山の真名子谷の近く。
* タギシヒノ命は血沼之別・多遅麻の竹別・葦井の稲置ノ祖先である。
「日本書記」大日本彦耜友天皇は安寧天皇の第二子母は淳名底仲媛命という。事代主の孫、鴨王のなである。安寧天皇が亡くなられ、畝傍山の南の御蔭井上陵に葬れた。都を軽の地に移した。天豊津媛命を立てて皇后とした。観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)が生まれる。
観松彦香殖稲天皇皇太子として十六歳で立太子。懿徳天皇は七七歳で崩御、畝傍山南繊沙上陵に葬られた。

第五代孝昭天皇「観松彦香殖稲天皇」(みまつひこかえしねのすめらぎのみこと)
池心宮 (御所市)  一一四歳 (御所市)
「古事記」ミマツヒコカエシネノ命(孝昭天皇)葛城の棭上宮において天下を治める。尾張の連の祖先のオキツヨソノの妹、名はヨソタホビメノ命を妻として生まれた御子はアメオシタラシヒコノ命、次にオホヤマトタラシコヒコクニオシトヒノ命その弟タラシヒコクニオシヒトノ命が後の天皇となった。天皇崩御九三歳、陵墓は棭上の博多山。
☆ *アメオシタラシヒコノ命は*春日臣、大和国は添上郡春日郷奈良市春日野町辺り、大豪族で5世紀頃以降には妃、后を度々出した。*大宅臣、添上郡大宅郷に因む氏族、春日臣と同族。*粟田臣、山城国愛宕郡粟田に因む氏族。*小野臣、近江国滋賀郡小野を本拠とする氏族。*柿本臣、柿本人麻呂を出した氏族、大和国が本拠としていた。*壱比章臣、大和国添上郡櫟井に因む氏族。*大坂臣、大和国葛上郡大坂郷に因む氏族。*阿那臣、近江国坂田郡阿那郷に因む氏族。*多紀臣、丹波国多紀郡に因む氏族。*羽栗臣、尾張国葉栗郡に因む氏族。*知多臣、尾張国智多郡に因む氏族。*牟耶臣、上総国武射郡に因む氏族。*都怒臣、未詳*伊勢の飯高君、伊勢国飯高郡に因む氏族。*壱師君、伊勢国壱志郡に因む氏族。*近淡海国造の祖先。*葛城の棭上宮、日本書紀には「池心宮」宮址は奈良御所市池ノ内。*大倭帯日子国押入命、後の孝安天皇(日本足彦国押人天皇) 
「日本書記」観松彦香殖稲天皇は懿徳天皇の太子である。母皇后は天豊津媛命は息石耳命の女である。都を池心宮(棭上)世襲足媛を立てて皇后とした。

第六代孝安天皇「日本足彦国押人天皇」(やまとたらしひこくにおしひとのすめらぎのみこと) 津嶋宮 (御所市)  一三七歳(御所市)
「古事記」オホヤマトタラシコクニオシヒトノ命(孝安天皇)は葛城は室の秋津島宮で天下を治めた。この天皇が、姪のオシカヒメノ命を妻とされ、御子は、オホキビモロススミノ命、次ぎにオホヤマトネコヒコフトニノ命の二柱、皇位を継承されたのはオホキビモロススミノ命が天下を治めた。天皇は137歳で崩御。御陵は玉手岡の上にある。
*葛城の室、御所市大字室。*秋津島宮、アキツシマは元来大和の一地名、また大和国の異称になった。忍鹿比売命、「日本書紀」にある孝安天皇の兄の天足彦国押人命の娘。玉手岡は御所市玉手の地。
「日本書記」日本足彦国押人天皇は孝昭天皇の第二子で母は世襲足媛という。尾張連の祖先を持つオキツヨソの妹である。一二三歳で崩御、陵墓は掖上博多山上陵。

第七代孝靈天皇「日本足彦太瓊天皇」(おおやまとねひこふとにのすめらぎのみこと) (田原本町)廬戸宮 一二八歳(王子町)
「古事記」オホヤマトネコヒコフトニノ命(孝霊天皇)は黒田の廬戸宮において天下を治めになった。この天皇は、十市県主の祖先の大目の娘の、クシハラヒメノ命という名の妻を娶り、生まれた御子はオホヤマトネコヒクニクルノ命の一柱である。また春日のオホヤマトクニアレヒメノ命を妻として生まれた御子はヤマトソモモソビメノ命、次ぎにヤマトトビハヤワカヤヒメ命、次ぎにヒコイサセリビコノ命、ハヘイロドを妻として生まれた御子は、ヒコサメマノ命、次ぎにワカヒコタタケビツヒコノ命で生まれた御子5柱、皇女3柱である。天下を治めた御子はオホヤマトネコヒクニクルノ命。
* ヤマトマトクニアレヒメノ命とワカヒコタタケビツヒコノ命に二柱は播磨の氷河の野埼に斎瓮をすえて上を祭った、播道臣の祖先、吉備の平定、下道臣、*ヒコイサセリビコノ命は越国の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿済直の祖先である。*廬戸宮の宮址は田原本黒田と宮古の間。*十市県主、奈良県十市郡(磯城郡西部)の豪族。*大倭根子日子国玖琉命、後の孝元天皇。*大吉備津日子命、岡山市吉備津に大吉備津彦神社がある。
*氷河の前、兵庫は加古川大野にある丘を氷丘という、丘の下を流れる川が加古川「氷河」と呼んだ。*道の口、西道(山陽道)の入り口。*下道臣、備中国下道郡を拠点する豪族。*笠臣、備中国小田郡の笠岡辺りを本拠にした豪族。*牛鹿臣、播磨国飾磨郡の牛鹿(姫路市付近を本拠にした豪族。*利波臣、越中国礪波郡を本拠にした氏族。五百原君、駿河国廬原郡を本拠地にした氏族。*角鹿済直、越前国敦賀郡一帯の海部の伴造。*片岡馬背坂、奈良県北葛城郡王子町南部馬背坂近くにあるという。
天皇は一〇六歳で崩御。御陵は片岡の馬坂の上。
「日本書記」日本足彦太瓊天皇は孝霊天皇の太子である。母は天足彦国押人命の娘である。孝霊天皇は106歳で崩御、陵墓は玉手丘上陵、奈良県御所市玉手字宮山。

第八代孝元天皇「大日本根子彦国牽天皇」(おおやまとねこひこくにくるのすめらぎのみこと) 境原宮 (橿原市)  一一六歳 (橿原市)
「古事記」オホヤマトネコヒクニクルノ命(孝元天皇)は軽の堺原宮において地点かを治められた。穂積臣らの祖先のウツシコヲノ命の妹のウツシコメノ命を妻として、生まれた御子は、オホヒコノ命、スクナヒコタケヰゴコロノ命、ワカヤマトネコヒコオホビビノ命の三柱である。
またウツシコノヲノ命の女を妻して生みになった御子は、ヒコフツオシメコトノ命、また河内のアヲタノ命一柱、天皇の皇子は五柱である。そのうち皇位を継がれたのはワカヤマトネコヒコオホビビノ命が天下を治めた。
* 兄のオカビコノ命の子はタケヌナカハワケノ命は阿倍臣の祖先である。*ヒコフツオシメコトノ命が尾張連の祖先である。:ヒコイナコジワケノ命は膳臣の祖先である。紀伊国造の祖先のウズヒコの妹のヤマシタカゲヒメを妻にして産んだ子が武内宿禰である。*武内宿禰に子は会わせ9人。*ハタノヤシロノ宿禰は波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海・長谷部君・の祖先である。*コセノヲカラノ宿禰は許勢臣・雀部臣・軽部臣。*葛城の長江のソツビコは玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣・の祖先である。*ワクゴノ宿禰は江野間臣の祖先である。*穂積臣、物部氏と同族関係の氏族。*大毘古命、北陸道に派遣された。*建沼河別命、当東海道に派遣された。*阿倍臣、大彦命を祖先とする大氏族。同族は東国や北陸道に分布。*膳臣、共膳を司る氏族。*味師内宿禰、ウマシは美称。大和国宇智郡は本拠とした氏族。*山代の内臣、山城国綴喜郡内郷に因む氏族。*建内宿禰、武内宿禰の末裔。*星川臣、大和国山辺郡星川郷を本拠とした氏族。*許勢臣、大和国高市郡巨勢郷を本拠とした氏族。蘇賀石河宿禰、蘇我氏の祖先。大和国高市曾我の本拠地の氏族。*平群都久宿禰、生駒平群を本拠とする氏族。*都奴臣、周防国都農郡を本拠地とした氏族。*坂本臣、和泉国和泉郡坂本郷を本拠とした氏族。*葛城長江曾津毘古、葛上郡高宮長柄にあたる。*玉手臣、葛上郡桑原郷玉手と本拠地として氏族。*的臣、武内宿禰の末裔。*江野間臣、加賀国江沼郡を本拠地とする氏族。
* 「日本書記」大日本根子彦国牽天皇は孝霊天皇の太子である。母は細姫命で磯城県主大目の娘である。孝元天皇は五七歳で崩御、御陵は片丘馬坂量で奈良県王子町王子。都は境原宮。

第九代開化天皇「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこひこおおびびのすめらぎのみこと) 率川宮 (奈良市)  一一一歳 (奈良市)
「古事記」ワカヤマトネコオオビビノスメラギノミコト命(開化天皇)は春日の伊耶河宮で天下を治めた。この天皇は丹波の大県主のユゴリの娘タカノヒメを妻として生みになった御子はヒココムスミノ命の一柱。継母のイカガシコメノ命を妻として生みになった御子は丸邇臣の先祖である、ヒコクニケツノ命の妹ノオケツヒメノ命を妻として生みになった御子はヒコイマス王一柱である。
葛城の垂見宿禰の娘を妻ワシヒメとして生み名になった御子はタケトヨハズラワケノ王一柱である。
*御上の祝、滋賀県は野洲の御上神社に仕える神職。*天之御影神、御上神社の祭神。*息長水依比売、息長氏の本拠地。水に携る巫女である。*丹波比古多々須美知能宇斯王、四道将軍の一人、「丹波の道主命をもて丹波に遣わす」*品遅部君、品遅部の伴造、誉津別命〔垂仁天皇〕の為に設けた御名代の部民。*佐那造、伊勢国多気郡佐那を本拠地にした氏族。*当麻勾君、大和国当麻郷を本拠地として氏族。*日下部連、河内国日下を本拠地とした氏族。葛野之別、山城国葛野郡を本拠地とした氏族。*蚊野之別、近江国愛智郡蚊野郷を本拠地にいた氏族。*耳別、若狭国三方郡彌美郷を本拠地とした氏族。*河上の麻須郎女、河上は丹後国熊野郡河上郷の地。*三河の穂別、三河国宝飲郡を本拠地とした氏族。*安直、近江国野洲部を支配した氏族。*本巣国造、美濃国本巣を支配した氏族。*長幡部連、常陸国久慈郡太田郷の氏族。*吉備の品遅君、備後国品冶郷の伴造。*阿宗君、播磨国揖保郡阿宗の氏族。*忍海部造、忍海部の伴造、丹後国竹野郡を本拠地とした氏族。*依網の阿毘古、依網は摂津国住吉郡大羅郷「阿毘古」は原始的姓。*伊那河の坂の上、奈良県油坂。
「日本書記」稚日本根子彦大日日天皇は孝元天皇の第二子、母は欝色謎命という。穂積臣の祖先を欝色雄命の妹である。開化天皇は63歳で崩御、春日率川坂本陵に葬られた。奈良市油坂。

天皇名     宮    現在地   在位年数 御陵   没年
第二代緩康天皇 高岡宮 (御所市)  三三年 (橿原市) 八四歳 
第三代安寧天皇 乳孔宮 (大和高田市)三九年 (橿原市) 六七歳 
第四代懿徳天皇 曲峡宮 (橿原市)  三四年 (橿原市) 七七歳
第五代孝昭天皇 池心宮 (御所市)  八三年 (御所市) 一一四歳 
第六代考安天皇 津嶋宮 (御所市) 一〇二年 (御所市) 一三七歳 
第七代孝靈天皇 廬戸宮 (田原本町) 七六年 (王子町) 一二八歳
第八代孝元天皇 境原宮 (橿原市)  五七年 (橿原市) 一一六歳 
第九代開化天皇 率川宮 (奈良市)  六一年 (奈良市) 一一一歳
上記の没年が五人の天皇が一〇〇歳以上で考えられない年齢である。
これは神武天皇からの数字合わせであるが、何故それまでして天皇の存在を創作しなければならなかったかは、特別な政変を隠蔽し八代を組み入れなければならない事情があったのか、謎が残る。
こうして欠史八代の天皇の在の記述を考察していく中で、架空、創作と指摘されている各天皇の詳細な情報の欠如は何らかに理由で語ることが出来なかったの、また便宜上神武天皇の「辛酉干支」による紀元前六六〇年による辻褄合わせによるものか(天皇の在位の長期)また葛城王朝かの疑問による敢えて削除し別の事柄を付け加えたものか、いまだその不明点は推測の域を脱せず、憶測のみ先行する。
しかし各天皇の記述の補足するが如くの、氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされ、吉備国、近江国など近隣諸国と大和の豪族、氏族の関係は葛城王朝を微妙な変化があったのでないかと思われる。   
これらの記述はこの欠史八代の時代後の解明に有効な文献と、参考資料である。














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『近江王朝の系譜』川村一彦

2014-04-14 05:14:13 | 例会・催事のお知らせ
 近江王朝の系譜の謎

「顕宗天皇」弘計尊・来目稚子尊・父は市辺之忍歯王(履中天皇の皇子)、母は蟻臣夷媛、皇后難波小野王、没年三十八歳、在位三年間、皇宮近飛鳥八釣宮、陵墓傍丘南陵(奈良県香芝市北今市、弟顕宗天皇は双子と言われ、播磨に身分を隠していた時に、牛飼い、馬飼いの業を因み、子笥、大笥と名前であると言う。
説話に依れば、皇位継承で互いに譲り合った話で有名で、父王が雄略天皇に殺された話を知って、兄弟は直ちに逃亡し「古事記」に依れば播磨国の志自牟の家に働いていた。「日本書記」では丹波国に行き余謝郡に行き、後で播磨国明石郡の縮見屯倉の首の忍海部,造細目に仕えたとする。
古事記の説話に「置目老媼」天皇が父王の市辺王の遺骨を探しておられた時に、近江に住む卑しい老婆が「王子様のお骨の埋めた所を私は知っている、歯も知ることが出来ます」父王の特徴は羽が三つに分かれ大きい歯だった。
そして骨を捜し掘り起こし、蚊屋野東の山に御陵を造った。その後父王の骨を河内の近飛鳥宮に持って上がられ、教えてくれた老女にお召しになり「置目老媼」と名付けて大切にされたと言う。
「猪飼の老人」父王が逃亡の折りに、召し上がり物を奪い去った猪飼の老人を捜し,都に連れてきて飛鳥川の河原切り殺し、一族の者を膝の切る刑に処した。以後猪飼の子孫は都では足が真っ直ぐに立てない逸話があったそうだ。
「雄略天皇陵破壊」父王を殺した雄略天皇を恨み、御魂にまで報復をしょうと思われたが兄王(意祁命)の忠告で人を指し向けずに、私自ら自分の手で壊してきましょう。天皇は承知した。兄王は河内国の丹比に行き、雄略天皇陵を少し掘り起こして帰られた
。天皇は余りに早く帰られたので、どの様にされたか聞いた所、「御陵の傍らを少し掘り起こしました」父王を殺した前天皇は仇ですが、我ら叔父であります。
もし全部壊したとしたら、後世の人は非難するでしょう。少しではあるが父王の恨みを晴らしたと告げて、天皇をたしなめられた。
その後、天皇が三八歳の若さで崩御、兄王の意富祁命が即位された。
「日本書紀」には任那・高麗との通交の記事が残されている。阿閉臣事代が、命を受け任那に使いを出した。
この時月の神が憑いて「皇祖、高皇産霊は天地を造りなった巧がある。献上すれば、慶福が得られるであろう」山城国の歌荒樔田を奉じ、壱岐の県主の祖先が押見宿禰がお祠り仕えた。
この年に、紀伊磐宿禰が、任那から高麗へ行き交い、官府を整えて自ら神聖と名乗った。任那の佐魯、那奇他甲背らが計り、百済の臣を殺し帯山城を築き東道を守った。勢い盛んで打ち破って言った。
こうして父王の無念を晴らし、助けたものには恩賞を与えられた。

「仁賢天皇」億計尊・大脚、父は市辺之忍歯王、母は蟻臣夷媛、皇后春日娘皇女、没年50歳、在位11年間、陵墓埴生坂本陵(藤井寺市青山)、皇宮石上広高宮。
天皇は石上広高宮にあって和珥氏系の女性と結婚関係が有ったとされている。その一人に雄略天皇と
珥臣深目の娘との間にできた春日大娘皇女である。雄略の童女君と一夜的妻がいて、それが仁堅天皇の皇后の正統化にさせ、更に継体天皇の皇后になった。ワニ氏系の天皇である。
「古事記」には簡単な記述のみ述べられている。手白香皇女の生母の血筋を引くもの重く見る考えがあって、もう一人の妃も和珥氏に出自する女姓で春日山田皇女をもうけ、継体の皇子安閑の妃となった。宣化天皇の妃も仁堅天皇の娘の橘仲皇女であった。
そうして継体天皇の血脈の継承を複線を打ち出すことによって、継体以降の連続性を強調する思惑があったようである。仁堅天皇には皇女が多く、皇子は一人、それも実在は疑問視されている。
「日本書紀」には「日鷹吉高麗に使わす」記述が残されている。
日鷹吉士を遣わして高麗に送り、巧手者を召された。その残された女の嘆きと泣き声と物語を書き綴ったもの、があって再び高麗から帰ってきた様子を書き、高麗の渡来人を奉じ、その子孫が倭国山辺郡の額田の皮工高麗の子孫と記されているが、その内容に意味不明なとこがあって判読しにくいものがある。

「武烈天皇」小泊瀬稚鷦鰞尊、父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女、皇后春日娘子、没年18年、皇宮泊瀬列城宮、陵墓傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市今泉)
母は雄略天皇が和珥深目の娘を娶って産んだ女性なので、ワニ氏系の天皇といえる。
「日本書記」には“影媛と鮪”の説話には、武烈天皇には御子がなく、臣下の平群真鳥臣の勢力の台頭が見られる。
仁賢天皇の崩御後、欲しいままに天皇を欺くように節度をわきまえなかった。物部角鹿火大連の女の影媛を娶ろうとされ、仲人を命じて影媛の家に赴き約束された。影媛は真鳥大臣の子に鮪に犯されていたので、大子に発覚すること怖れて、表面的には造ろう、命に反し裏で影媛は通じ、偽り続けた。無礼な親子についに太子は怒られた。
大伴金村連の命じて、兵を集め討つことを計画された。
大伴連は数千の兵を率いて、逃げ道を塞ぎ、奈良山に殺した。影媛はその有様を見て気を失った。大伴連は太子に進言し、平群真鳥を討つ事を提案し相談した。
大伴連は兵を率いて、真鳥の館を取り囲み焼き払った。その責めは一族にまで及んだ。全てが終わった後、大伴連は太子の徳を讃えて、即位を奉じた。
その恩賞か大伴金村連は大連とした。
”武烈の暴虐“の説話に武烈天皇の暴虐は人民の評判は芳しくなったようである。
春日郎子を皇后として立てたその年に、妊婦の腹を割き、胎児を見た。翌年には人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。翌年には人の頭の髪を抜いて樹の上に登らせて、木を切り倒して落とし殺し面白がった。
こんな武烈天皇の愚行を百済の王を例えに出して、百済の未多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王である。
その後、武列天皇の残虐な愚行が記載されている。
人を池の堤の桶に入れて、外に流れるのを三つの刃の矛で刺し殺して、喜んだ。
詔して、「国政を伝えるかなめは、自分の子を跡継ぎに立てることが重要である。自分には後継ぎがない。何を持って名を伝えようか。」と継嗣に恵まれなかった天皇の嘆きが伝わる。
ある年には、女を裸にして、平板の上に座らせて、馬を引き出して面前で交尾をさせた。女性の陰部を調べ、うるおっている物は殺し、うるおっていない者は、官婢として召しあげた。思うつくままに、贅を尽くし暖衣をまとい、百姓の凍えることを意に介せず、美食を口にして民の上を忘れた。ふしだらな騒ぎを欲しいままに、酒と女に溺れた天皇は列城宮にて崩御した。
*天皇の残虐性は継嗣のいなかった事と、嗜める者もない孤独さを伝え、自暴自棄の用紙が窺えるものである。「日本書紀」の編纂者は、皇祖を恥じる事無く、赤裸々に武烈天皇を書き記している。

「継体天皇」大男迹王・彦太尊、父は彦主人王、母は振媛、皇后手白髪郎女、后妃尾張目子媛。没年82年、在位25年、皇宮樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余王穂宮、陵墓三嶋藍野陵(茨木市太田)
皇孫の中でも、最も特異な継承で皇位を引き継いだ天皇と言えよう。
万世一系の皇孫に有って傍系といって、よいほどの「古事記」には「品太天皇」五世之孫して、「日本書記」には応神天皇の五世孫、母方は垂仁天皇の八世孫で、父の名は彦主人王、母の名は振媛と記されている。
振媛について「日本書紀」には振媛の容姿端麗でたいそう美人の噂を聞き、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召しいれて妃とされたと言う。 その後継体天皇の父王が亡くなられたので母方の高向(越前国坂井郡高向)の帰り親の面倒を見ながら育てたいと越前に帰られたという。
五代の前の祖先が天皇といったもので、遠祖を立てなくても、大和王朝の近親の皇子、王が存在して居ただろうが、皇位を継承御子が途絶える事が考えられるであろうか、五代前の地方の皇族を継承させなければ成らない、深い理由が有ったのかも知れない。
「古事記」では継体天皇の出自については「近淡海国」〔近江国〕「近江国高島郡」で生まれ、幼少期母と「越前三国」に行きそこで育った。
大和、河内から遠く離れた所に居る皇系の存在も不自然に思われる。
「日本書紀」には大伴金村大連などの重臣が集まって協議がされた。「今後継ぎが居ない、と憂い・・・・仲哀天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国の桑田郡に居られる。試みに兵士を遣わしお迎えしてはどうか」と言った。所が、計画通り迎えに行った所、兵士を見て望見して恐れをなして、山中に遁走し行方不明となった。
また重臣が集まって協議が行なわれ、男大迹王は性格の良い情け深く、皇位を継ぐに相応しいお方で、お勧めして皇統を栄えさせよう」物部角鹿火大連、許勢男人大臣らは皆他に見当たらないと賛同し、再度迎えに行くことが決定した。
連らが、君命を受けて節の旗を持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。兵士らが囲い守り、容疑いかめしく先払いをしながら到着すると、男大迹天皇は、ゆったりと床几にかけて侍従を整列させて、既に天子としての風格をそなえられていた。
天皇は河内国交野郡葛葉の宮につかれた。重臣は天子のみしるしの鏡、剣を立ては拝礼をしたが、天皇は「国を治めることは大事なことだ、自分としては天子としての才能はない。力不足である。良く考えて賢者を選んで欲しい」と辞退されたと言う。
大伴大連らは口を揃えて「国を治められる適任者です。どうか国の為に、多数の者の願を聞いてください」重臣ら世を治めるには、確かな皇太子が必要と后妃を進めた。
先々代の仁賢天皇の皇女である手白髪命を進め、娶られた。やがて生まれた皇子が天国排開広庭尊(欽命天皇)である。前王統の入り婿的な立場で血脈は引き継がれる。
元からの妃、尾張連草香の娘を目子媛と言う。二人の皇子を生み皆天下を治められた。
安閑天皇と宣化天皇である。
こうして葛葉(大阪枚方市)で即位したのちに、山城筒城〔京都府京田辺市〕に次ぎに弟国(京都府長岡京市・向日市)と遷都され、磐余穂宮〔奈良県桜井市〕に宮を置かれたときには二十年を経過していた。
* 一般的には継体天皇の天皇継承には王朝交代と見るのは自然と誰もが思い、皇位継承の血脈の大前提に、応神天皇、垂仁天皇の血脈を持って皇統の正当性に説得性を求めた。推測として近江、越前の大豪族が中央の王朝を倒し,大和に居を構えるに年数を要した。
一地方の豪族に妥協案に前王統の血を引く者の配偶者で后妃で、皇子の皇位を持って大和入りが可能になったのかも知れない。
もう一つに継体天皇擁立に大和の豪族、重臣らの積極的な働き掛けも王朝交代の説に考慮しなければならない。

「任那四県の割譲」 継体天皇時代の朝鮮半島との交渉はどうなったのか、穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫国の馬四十四匹賜った。
百済が使いを送り、任那の四県を欲しいと願った。穂積臣は奉じて「この四県はは百済と連なり、日本から遠く離れて国の様子がわかりにくい、このまま切り離した方が後世の安全の為に良いのでは」と大伴大連も同調した。
難波館に行き、百済の使に勅を伝えようとする時に妻が諌めて「住吉神は海の彼方は金銀の国である、百済、新羅、高麗は応神天皇が胎内に居られる時からお授けになった」こう言った流れに大伴大連は百済から「賄賂」を貰っている噂が流れた。
*大伴連が百済の任那四県を欲しい要求に取り成しをした形で、古代でも「賄賂」の風習があったのかも知れない。
「磐井の反乱」毛野臣が兵六万を率いて任那に行き、新羅の破られた南加羅を回復し、任那に合わせようとした。この時に筑紫国の国造の磐井が秘かに謀反を企て隙を窺っていた。
新羅はこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように進めた。そこで磐井は肥前、肥後、豊前、豊後などを押さえて軍が職務を果たせないように、外には海路を遮断し、高麗、任那、百済、新羅の貢物を船を欺き奪い、内には任那の毛野軍をさえぎり、混乱させた。
そこでこの乱を鎮める重臣が適任者を探したが、物部の角鹿火より他に居ないと、天皇に進言すると「それが良いと」物部角鹿火が派遣された。大将軍物部角鹿火と敵の首領磐井との激しい戦いでついに角鹿火は磐井を破り、反乱を鎮圧した。
天皇が病に犯されて八十二歳で崩御、在位二十五年で藍野陵に葬られた。

「安閑天皇」匂大兄尊・広国押武金日尊、父は継体天皇、母は春日山田郎女、没年八十歳、陵墓古市高屋丘陵(羽曳野市古市)
安閑天皇は即位前は勾大兄皇子と呼ばれ「勾」は大和高市の地名である。生まれ育ったのは母の出身地の尾張と見られ、「大兄」と名乗った皇子は多いが、勾大兄皇子は継体天皇の崩御の前に皇位に就けたと言う。実際は数年間は二朝並立状態だと見なす説も多い。
安閑、宣化は継体天皇が即位前で、尾張の后妃目子媛の生まれた皇子。欽明は天皇は仁賢天皇の皇女の手白髪郎女の生まれた皇子。安閑、宣化のほうが大和豪族の血脈からすれば、筋が通っている。
また継体天皇が八十二歳で崩御、安閑天皇の没年が七十歳、在位五年で年齢的に無理があるが、十七歳で生まれたことになる。
安閑天皇即位後、暗殺説もある。大和王朝内に二派があって、次の宣化天皇も五年の在位を考えればそれもうなずける。

「宣化天皇」檜隅高田皇子・武小広国押盾尊、父は継体天皇、母は尾張目子媛、没年七三歳、在位5年、皇宮檜隅廬入野宮、陵墓身狭花鳥坂上陵〔奈良県柏原市鳥屋町〕
宣化天皇は即位前は「檜隅高田皇子」と呼ばれ安閑天皇同様、尾張連の出身で生まれ育ったのは、尾張と言われている。
宣化は仁賢の皇女の橘仲皇女を娶り、石姫を産ませている。石姫は欽明天皇の后妃となって、後の敏達天皇を生んでいて、後々の皇継に繫がってゆく、また宣化の末裔には皇族が残されている。継体の皇子の内一番深く、前々皇系に結びついているのが、万世一系の理に適う一筋の糸であった。宣化天皇には即位と共に、蘇我稲目の起用である。

「欽明天皇」天国排開広庭尊、父は継体天皇、母は手白髪郎女、后妃蘇我堅塩媛・蘇我子姉、没年63歳、在位33年間、皇宮磯城島金刺宮、陵墓橧隅坂合陵(奈良県明日香村)
欽明天皇の「嫡子」と記される。安閑、宣化天皇の尾張連の出身と違って、仁賢天皇の皇女、手白髪皇女の血を引いていることの強調にある。母方を通して、雄略天皇の血も引いているのである。
もう一つ特記される点は、未来の王権を脅かすであろう、大物豪族の起用と血縁関係の構築で、蘇我一族の台頭をきっかけとなる后妃の関係である。欽明天皇の六人の后妃に内、異母兄宣化の娘、三人の石姫らと二人は蘇我稲目の娘の堅塩媛、小姉君、もう一人はワニ系の女性である。
ここから用明、崇峻、推古の三人の天皇を輩出するのである。蘇我氏に取り天皇家と婚姻関係を結ぶことによって、確固たる基盤を築く思惑と、飛鳥時代への大きな布石となった。
「日本書紀」によると百済の聖明王より、欽明天皇に仏像に経典が送られてきた。重臣の内、蘇我稲目だけが賛成し、仏像を稲目に渡した。以後日本は仏教導入を通して紛糾し波乱が生まれるのであった。
大伴金村の失脚は蘇我の台頭と同時に、ふとした発言から大伴金村は失脚し時代の趨勢を物語、廃仏派の物部氏と蘇我氏の対立で、物部氏は失脚してゆくのである。
外交では新羅謀略の戒め、任那を廻り、新羅が偽装し、一方任那は日本に復興の要請と、百済が絡み複雑に事態は変わってゆき、任那の復興の計画の最中、百済が高句麗に攻略され、防御に日本に救援要請が求められる。その内に任那が滅亡し朝鮮半島は混乱は、次ぎの飛鳥王朝時代の天皇に引き継がれてゆく。
                 了
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『三輪王朝成立の謎』川村一彦

2014-04-13 06:25:23 | 小論文
三輪王朝の成立の謎                    

「崇神天皇」は紀元前148年に生まれたとされ、名は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラギノミコト)または御肇國天皇と讃えられ、神武天皇以来実在する天皇とされている。
開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(イカガシコメノミコト)異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)異母弟に彦坐王(神功皇后)の祖。                         
皇后に、御間城姫、大彦命女(孝元天皇)の皇子。         
皇子、活目入彦五十侠茅尊、彦五十狭茅尊。皇女四命。
妃、遠津年魚眼眼妙媛、紀伊国荒河戸畔女。皇子、豊城入彦命、皇女一命。
妃、尾張大海媛、津宇那比命。皇子、大入杵命、八坂入彦命。
皇居は磯城瑞籬宮で「古事記」には師木の水垣宮。

「古事記」この天皇の時代には疫病が流行し、天皇は心配し、神意を問うた所、夜に寝床の着いた夢の中にオホモノヌシの大神が現れて「疫病は私の意志によるもの、オオタタネコという人に祭らせらせるならば、神の祟りは起らなくなる」とお告げが有った。オオタネコという人を八方尽くし探した所、河内国の美奴村にその人を見出した。
天皇は喜び直ちにオオタタネコを神主にして丁重に祭った所、疫病は治まり国内は平穏になった。このオホタタネコが神の子孫と分かったのはこんな逸話がった。
イケタマヨリヒメと言う、美しく輝く姫のところに、ある夜比類のない気高い男が現れ二人はひとめぼれで愛し合い結婚、日も経たない内に身篭った。
父母は不審に思い娘に尋ねて「お前は夫もいないのに身篭ったのか」と言ったら、「たいそう立派な男が夜毎通ってきて、いつの間にか身篭ってしまいました」これを聞き父母は素性を知ろうと床に赤い土、赤い糸を用意、男が来たら着物の裾に糸を付ける様に、翌朝糸は三巻き残っていて、鍵穴から糸は三輪山につ通いていた。生まれる子が三輪のオオモノヌシ神の子と分かった。

もう一つの説話に今日「魏志倭人伝」の邪馬台国の卑弥呼の墓と推測されつつある「箸塚古墳」の説話に孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメノ命がオホモノヌシの妻となった。
神の姿が櫛の中を見ると、美しい子蛇であったのに驚いて叫ぶと、神は辱められたのに怒って三輪山に帰った。
姫は悔い箸を陰部を突いて急死した話であるが、昨今孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメノ命は箸墓が造営年、規模、発掘出土品から科学的検査で卑弥呼の時代と一致で、邪馬台国説に重きを成してきた。
* このオホモノヌシ説話は大和の地に天津神の融合と掌握と見られている。
元々オホモノヌシ神は出雲系の神、この蛇神信仰は大和の古くより伝承された有力な神である。
初代天皇の逸話に神武天皇の皇后のイスケヨリヒメはオホモノヌシの女で、朱塗りの矢の説話は崇神天皇まで引き継がれ、三輪の神オホモノヌシ国津神と皇室との関係は緊密で、とりもなおさず大和の旧来の氏族、豪族との関係が説話が残っている形である。こう言った伝説、説話は大陸から東南アジアにも伝え残っていて、人類の移動は広く分布してるものである。

崇神天皇の諸国平定に、天皇はオホビコノ命を越国に遣わした。その子タケヌナカハワケノ命を東方12国に遣わし、次々征服し服従させていった。ヒコイマスノ王を越国に下されたときに、腰裳を着けた少女が山城の幣羅坂の立って歌うに「ミマキイリビコは・・・」の不思議な歌に、胸騒ぎに都に引き返した、天皇に指示を仰ぐと、「山城国にいるあなたの異母兄のタケハニヤスノ王が反逆を起こしたに違いない」そこで和邇臣の祖先のヒコクニブクノを副えられて、山城のタケハニヤスノ王を討ちに、互い戦いを仕掛けた。矢の打ち合いでタケハヤスノ王の矢は外れ、クニブクノ王の矢はタケハニヤスノ王に命中し王は死んだ。こうして北陸道を征服していった。
更にオホビコノ命は、詔により越国の平定に行かれた。所が父タケヌマカハワケ命と会津で行き会った。それぞれ遣わされた国々を服従させ任を終えて天皇に復命をした。そこで天皇は「初国知らしし御真木天皇」と申す。
天皇御年168歳崩御、御陵は山辺道の勾の岡のほとりにある。
*崇神天皇は「古事記」にも「日本書紀」にも「初国知らしし御真木天皇」「御肇国天皇」大和王国の始祖と思われている。
説話には大物主と天皇の融和の関係と大物主神の威厳を知らしめる項目となっている。

「日本書記」御間城入彦五十瓊殖天皇は開化天皇の第二子である。母は伊香色謎命と言い、物部氏の祖先の大綜麻杵の娘である。天皇は十九才で皇太子になられた。善悪の識別する力に優れていた。
都を磯城に移し、瑞籬宮という。国内疫病がはやり民死ぬも多く、半分が死ぬほどであった。天皇は神々を祭らせた、そこで占いで災い起こるわけを究めようと、天皇は神浅茅原で八十万の神々を招き占いをされた。
「もし吾を敬い祀れば、きっと自然に平ぐだろう」それを聞いて天皇はどちらの神かと問いただした。「我は倭国の境の内にいる神、大物主神という」そして大田田根子に我を祀らせればたちどころに平らぐだろう。そこで太田田根子を探された。
見つけられた太田田根子に大物主神を祀らせると疫病は治まり、国内は鎮まり、五穀は実り百姓は賑わった。
四道将軍の派遣、大彦命に北陸道を、武淳川別に東海、吉備津彦を西海に、丹波道主命に丹波に遣わされた。天皇の叔母ヤマトトトヒモモヒメ命に物事の予知を感じ「これは武埴安命(孝元天皇の皇子)の謀反を感知、武埴安命の妻がこっそり呪言、これに天皇は諸将 を集め対坑に議せられた。
武埴安命と妻吾田媛は軍を率いてやってきて夫は山城から妻は大坂から京を襲うとしたが、五十狭芹彦命を遣わし、妻の軍に吉備津彦が応戦、悉く切り捨てた。大彦と和珥氏の祖先、彦国葺を遣わし山背へ行かせ武埴安命討たせた。
倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻になった。昼は来ないが夜にだけやってきた。大物主神に姿を見たいと大神は答えて「朝になれば櫛箱に入っていよう決して驚かないように」と言って夜明けを待って櫛箱を開けてみると、子蛇が入っていた。
それを見て驚いて叫ぶと、たちまち人の形になって、大神は恥じて「お前はがまんが出来ず、私に恥をかかせた、お前をはずかしめにさせよう」三輪山に隠れてしまった。倭迹迹日百襲姫命は悔いて尻餅を突いてしまった。そのときに陰部を突いて死んでしまった。その墓が今卑弥呼の墓と目されている「箸墓古墳」である。
「御肇国天皇の称号」天皇は詔して天位についての抱負を述べられ、人民の戸口を調べ課役を仰せ付けられた。
「神宝」軍臣に対して「武日照命の天から持ってこられた神宝を、出雲大社の宮の収めているものを見たい」と言われ、武諸隅を遣わし奉らせた。
この時には出雲振根が管理をしていたが、筑紫に出かけていたので弟の飯入根が皇命を守り、弟と子に持って奉らせた。筑紫から帰った出雲振根は「神宝」を渡した事に怒り、弟と子を策略を講じて殺そうとした、そのことを弟と子が朝廷に報告をした。直ちに吉備津彦と武淳河別を使わして、出雲振根を殺させた。出雲臣はしばらく出雲大社を祭らなかった。
* 「日本書記」では「古事記」と同じような事柄が記されているが、出雲の神宝についてはまだ
まだ天津神と国津神の対立の構図は残されている。

「垂仁天皇」は紀元前29年に生まれ、名は活目入彦狭茅尊と呼ばれ、崇神天皇の第三子である。母は御間城姫という。大彦命の娘である。
狭穂姫サボビメを皇后にされ、誉津別命が生まれた。天皇はこれを愛しておられ常に身近に置かれ、大きくなっても物を言われなかった。
「古事記」「説話」“沙本毘古と沙本毘売“天皇はサボビメを大切にしていました。ソホビメの所に兄サホビコ王がやってきて「夫と兄どちらが愛しているか」と尋ねた、兄と答えるとサホビコ王は小刀を渡して天皇が寝入った隙を見て刺すようにように告げた。天皇が自分の膝の上で昼寝をしている時に小刀を懐中から出して振り上げた所、天皇への慕情で、なかなか実行に移せなかった。
3度目には思わず涙が流れて落ちて天皇の顔にかかり、目を覚ましたので、目を覚ました天皇に全てを打ち明けた。直ちに天皇は兄の稲城に出撃し、サホビコ王は迎え撃った。サボヒメはこっそり兄の稲城に行ってしまい困り果てたイクメイリビコはサホビメを奪還しょうと試みますがすでにサボヒメの御腹には皇子を宿していた。
天皇は数ヶ月が経つと宮殿で皇子を育てることを伝えた結果は策を講じて奪還を試みたが、やむ得ず天皇は稲城に火を放ち、サボヒメは兄とともに死んで行った。

イクメイリビコイサチノ命(垂仁天皇)は磯城の玉垣宮において天下を治めた。
サホビコノ妹のサハジヒメノ命を妻とされ生まれた皇子は、ホムツワケノ命、ヒバスヒメノ命を妻にして生まれた皇子はイニシキノイリヒコノ命、次ぎにオホタラシヒコ命、ワカキヒリヒコノ命。ヌバタイリヒメノ命を妻に生まれた皇子は、ヌタラシワケノ命、イガタラシヒコノ命である。
アザミイノリビメノ命を妻に生まれた皇子は、イコバヤワケノ命、アザミツヒメノ命。カグヤヒメノ命を妻に生まれた皇子は、ヲザベノ命。カリハトベ命を妻に生まれた皇子は、オチワケノ王、イカタラシヒコノ王、イトシワケノ王、オトカリハタトベ命を妻にして生まれた皇子は、イハツクワケノ王、イワツクビメノ王全ての天皇の十六王、十三皇子、3皇女である。
崇任天皇の皇子イニシキノイリヒコノ命は横刀壱千口を作らせて石上神社に奉納させた。五十瓊敷入彦命は剣一千口石上神社に納め、石上神社の神宝を管理したという。奈良時代から、平安時代掛けて武器庫の様相をしていたようだ。
垂仁紀には倭姫命を天照大神の神霊を奉じて鎮める所も求めて、近江、美濃を経て伊勢国に至った。伊勢神社が皇室と深い関係で奉られるようになったのは、六世紀頃、壬申乱以降と思われている。

天皇はその皇子ホムチワケ王を連れて遊ばれた、ホムチワケ王を寵愛されたが、この皇子髪が胸元にまで届くようになっても、口が利けなかった。そしてある日に、空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて、初めて片言を喋れるようになった。
そこでヤマノベノオホタカという人を遣わして、その鳥を捕らえさせた。その白鳥は、紀伊国から、播磨国に至り,更に追って因幡国を超えて、丹波国、但馬の国を至り、東の方向に飛び、美濃の国から尾張の国に、信濃の国に越しの国に、和那美の水門国に網を引き、その鳥を捕まえて京に上がって献上されて、御覧になったが物を喋ることがなかった。
今度は天皇が夢に現れて「私の神殿を天皇のような宮殿を造ってくれるならば、皇子は必ず物を言うことが出来ると、お告げが会った。
その祟りは出雲の大神の御心であった。その出雲の大神の宮に参拝させる為に誓約を交わせた結果、アケタツノ王とナカミノ王をホムチワケノ王に副えて、一つ一つ行く道にも心配され到着になられる土地ごとに、御名代として品遅部を定めになった。
出雲に着いて、大神に参拝を済ませ、大和に戻られる時に、肥河で出雲国造の祖先の贈り物に、アシハタシコエヲノ大神を敬い、皇子は一夜ヲヒメガヒメと契りを結び、その後そっと覗いてみるとその正体は蛇であった。
驚いた大和に逃げ帰り、姫は悲しんで追いかけてきた。結果皇子は物を喋れるようになった。早速出雲に対して神殿を造らせた。
* 今回の説話も出雲の祟りと、祭ることで解消し、見返りに出雲の神殿を造る話と、蛇の登場は一つの話の筋道となっている。

また常世国の説話に三宅連の記述がある。三宅連の祖先にタジマモリは遥か遠い常世国に遣わされた、時を超え良い香りのする木を求めさせられた。タジマモリはついに見つけ持ち帰った。縵橘8本、矛橘8本を携えて帰ってきたが、天皇は亡くなっていた。そこでもって帰った半分を皇后に、半分を天皇の御陵に供えた。
* ここに常世国が出てくるが、常世国は遥か海を越えた、未知の世界、三宅連は天日桙命の末裔、但馬国の出石の新羅と国の関係で遣わされたのかも知れない。橘の木は柑橘類、みかんの木で香りがする。

「日本書紀」に冒頭の崇仁天皇については、「古事記」の記述と変わりはない。
任那・新羅の紛争の説話を記されておる。
任那の先帝に来朝し帰りそびれてしまった人、蘇那曷叱智の話で「国に帰りたい」の望みに赤織の絹百匹を持たせ先帝の「御間城天皇」名を取ってお前の国名にせよと、任那の国に帰された。所が途中新羅の人が襲い争いになった。

狭穂彦王の反乱の記述は筋書きは「古事記」と同じであるが、若干表現の違いがある。
「角力の元祖」天皇は「タギマノクエハヤ」は天下一の力持ち、これに勝る者はいるかと尋ねられ。一人の臣が進み出て「出雲の野見の宿禰が居ります」早速出雲から野見の宿禰を呼び、勝負をさせた。野見の宿禰がヤギマノクエハヤを骨を踏み砕き腰を握りつぶした。タギマノクエハヤ波土地を没収され全て野見の宿禰に与えられた。
「伊勢の祭祀」について記されている。天照大神を倭姫命に託された。倭姫は大神の鎮座地を求めて、宇陀の篠幡から、近江国に更に美濃を巡って伊勢に入った。天照大神は「伊勢国は波打ち寄せる、傍国の美しい国である。この国にいたいと思う」五十鈴川の畔に斎宮を建てられたという。

「天日槍と神宝」ある時「新羅の王子、天日槍がやってきた時に、宝物は今但馬にある。その神宝を見たい」と言われ、天日槍の曾孫清彦に詔された。清彦は勅を受け「神宝」を献上した。
羽太の玉一つ、足高の玉一つ、うかかの赤石の玉一つ、日鏡一つ、熊のひもろぎ一つ、ただ太刀一つのだけ隠し献上しなかったが、天皇の問いに後で献上したが「天皇の下から太刀は無くなっていた」清彦に尋ねると、昨夜太刀は自分の家にやってきたが、今朝には有りませんと答えた。その太刀は一人で淡路島に行った説話である。

「田道間守」の常世国の話は古事記に出てくる「橘」に話と違って、田道間守は常世国に行って、非常の香果「八竽八縵」を捜し求めて帰還して見ると天皇は無くなっていた話である。

「景行天皇」名は大帯日子淤斯呂和気天皇、諡号はタラシコネでタラシコネはその後天皇に関連性のある名である。
「古事記」には宮は纏向の日代宮で天下を治めたと言う。在位60年、没年143歳と記されている。妃に吉備臣の祖若建吉備津日子の娘、名は針間之伊那毘野取太郎を娶った。産んだ皇子80人、妃は多く、皇子の中に英雄伝説のヤマトタケル命が含まれている。
「古事記」には景行天皇については大確命と小確命の説話が多く占め、この「古代王朝伝説の群像」に書かれているのでその部分は後編で述べることにして、父王の気まぐれで多情な一面は、大確命(オホウス)に書かれている。
三野国(美濃)造の祖大根王の女、名は兄比売、弟比売の二人、容姿麗しくことを聞きか確められて皇子オホウス命を遣わして宮中にお召しになった。
所がその遣わされたオホウスはそのことを知らせずに自分自身が二人を結婚してしまった。更に別の女性を捜し、偽って天皇に差し出した。
その後その偽りが発覚し弟の小確命(ヲウス)に諭す様に命じた所、兄のオホウスは一行に天皇の前に顔を出さないので、不審に思い問い正した所、「夜明けに兄が厠に入った時、待ちうけ捕らえてつかみうち、手足をもぎ取り、薦に包んで棄てた」以後天皇は猛々しい性格を嫌って遠ざけるようになったと言う。
以降についてはヤマトタケル伝説の通りである。

「日本書記」は景行天皇では九州熊襲征伐が述べられている。熊襲がそむいて貢物を贈らなかった。天皇は筑紫に向い,周芳の沙麼(さば)に着かれ、南の方を眺め賊がいると感じ、多臣、国前臣、物部臣を様子を見に行かされた。
白旗を立て、攻めないでください、帰順しますと悪い賊ではないと訴えてきた。本当に悪い四人、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折が居ること伝えて「皇命に従わない」と言っています。それらをおびき出し全部捕まえ殺してしまった。
その後,碩田国(大分)に着かれ、速見村に着き、この村に速津媛と言う長が天皇を出迎えて申すには、この山の大きな石窟に二人の土蜘蛛が住んでおります。一人は青、一人は白で、直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛がいます。この五人の土蜘蛛は強力で仲間が多く「皇命には従わない」と言っております。
天皇は軍臣を集めて、椿の木を取って椎を造り、これを武器された。石室の土蜘蛛を襲い、悉く仲間を殺した。それから日向に着かれ行宮を立ててお住まわれた。
熊襲討伐説話、襲の国に厚鹿文、迮鹿文の二人の勇者は強勇で手下が多い、これらを熊襲の八十梟師と言っている。「熊襲梟師」(クマソタケル)には二人の妹が居ります。姉市乾鹿文と妹市鹿文がいます。容姿端麗で気が荒い者ですが、贈り物で手下にすれば良いでしょう。そこで贈り物で二人の女を欺いて味方につけ、姉の市乾鹿文娘は父を裏切り酒を飲ませた。
従兵が熊襲梟師を殺した。天皇はその娘の不幸を憎み、姉の市乾鹿文を殺させた。妹の市鹿文は火国造に賜った。悉く襲の国を平らげた。高屋宮ですでに六年、御刀媛を召して妃とされ、豊国別皇子を産んだ。これが日向国造の祖先である。
その後天皇は筑紫の国を巡行され、最初に東守〔宮崎県小林〕に着かれ、更に熊県(熊本懸球磨郡)で熊津彦と言う兄弟がいて、兄熊、弟熊を呼ばれたが、これに従われなかったので、討たれた。葦北から船を出し火国に着いた。そこで火の光る邑に着かれ、場所聞かれ「これは八代県の豊村です」と答えると「火国」と名付けられた。
そこから高来県から玉杵名邑で土蜘蛛津頬を殺された。そこから阿蘇国に着かれ二人の神に会われた。阿蘇津彦と、阿蘇津媛だあった。この地を阿蘇国と名付けられた。その後は筑紫後国の三宅に着かれ、日向から大和にお帰りになった。

* 崇神天皇・垂仁天皇は大和三輪を中心に、大国主との融和に展開されたが、景行天皇の行動範囲は九州まで平定、王朝の基盤を機内から地方に広げられて、勢力範囲が九州地方の熊襲に向けられた。婚姻関係でも吉備、三重と各豪族との結びつきを強化された形跡が見られる。この景行天皇の勢力拡大が皇子ヤマトタケル命に引き継がれ東征へと展開されてゆくのである。

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『ヤマトタケル英雄伝説』川村一彦

2014-04-12 06:37:12 | 小論文
ヤマトタケル英雄伝説の謎                          

日本人の英雄伝説で、最も人気の高い「ヤマトタケル」の伝説は今も語り継がれ人々の脳裏に刻まれている。
 「記紀」に記されている「ヤマトタケル」は“小確尊”(ヲウスのみこと)のことである。
「記紀」に編纂されている「ヤマトタケル」は「日本書記」と「先代旧事本紀」では”日本武尊“称し、「古事記」では倭建命と称され、内容も「日本書紀」では少し趣が違い「古事記」の方が詳しく記されている。
主人公の「ヤマトタケル」の猛々しい活躍と、叔母倭媛と皇継関係とヤマトタケルの裏面性も赤裸々に描かれ、大和王朝を取り巻く政治と支配状況と、地域の土地柄を知らしめる遠征と、悲運な「ヤマトタケル」の終末が日本人の共感を呼び伝説が今尚語り続けられている。
小確(ヲウス)大確(オホウス)
父王オホタラシヒコシロワケの多くの妃を持ち八十人の皇子が生まれて上に、三野国(美濃)の噂の美くしき姉妹姫を娶る為に兄のオホウスに連れ帰る事から端を発する。
その美しき姉妹姫はエヒメとオトヒメと言う、兄のオホウスは二人の姫を自分の妻にしてしまい別の娘を父王に差し出した。
「記紀」描かれている王継を廻り紛争は兄、弟など女性問題が絡み正統性を関連付け引き継がれている。
このヤマトタケルの場合も兄オホウスと弟のヲウスの展開から始まり、兄のヲホウスの父王に背信行為に、少年であったヲウスが諭し役になり、兄オホウスが厠に入る所を掴み手足を引きちぎり、薦に入れ投げ捨てる。
「日本書記」には兄殺しの記載なく父王の一旦九州平定の後、16歳のヲウスに討伐に遣わした。倭姫の登場もない。

* この凄い腕力は出雲の国譲りの場面で高天原の使いのタケミカズチが、タケミナカタが抵抗したので、握りつぶし身体を投げ飛ばし諏訪まで追い詰めた強力に似ている。

この話を聞いた父王(景行天皇)ホタラシヒコは、わが子の制御の効かない暴力的な性格に慄然とし、豪腕ヲウスを恐れ疎んじ、排除を企て九州を支配しているクマソタケル兄弟を討ち取るように命じた。
* この時代には九州に抵抗する強力な種族の熊襲、隼人が大和王朝に激しい抵抗して抵抗していたのだろう。一般的に熊襲と隼人は同一視されているが九州に置く別の種族で時期的に隼人は平安時代に登場し霧島市から隼人の石塚が出土されている。天孫降臨の日向三代の兄海彦幸の弟山彦幸の登場で皇継に成れなかった山彦幸の末裔とされている。
 
力を持て余すヲウスは父王の真意を知らず喜び九州に向かうがその前に叔母ヤマトヒメの所に寄って「御衣と御裳」をお守りとして受け取り意気揚々と西に向かった。
* この場面で出てくるヤマトヒメ(倭姫命)は父王の妹姫で伊勢の祭祀を司る。豊鍬入彦命の後を継ぎ天照大神の御杖代として大和から伊勢の国に入り、神託により皇大神宮を創建したと伝えられる。ヤマトヒメについては東征の折にも立ち寄り何かにつけヤマトタケルに励まし支えになっているようである。
熊襲征伐へ
大和を旅立ったヲウスは熊襲の首長クマソタケル兄弟の征伐に向かった。手勢やどの様な行程は定かではないが、ヲウスは策略を練って、熊襲の館に忍び込み「麗しき娘の姿」の女装で祝宴に紛れ込みクマソタケルに近づき酌をして廻った。叔母ヤマトヒメから授かった御衣で変装し、色白で妖艶なヲウスの女装に心奪われ二人の隙を見て、突然兄クマソに襲い掛かり胸に突き刺した。
さしずめ15.6歳の美少年であったろう。そんな妖艶な美少年に油断したのか、不意を突かれた勇猛な熊襲タケルは、ヲウスの短剣の一刺しで絶命、その様子を見た弟タケルは逃げ出したが酒に酔って逃げ出せず、館の端に追い詰められ、背中を掴み尻を一突き通した。瀕死の弟タケルは今際の際で相手の名を問うた。
私はヲウスまたの名は「ヤマトヲグナ」と答えると、弟のタケルは自分達より強い者達が西方に居た事知った。その勇猛さを讃えて「ヤマトタケル」の名を与えた。絶命したタケルをヲウスは剣を引き抜き果実を切り刻むが如く斬殺をした。以後ヲウスは「ヤマトタケル」を名乗ることになった。
* この熊襲征伐に巧妙な策略と残虐な殺戮方法を「記紀」は飾り立てる事なく赤裸々に描写している。この時代には仕返や反逆を恐れ、根絶やしに抹殺する種族存続に激しい争いがあったのかも知れない。当時の遺跡の人骨に刻み込まれた痕跡があり、大和王朝の覇権拡大の手段の選択は無く、地方の種族の熊襲が「ヤマトタケル」の名を与える事で傘下、従属を示したのであろう。
出雲征伐へ
熊襲征伐を終えたヤマトタケルは筑紫水門から日本海に沿って北上し「出雲国」に入った。出雲に着いた「ヤマトタケル」の武勇は伝わっていたのか「イズモタケル」と友情結んだ。ある日の事、「ヤマトタケル」は木で造った偽物の剣を腰に吊るし、イズモタケルを誘い肥の河に水浴に出かけた。
水浴を終え「太刀の交換」を提案し先に水から上がった「ヤマトタケル」はイヅモタケルの太刀を腰につけ、後から上がったイズモタケルは残された「ヤマトタケル」の太刀を腰につけた。そこで「ヤマトタケル」は太刀合せを挑んだ、偽物で太刀は抜けないイズモタケルの隙を見て一機に切り殺してしまった。
* 出雲に入って「イヅモタケル」「熊襲タケル」タケルは日本書記の「武」古事記の「建」と勇ましい男の美称だったのだろう。
しかし今回も「太刀の交換」と言う友情の証とでも言う口述で、手段を選ばない姑息な策略で出雲国のイズモタケルを屈服させたのである。古代謎に包まれた巨大な出雲国家の中央王権への抵抗の激しさを物語る。また「古事記神話」の国譲りを連想される。突如現れた出雲地方の荒神谷遺跡は「銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個」が出土、何故あれだけの武器が一箇所に埋めなければならなかったかは解明されていない。
ただしイヅモタケルについては「日本書記」にはこの出雲の物語は一切再登場せず、熊襲征伐後は吉備や難波の邪神を退治し、内海の水路を開いたとして天皇の賞賛を受けた。
東征へ
大和に帰還した「ヤマトタケル」は何の労いの言葉も無く、直ちに東征への出発
の命令であった。
◎ 「古事記」では西方の蛮族から帰ると直ぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の征伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父王のは自分を死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙の剣)と袋を与え「危険時にはこれを開けなさい」と言う。
◎ 「日本書紀」には東征には将軍として兄のオホウス(大確命)が選ばれたが、怖れずいて逃げてしまい、代わりにヲウス(日本武尊)が名乗り、天皇は賞賛し皇位継承を約束する。また軍勢には吉備氏、大伴部氏を就け、古事記の記述には泣きながら趣くのと違って、喜び勇んで東征に趣いた。後は伊勢により倭姫命より「袋」と「草薙の剣」が与えられる。「草薙の剣」はスサノオが出雲での大蛇退治で尾の中から出てきた剣で「草薙の剣」は伊勢神宮にあったものとされている。
「古事記」には伊勢から尾張の尾張国造家に入り、美夜受媛と婚約をして相模国に、国造の荒ぶる神がいると欺かれ「ヤマトタケル」は野中で火攻めに遭ってしまう。
そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打ち石が入っており、草薙の剣で草を掃い、迎え火を点け逆に敵を焼き尽くしてしまう。その地を焼遣(焼津やきず)として地名として残っている。
相模から上総に渡る際に、水走の海(浦賀水道)を渡る時に大嵐に遭う。船は荒波に翻弄され進むことが出来ず、后橘媛が海を鎮める為に見ら命に替わり入水すると、波は自ら鎮まった。嵐の7日後に媛の櫛が浜辺に見つかったと言う。后弟橘媛の夫「ヤマトタケル」の恋い慕って回想する歌を詠んでいる。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」が「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語し神の怒りをかったと記されており、后弟橘媛は犠牲によって難局を逃れた事を記されている。
ヤマトタケルは更に東国に「蝦夷」を平定し、足柄坂(神奈川、静岡)の神を蒜(野生のひる)を打ち殺し、東国を平定し、四阿嶺に立ち、そこより東国を望み后弟橘媛を偲び「吾妻はや・(我妻よ)」と嘆いたと言う。それ以降、東国を「東、吾妻」と呼ぶようになったと言う。その後、甲斐国の酒折宮で連歌し難局を振り返る。その連歌の下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。
科野(信濃)経て尾張に入った。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」の行程が古事記と異なり上総から北上し北上川流域まで達し、陸奥平定後、甲斐酒折へ入り、ここで吉備津彦に「越」(北陸に向かわせた)「ヤマトタケル」は信濃の坂の神を蒜で殺し、越を廻った吉備津彦と合流した。
尾張に入った「ヤマトタケル」は結婚の約束をしていた「美夜受媛」と歌を交わし、そのまま結婚をしてしまう。神剣を美夜受媛に預けたままに、伊吹山のへその神を素手で討ち取ろうと出立する。この遍は日本書紀と同じである。
素手で伊吹の神と対決に趣いた「ヤマトタケル」の前に、白い大猪が現れるが、上の使いと軽く無視をした。実際は神の化身で大氷雨を降らされ失神させられつぃまう。山を下ったヤマトタケルは居醒めの清水で気を取り戻したが、既に病に侵されていた。
弱った身体で大和に目指して、当芸。杖衝坂、尾津、三重村と進み、その間地域の地名起源を描写しながら、死に際のヤマトタケルの心情を述べながら能煩野で「大和は国のまほろば・・・」と4首の歌を詠みながら亡くなった。
「日本書記」では伊吹山で大蛇をまたいで通ったことから神に怒りをかって氷を降らされ、病身となり尾津から能煩野に至り、伊勢神宮に蝦夷を献上、朝廷には吉備津彦に報告させ、三十歳で亡くなった。
* 東征では、九州や出雲の猛々しい活躍はなく苦戦を強いられている様子が窺える。幾度となく難局を踏破しながら「ヤマトタケル」の個性を十分察し出来る描写が続き、后の登場と助けを必要とし、身を呈して救った弟橘媛への慕情と葛藤の歌が詠まれている。荒ぶる神々は蝦夷や地域の種族、豪族であろう。国造の役人も配置が伺え、大和朝廷の支配地がまばらに存在していたことも推測できる。
また叔母のヤマトヒメの授かった草薙の剣も火打石も威力を発揮できず「日本書記」には吉備津彦、大伴部氏を共に就けているがその動向は伝えていない。叔母から授かった「草薙の剣」は伊吹山で結婚した美夜受媛に預けて荒ぶる神に立ち向かう、この「草薙の劔」は草を掃って難を逃れる、不思議な神通力の劔を忘れたがこのヤマトタケルに登場させたのは皇位の「三種の神器」の正統性を示す為とも言われ、その後、美夜受媛の元に熱田神宮に祭られている事になった。
白鳥になった「ヤマトタケル」
「古事記」ではヤマトタケルの死の知らせを聞いて、大和から訪れた后や皇子達は陵墓を造り周りを這い回り、八尋白智鳥と化した「ヤマトタケル」を歌を詠いながら後を追った。
白鳥は伊勢を出て、河内の国志畿に留まり、そこに陵墓を造るが、やがて大空に舞い上がっていった。
「日本書紀」には父天皇は悲しみの余り、寝食も進まず、百官に命じてヤマトタケルの能煩野陵に葬るが、白鳥になって大和に向い、飛び去って行ったと言う。白鳥は大和琴弾原から河内は古市に舞い、そのうち大空に舞い上がり天に昇っていったという。
◎ 景行天皇の御世は「古事記」にはヤマトタケルを中心に描かれているが「日本書紀」には景行一二年に熊襲は朝廷に反旗を翻した。この時天皇は自ら筑紫に向い途中、周防で四人の土蜘蛛を退治、九州に渡っては石室と禰疑野に澄む5人の土蜘蛛を次々と打ちのめし、熊襲の本拠地日向の国では熊襲の娘を味方につけ「熊襲タケル」を娘に打たせた。
その後七年間九州征伐を敢行し大和の戻っている。その後わが子の「ヤマトタケル」征服した諸国を巡行したと記されている。「古事記」と違って慈悲深い天皇に描かれている。
* ヤマトタケルの悲運な死に追悼する者多く、各地に伝説が生まれ、伝説の地に陵墓、神社が造られ「ヤマトタケル」が没した能煩野の三重県に「白鳥塚」亀岡市に「T字塚」が「能煩野陵」に日本書紀には大阪羽曳野市には「白鳥陵」が、最後に立寄ったとされる「大鳥神社」和泉の国一ノ宮として信仰を集め祭神として祀られ、近江国一ノ宮の建部神社は稲依別王、犬上君、建部の君の祖として祀られている。
「日本書記」と「古事記」の記載事項に違いはあるが、伝え記された足跡は、架空ではあるが日本人に数々の伝説と夢を残した古代の英雄の覇者「ヤマトタケル」は、揺ぎ無い大和王朝確立に寄与した事には違いない。









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『平安座主別当の興亡の系譜』川村一彦

2014-04-11 05:02:42 | 小論文

『平安座主別当興亡の系譜」
           川  村  一  彦  著
はじめに

日本の平安仏教を二分させた天台宗と真言宗、とりわけその天台宗は仏教で言う「総合仏教学校」であった。禅宗、浄土宗、法華宗などと、薬師如来から、阿弥陀仏、釈迦如来など宗旨、拝仏を問わず「学僧の府」でもあるとともに、権力と武力の牙城でもあった。
その寺院と宗派の最高権威、権力者の「座主、別当」は存亡を左右するものでもあった。
荘園制度と共に勢力は拡大、朝廷内への発言力と仏事の覇権を巡り、宗派内、他宗に対しても対抗する意味に於いても寺院、宗派の長官である「座主、別当」の任命は重要であった。
「座主、別当の補任」任命権は朝廷の特権であり、それぞれの利害と思惑が相成って熾烈な戦いが繰り広げられた。
特に仏教史上熾烈を極めたが、天台座主の補任を巡る争いに端を発したのが第三代座主円仁の山門派と、第四代座主円珍の寺門派の空前絶後の朝廷を巻き込んだ争いであった。
奈良仏教の雄、興福寺も東大寺も興亡、また別当の補任で朝廷と激突、荘園拡大、朝廷への影響力を懸けての戦いは複雑に絡み合った。
真言宗も同様に高野山の金峯山寺座主を巡り金剛峯寺ざすと大伝法院座主の補任を廻り、覚鑁を指す鳥羽上皇に、加護のもと就任したが旧勢力と紛糾し壮烈な紛争の後に、高野山を降り、此処に古儀真言宗と新義真言宗と分派した。
成熟する平安仏教は、仏教普及と権力争いは表裏一体であったの確かであった。

一  天台座主の系譜

                  寺=寺門派
 最終時 辞=辞退  没=職責時没  止=座主停止 再=再任
    僧名  就任期間                     
宗祖    最澄               ~弘仁十三年(八二二) 没
 *大同一年最澄天台宗を開く。弘仁十年比叡山に戒壇院を設立を申請をする。
初代    義真  天長元年(八二四)~天長十年 (八三三) 没  
二代    円澄  承和元年(八三四)~承和三年 (八三六) 没
三代    円仁  仁寿四年(八五四)~貞観六年 (八六四)  没    十年
#円仁(七九四~八六四)慈覚大師
延暦十三年(七九四)下野国生まれ。天台宗山門派の祖。九歳にして大慈寺広智に師事し、十五歳にして広智に伴割れて比叡に上がり最澄の門下に入った。最澄に伝法可所潅頂を受け、同年東大寺で具足戒受けた。その後比叡山で教師になり、法隆寺、四天王寺などで講演し、承和二年(八三五)六月、入唐還学僧(条件付)の詔を受けた。 入唐には遣唐大使藤原常継に請益僧円載らと共に従った。
 揚州に漂着し、天台山に上がり、長安で天台学を学ぶつもりが資格なく、やむなく開元寺で学び、翌年帰国の遣唐使船に乗り帰国の途中に嵐に遭い、山東半島に漂着、翌年五台山に上がり志遠和尚にあい教えを受け「摩可止観」、など学び天台経典三十七巻を書写し、青竜寺でも義真阿闍梨に学び、玄法寺に、大安国寺に長安に止住六年多くの経典と教えを学び、その折仏教の排斥に会い、新羅の商船で命からがら経典など持ち帰った。その持ち帰った品の数々は天台宗に大きな影響を与え比叡山の確立に寄与した。帰国後比叡山天台宗座主として十年間にも及び弟子の育成と、寺院の拡充に貢献した。
また入唐の詳細は「入唐求法巡礼紀」に残されている。
四代    安慧  貞観六年(八六四)~貞観十年 (八六八)  没
五代    円珍  貞観十年(八六八)~寛平三年(八九一)没 寺門派二十三年
#円珍(八一四~八九一)智証大師
 弘仁五年讃岐国に生まれ、母は佐伯氏の女で空海の姪である。天台宗寺門派の宗祖。十五歳で叔父に随って比叡山に上がった、座主の義真に師事し「法華経」「金光明経」など学び、受戒し僧に成り、籠山すること十二年内供奉十禅師に勅任。
仁寿元年(八五一)入唐の為に大宰府に向った。七月に出航福州に着岸した、天台国清寺で止観を学び、越州開元寺で台教を、長安青竜寺の法全に大潅頂を、大興善寺で、福州開元寺で「法華、華厳、倶舎」を学び、大小乗経など四百四十部千巻をもって、天安二年(八五八)に肥前に帰国、大宰府に着いた。入糖七年数々の経典を持ち帰ってことは大きくより一層天台の教学に貢献ことは言うまでもない。比叡山王院で住持し多くの僧に伝授した。清和天皇以下三〇余名に潅頂を授け、五五歳にして天台宗座主に就任、在任二十年間に多くの弟子の育成に尽くし、円珍に影響された弟子を多く残した。
*山門派、寺門派の盛衰記
 比叡山天台宗延暦寺の揺ぎ無い確立に貢献したのが、円仁と円珍である。共に入唐し数々の経典とその奥義を持ち帰り、伝え弟子を育てた、それぞれの教えが多くの弟子達に引き継がれた。
その大きな功績が故に尾を引き、二派に分かれるほどの影響があった。それは天台座主を巡る後継者にまで波及していった。
六代    惟道  寛平四年(八九二)~寛平六年 (八九四)  没 寺門派
*六代座主に 円珍二十年間の座主で弟子の惟道が二年間座主になった。
寛平四年七代座主に円珍系の弟子の猷憲が就任、続いて八代座主に康済が五年間座主になった。
九代座主に円仁派の長意が七年間就任した、十代には円珍派の増命が十八年間も座主に就任、十一代、十二代に良勇、玄鑑が、十三代尊意座主から十七代喜慶まで円仁派が就任した。
七代    猷憲  寛平五年(八九四)~寛平六年(八九四)没 寺門派
八代    康済  寛平六年(八九四)~ 昌泰二年(八九九)辞 寺門派
九代    長意  昌泰二年(八九九)~ 延喜六年 (九〇六)  没
十代    増命  延喜六年(九〇六) ~延喜二十二年(九二二)辞寺門派十八年
十一代  良勇  延喜二十二年(九二二)~延喜二十三年(九二三)没 寺門派
十二代  玄鑑  延喜二十三年(九二三) ~延長四年(九二六)  没        
十三代  尊意  延長四年(九二六)~ 天慶三年(九四〇)    没  十四年
十四代  義海  天慶三年(九四〇)~ 天慶九年(九四六)    没 
十五代  延昌  天慶九年 (九四六)~ 応和四年 (九六四)   没 十八年
十六代  鎮朝  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)   没
 *良源焼失寺院を再建してゆく、延暦寺東塔法華堂、などその後惣持院、講堂、文殊院他。(九八〇)には根本中堂を再建。
十七代   喜慶  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)  没            
十八代   良源  康保三年 (九六六)~ 永観三年 (九八五)  没   十九年
 *天元十二月(八九一)円仁派、円珍派の両門徒法性寺の座主職を争い円仁派の門徒が勝つ。
# 良源(九一二~九八五)元三大師
延喜十二年(九一二)近江国浅井で生まれ、慈覚派(円仁)で比叡山の中興の祖、十二歳で比叡山西塔理仙に師事し、尊意座主に受戒、阿闍梨、内供奉、権律師、僧正と順風に地位を上り、五十四歳(九六六)で座主に上り詰めた、何より良源の名を知らしめたのが、応和三年(九六三)の宮中で行なわれた「応和宗論」で南都の僧との活躍であった。
比叡山の延暦寺の大火を機に堂塔を整備したことと、藤原氏の荘園の寄進を受け経済的にも、基盤が確立して評価と信頼を得た。
良源の出現によって天台宗比叡山延暦寺は再興されて「天台中興の祖」と仰がれたが、結果、円仁、円珍の両派の均衡は崩れて、主導権は円仁の慈覚派が中核を占めるにいたりこれを機に山門派、寺門派の対立が表面化していった。
十九代   尋禅  永観三年 (九八五)~ 永祚元年 (九八九) 辞 
*藤原兼家の子、尋禅が座主に就任。それまで兼家は横川に薬師堂を建立。
二十代   余慶  永祚元年 (九八九)~ 永祚元年 (九八九) 辞 寺門派
*余慶が天台座主に補任されたが直ちに円仁派の猛反対で座主につくことできなかった。事の起こりは円仁派の盛り返しの最中、京都の法性寺の座主を廻り(法性寺の座主は代々円仁派の僧)、円珍派の僧余憲が朝廷より任命され、これを知った円仁派は強烈に反対し阻止し。
永祚元年(九八九)  朝廷は天台座主に寺門派の余慶を任命した。
其の時も円仁派は、猛烈に反対し、任命状を使者を途中で待ち受けて、妨害、襲い盗ろうとし、勅使が宣命が、比叡山に持って上がることが出来なかった。
* 「永祚の宣命」と呼ばれ、余慶は天台座主に任命されながら、その職務に就けなかった。この事件より決定的に亀裂が起きていった。
二一代  陽生  永祚元年(九八九)~  永祚二年(九九〇)   辞
二二代  暹賀  永祚元年(九九一)~  長徳四年(九九八)   没
 *正暦五年(九九三)遂に、円仁派と円珍派の武力を持っての争いが起きた。
山内紛争が三千人以上が山塔付近に住持し、僧衆徒が入り乱れての争い、山中に坊舎を配備、一触即発の状態の中で突如、円仁派が円珍派の拠点に襲撃をしたことが発端で衝突が起きた。
 双方入り乱れて乱闘が起き負傷者、死者の数は定かではないが、数で劣る円珍派の僧徒千人は、落ち逃げ延びるように、山を下った。
 向った先は兼ねてより、円珍が唐より帰国した折に居を構えて住持したところの、山麓の大友邸に円珍派は居を構えた。
 園城寺は円珍派が大友氏より寄進を受けものであるが、あの悲劇皇子、弘文天皇の皇子の邸跡で、以後此処を拠点に円珍派は勢力を伸ばしていった。
山内紛争から宗内紛争の始まりである。
自立した円珍派は「園城寺」を寺門派として積極的に朝廷に働きかけたりして加護と理解を求めた。
朝廷も山門派の行き過ぎた行動に再三諌め、寺門派に深入りを示したが返って山門派を刺激した感があった。
二三代  覚慶  長徳四年(九九八)~ 長和三年 (一〇〇一) 没
二四代  慶円  長和三年(一〇〇一)~ 寛仁三年(一〇一九) 辞  十八年
二五代  明教  寛仁三年(一〇一九)~ 寛仁四年(一〇二〇)  没
二六代  院源  寛仁四年(一〇二〇)~ 万寿五年(一〇二八) 没
二七代  慶命  万寿五年(一〇二八)~長暦二年 (一〇三八) 没  十年
二八代  教円  長暦二年(一〇三八)~永承二年 (一〇四七) 没
*長元八年(一〇三五)三月、園城寺の三尾明神の祭礼に、延暦寺の僧徒が乱入、乱闘となった。
直ちに報復として園城寺の僧徒、僧兵らを延暦寺の僧正の坊舎の襲撃、焼き討ちをかけた。
*長暦三年(一〇三九)二月、その頃には園城寺には戒壇院がなかった。
戒壇院とは僧侶になるには受戒して始めて僧侶の資格を得る。その戒壇院は当時は延暦寺、東大寺に行って僧侶の受戒を受けていた。園城寺は再三戒壇院の許可を朝廷に求めで出たが悉く延暦寺の反対し強訴、合戦繰り広げられた。
長久三年(一〇四二)三月、園城寺は再度朝廷に戒壇院の申請を出す。
 再三尾園城寺の戒壇院の申請に、怒った延暦寺の僧衆徒は園城寺の山内の円 満院へ焼き討ちをかけた。
*永承三年(一〇四八)八月、天台宗座主に、寺門派の明尊に補任が決まった。
たちまち山門派の僧兵らの猛反対で辞任し、やむなく改めて山門派の源信を補任した。この頃各宗派の最高の地位権威の座主、別当の許可、任命権は朝廷にあって、しばしば山内の僧綱(僧正、僧都、長者など)の反対で阻止される事がしばしば
 徹底して園城寺への反対は露骨になっていった。
二九代  明尊  永承三年(一〇四八)~永承三年(一〇四八)辞  寺門派
三十代   源心  永承三年(一〇四八)~天喜元年(一〇五三)    没 
*(一〇五三)三月、天台座主補任を廻り、朝廷は寺門派の源泉を補任した。
 またも延暦寺は猛反対で、即辞任しなければならなかった。
 天喜元年結果山門派の明快で落着した。
三一代  源泉  天喜元年(一〇五三)~天喜元年 (一〇五三) 辞
三二代  明快  天喜元年(一〇五三)~延久二年(一〇七〇)  没  十七年
三三代  勝範  延久二年(一〇七〇) ~承保四年(一〇七七) 没
*延久七年(一〇七七)二月、山門派、寺門派入り乱れて断続的に乱闘があって、原因は園城寺の戒壇院の許可を廻り抗争の最中、四月は寺門の覚円が天台座主に補任された。またもの反対で辞任し、朝廷は止む無く山門派の覚尋を座主に補任して決着した。
三四代  覚円  承保四年(一〇七七) ~承保四年(一〇七七) 辞  寺門派
三五代  覚尋  承保四年(一〇七七) ~永保元年(一〇八一) 没          
*永保三年(一〇八一)三月、日吉社の祭礼に下人と下人の喧嘩で、山門派が怒り、僧徒ら園城寺に焼き討ちをかける。
三六代  良真  永保元年(一〇八一)~寛治七年(一〇九三) 辞
*天仁三年(一一〇〇)六月、園城寺の僧徒は長史の坊舎を焼き払う。
多分朝廷より使わされた園城寺の高僧であったが自分たちの意の添わない人事に抗議したのだろ。
三七代  仁覚  寛治七年(一〇九三)~康和四年(一一〇二)  没 
*(一〇九五)延暦寺の僧徒、寺僧を殺害したとして源義綱を流罪を求め日吉社の神輿を奉じて入京を企てる。
 *園城寺の僧徒、長史の坊舎を焼く。八月、朝廷は園城寺の越訴を停止させる。
三八代  慶朝  康和四年(一一〇二 ~長治二年(一一〇五)  辞
三九代  増誉  長治二年(一一〇五) ~長治二年(一一〇五) 辞  寺門派
*長治二年(一一〇五) 天台宗座主として寺門派の、増誉が補任されたがまたもの山門派の延暦寺沿僧衆の猛反対で辞任を余儀なくされた。
四代   仁源   長治二年(一一〇五)~天仁二年(一一〇九)  辞 
四一代  賢暹   天仁二年(一一〇九)~天仁三年(一一一〇) 辞
四二代  仁豪   天仁三年(一一一〇)~保安二年(一一二一) 没 十一年
四三代  寛慶   保安二年(一一二一)~保安四年(一一二三) 没
*(一一二二)延暦寺の僧徒、美濃山門領の処置を巡り、座主覚慶を遂う。翌年再び座主を遂う。
*保安三年(一一二二)五月、園城寺の僧衆徒、延暦寺の僧徒を殺す。直ちに延暦寺の僧兵ら報復として下山し園城寺に向かい、襲撃をかけ金堂、他諸堂を焼き払う。
四四代  行尊   保安四年(一一二三)~保安四年(一一二三)辞   寺門派
四五代  仁実   保安四年(一一二三)~大治五年(一一三〇) 辞
*(一〇二二)道長が延暦根本中堂に参拝、十二神将像を供養する。
*大冶四年(一一二九)十二月、天台座主として、久々に寺門派の行尊が補任された。直ちに山門派の猛反対で辞任した。
四六代  忠尋   大冶五年(一一三〇)~保延四年(一一三八) 辞 
四七代  覚猷   保延四年(一一三八)~保延四年(一一三八)  辞
*保延四年(一一三八)四月、天台座主として寺門派の覚噂を補任するが、延暦寺の僧衆徒の猛反対で辞任。
四八代  行玄   保延四年(一一三八)~久寿二年(一一五三) 辞寺門派 十五年
四九代  最雲   久寿二年(一一五三) ~応保二年(一一六二) 没
 *(一一五八)天台座主最雲らに、僧徒の蜂起を禁止する。
五十代  覚忠   応保二年(一一六二)~応保二年(一一六二)辞 寺門派 
五一代  重愉   応保二年(一一六二) ~応保二年(一一六二) 辞
*応安二年(一一六二)一月、延暦寺の僧衆徒ら、延暦寺の僧衆徒ら、園城寺の長史覚忠が天台座主に補任された、直ちに山門派が拒み猛反対、結集しこの訴えを朝廷にする、朝廷この訴えに屈し山門派の重愉を座主にすることで決着。
五二代  快修   応保二年(一一六二) ~長寛二年(一一六四) 止 
五三代  俊円   長寛二年(一一六四) ~仁安元年(一一六六) 没
五四代  快修   仁安元年(一一六六) ~仁安元年(一一六六) 止  再任 
五五代  明雲   仁安二年(一一六七)~安元三年 (一一六七) 止
五六代  覚快   安元三年(一一六七) ~治承三年(一一七九) 親
五七代  明雲   治承三年(一一七九)~ 寿永二年(一一八三) 没  再任
五八代  俊尭   寿永二年(一一八三) ~寿永三年(一一八四) 止
五九代  全玄   寿永三年(一一八四) ~文治六年(一一九〇) 辞
六十代  公顕   文治六年(一一九〇) ~文治六年(一一九〇) 辞    
*建久元年(一一九〇)三月、再び天台座主を廻り紛争、寺門派の公顕を天台座主に補任、即座に山門派の猛反対止む無く辞任。
これ以降天台座主の寺門派、山門派の座主を廻る紛争が少なくなっていった。
て行った。
理由は時代は鎌倉時代に移り、互いに消耗合戦を繰り広げ、荘園は減少し、その勢力は衰退の一途を辿った。時代の趨勢は、浄土宗、禅宗、日蓮宗などに変わっていった。

 



二、 東大寺別当の系譜

初代 良弁   天平勝宝四年五月(七五二)~天平宝宇4年(七六〇 )
二代 良興   天平宝宇五年(七六一)~天平宝宇八年(七六四)
三代 良恵   天平神護一年(七六五)~神護慶雲二年(七六六)
四代 永興   宝亀一年(七七〇)~宝亀四年(七七三)
三代 忠恵   宝亀五年(七七四)~宝亀五年(七七四)
四代 霊義   宝亀九年(七七八)~延暦一年(七八二)
五代 等定   延暦二年(七八三)~延暦六年(七八七)
六代 永覚   延暦六年(七八七)~延暦十年(七九一)
七代 禅雲   延暦十年(七九一)~延暦十三年(七九四)
八代 堪久君  延暦十四年(七九五)~延暦十七年(七九八)
九代 源海   延暦十八年(七九九)~延暦二十一年(八〇二)
十代 定興   延暦二十一年(八〇二)~延暦二十四年(八〇五)
十一代 海雲   大同一年(八〇六)~大同四年(八〇九)
一二代 空海   弘仁一年(八一〇)~弘仁四年(八一三)   (真言系)
 #空海真言宗開祖、延暦二十三年最澄らと入唐後高野山に真言宗を開く(八一六)より六年まえに東大寺に入寺して真言宗布教の拠点としていた。
一三代 義海   弘仁五年(八一四)~弘仁九年(八一八)
一四代 静雲   弘仁十年(八一九)~弘仁十二年(八二一)
一五代 永念   弘仁十三年(八二二)~天長二年(八二五)
 *東大寺に真言院を建立。真言宗の影響が強くなる。
一六代 興雲   天長三年(八二六)~天長六年(八二九)
一七代 覚雲   天長七年(八三〇)~天長十年(八三三)
一八代 心恵   承和一年(八三四)~承和四年(八三七)
一九代 実敏   承和五年(八三八)~承和九年(八三九) (真言系)
二〇代 正進   承和十年(八四〇)~承和十三年(八四三)
二一代 真雅   承和十四年(八四四)~嘉祥三年(八五〇)(真言系)
二二代 貞祟   仁寿一年(八五一)~斎衡二年 (八五五)(真言系)
二三代 斎棟   斎衡二年(八五五)~天安二年(八五八)
二四代 真昶   貞観一年(八五九)~貞観十二年(八七〇)
二五代 祥勢   貞観十三年(八七一)~貞観十六年(八七四)
二六代 玄津   貞観十七年四月(八七五)~元慶二年(八七七)
二七代 真昶   元慶三年(八七八)~元慶三年三月(八七八)
二八代 安軌   元慶四年(八七九)~元慶四年四月(八七九)
二九代 祥勢   元慶五年八月(八八〇)~寛平一年(八八九)  
三十代 勝皎   寛平二年三月(八九〇)~寛平二年五月(八九〇)
三一代 恵珍   寛平二年九月(八九〇)~寛平五年(八九三)
三二代 済棟   寛平六年六月(八九四)~寛平九年(八九七)
三三代 道義   昌泰一年八月(八九八)~延喜四年(九〇四)
三四代 戒撰   延喜五年三月(九〇五)~延喜八年(九〇八)
 *東大寺東南院を造立。
三五代 延惟   延喜九年四月(九〇九)~延喜十一年(九〇九)
三六代 智鎧   延喜十二年一月(九一〇)~延喜十二年(九一〇)
三七代 観宿   延喜十九年十二月(九一九)~延長一年(九二三)
三八代 延敏   延長二年二月(九二四)~延長五年(九二七)
*東大寺講堂再建。
三九代 基遍   延長六年二月(九二八)~延長六年五年(九二八)
四〇代 寛救   延長六年六月(九二八)~承平六年(九三六)(真言系)
四一代 明珍   承平六年十一月(九三六)~天慶七年(九四四)
四二代 寛救   天慶八年(九四四)~天暦四年(九五〇)   (真言系) 
四三代 光智   天暦四年五月(九五〇)~康和一年(九六四)
四四代 法蔵   康和二年(九六五)~安和一年(九六八)
四五代 観理   安和二年(九六九)~天禄一年(九七〇)
四六代 法縁   天禄二年五月(九七一)~貞元三年(九八七)
四七代 堪照   貞元三年九月(九七八)~永観一年(九八三)  
四八代 寛朝   永観二年二月(九八四)~永延二年(九九〇) (真言系)
 *円融法皇、東大寺で受戒する。
四九代 然   永延三年七月(九九一)~正暦二年(九九一)
五十代 深覚   正暦三年七月(九九二)~正暦四年(九九三) (真言系)
五一代 平祟   正暦五年七月(九九四)~長徳四年(九〇八)
五二代 深覚   長徳四年十二月(九〇八)~長保一年(九〇九)(真言系)再任
五三代 雅慶   長保一年八月(九〇九)~寛弘一年(一〇〇四)(真言系)
五四代 済真   寛弘二年十二月(一〇〇五)~寛弘四年(一〇〇七)(真言系)
五五代 澄心   寛弘四年四月(一〇〇七)~長和三年(一〇一四)
五六代 清寿   長和三年三月(一〇一四)~長和五年(一〇一六)(真言系)
五七代 深覚   長和五年五月(一〇一六)~寛仁四年(一〇二〇)(真言系)再任
五八代 朝晴   寛仁四年十二月(一〇二〇)~寛仁五年(一〇二一)
五九代 観真   治安三年八月(一〇二三)~長元二年(一〇二九)
六〇代 仁海   長元二年六月(一〇二九)~長元五年(一〇二三) (真言系)
六一代 済慶   長元六年二月(一〇二四)~長暦一年(一〇三七)
六二代 深観   長暦一年十二月(一〇三七)~永承四年(一〇五〇)(真言系)
六三代 尋清   永承四年十二月(一〇五〇)~永承五年(一〇五一)(真言系)
六四代 有慶   永承六年五月(一〇五二)~天喜二年(一〇五四)
六五代 覚源   天喜三年八月(一〇五五)~康平一年(一〇五八)(真言系)
六六代 延幸   康平二年十二月(一〇五九)~冶暦二年(一〇六六)
六七代 信覚   延久三年二月(一〇七一)~承保一年(一〇七四)(真言系)
 *(一〇七四)興福寺の僧徒、別当法務頼信の房を襲い、付近の民家を焼く。
六八代 慶信   承保二年一月(一〇七五)~嘉保一年(一〇九四)
六九代 経範   嘉保二年六月(一〇九五)~康和一年(一〇九九)(真言系)
七十代 永観   康和二年五月(一一〇〇)~康和四年(一一〇二)
 *(一一〇二)東大寺の僧徒、興福寺の僧徒の狼藉を訴え八幡社の神輿を奉じて入京する。
七一代 寛助   元永一年四月(一一一〇)~天冶一年(一一二四)(真言系)
 *(一一〇六)興福寺の末寺の清水寺の僧徒、別当定深の罷免を求めて強訴。
 *(一一一〇)摂政忠実は興福寺の僧徒の武器所持を重ねて禁止する。
 *(一一一一)東大寺、興福寺僧徒争う。
 *(一一一七)春日社の神人が乱暴されたとして、興福寺の僧徒が蜂起する。
 *(一一二〇)興福寺の僧徒の強訴、神人を乱暴したとして和泉守藤原雅隆を解任される。
七二代 勝覚   天治二年七月(一一二五)~大冶三年(一一二八)(真言系)
七三代 定海   大冶四年五月(一一二九)~永治一年(一一四一)(真言系)
  *(一一四五)東大寺僧徒と興福寺僧徒争う。
七四代 覚信   久安三年一月(一一四七)~仁平三年(一一五三) (真言系)
七五代 覚晩   仁平三年三月(一一五三)~保元三年(一一五九) (真言系)
七六代 覚遍   保元四年三月(一一六〇)~永万二年(一一六六) (真言系)
七七代 顕恵   永万二年七月(一一六六)~承安四年(一一七四)
七八代 敏覚   承安五年三月(一一七五)~安元三年(一一七八)
七九代 禎喜   治承一年十二月(一一七七)~寿永一年(一一八二)(真言系)
 *(一一八〇)平重衡大軍を率いて南都に攻め入る、東大寺、興福寺壊滅的に被害焼失。
八〇代 定遍   寿永二年(一一八三)~文治一年(一一八五)   (真言系)
八一代 雅宝   文治二年三月(一一八六)~文治四年(一一八七)(真言系)
八二代 俊証   文治五年五月(一一八八)~建久二年(一一九一)(真言系)

三   興福寺別当の系譜
*(一)一乗院家(大)大乗院家

初代 慈訓   天平宝宇(七五七)~
二代 永厳   宝亀十年(七八〇)~
三代 行賀   延暦十年(七九一)~
四代 修円   弘仁十一年(八一九)~
五代 隆恵   承和一年(八三四)~
六代 寿朗   承和十四年(八四三)~
七代 興昭   貞観一年(八五九)~
八代 考忠   貞観十三年(八七一)~
九代 房忠   仁和二年(八八六)~
一〇代 仙忠   寛平五年(八九二)~
十一代 真覚   延喜五年(九〇五)~
十二代 基継   延喜十五年(九一〇)~
十三代 平源   延長八年(九三〇)~
十四代 空晴   天暦三年十二月(九四九)~
十五代 助精   天徳一年十二月(九五七)~応和一年(九六一)
十六代 延空   応和一年(九六一)~康保四年(九六七)
十七代 安秀   康保四年七月(九六七)~天禄一年(九七〇)
十八代 定昭   天禄一年十月(九七〇)~天元四年八月(九八二)
十九代 真喜   永観一年(九八三)~長保二年(一〇〇〇)
 *興福寺の僧徒、備前守藤原理兼の乱行を訴える。
二十代 定澄   長保二年八月(一〇〇〇)~長和四年(一〇〇二)
 *興福寺の僧徒ら大和国司の館に乱入。
二一代 林懐   長和五年五月(一〇〇三)~万寿二年(一〇二五)
 *(一〇〇六)興福寺の僧徒、春日荘の訴訟のため入京する。
二二代 扶公   万寿二年六月(一〇二五)~長元八年(一〇三六)
 *(一〇三七)興福寺僧徒、東大寺の東南院を焼く。
二三代 経教   長元八年八月(一〇三六)~長久五年(一〇四五)
二四代 真範   長久五年六月(一〇四五)~天喜二年(一〇五四)  (一)
* (一〇四六)興福寺焼失。翌年再建始まる。
* (一〇四九)興福寺の僧徒、大和守源頼親の館を襲う。
二五代 円縁   天喜三年一月(一〇五五)~康平三年(一〇六〇)   
二六代 明懐   康平三年六月(一〇六〇)~康平五年(一〇六二)
二七代 頼信   康平五年八月(一〇六二)~承保三年(一〇七六)
二八代 公範   承保三年八月(一〇七八)~応徳三年(一〇六六)
二九代 頼尊   寛治三年三月(一〇六九)~康和二年七月(一一〇〇)
三十代 覚信   康和二年八月(一一〇〇)~保安二年(一一二一)  (一)
*(一一〇一)興福寺の僧徒、金峯山の僧徒と争う。直ちに天皇、藤原忠実、宋との蜂起を制止する。
*(一一〇二)興福寺の僧徒蜂起、法皇阻止するために宇治橋を壊し入洛を防ぐ。 
三一代 永禄   保安二年七月(一一二一)~天冶二年(一一二五)
三二代 玄覚   天冶二年四月(一一二五)~大冶四年十一月(一一三〇)
三三代 経尋   大冶四年十二月(一一三〇)~天承二年(一一三二)
三四代 玄覚   天承二年四月(一一三二)~保延四年九月(一一三九)
 *(一一三七)興福寺の僧徒、神木を奉じて入京し強訴する、僧正補任について強
訴、同寺僧玄覚を僧正を補任させる。
 *(一一三九)興福寺僧徒、別当隆覚の坊を焼き神木を奉じて入京。十一月に再び別当隆覚を襲い、結果隆覚を辞任させる。
三五代 隆覚   保延四年十月(一一三九)~保延五年(一一四〇)
三六代 覚誉   保延五年十二月(一一四〇)~久安二年(一一四六)
三七代 覚晴   久安三年二月(一一四一~久安四年(一一四二)
 *(一一四五)興福寺僧徒、金峯山僧徒と争う。
三八代 隆覚   久安六年八月(一一四二)~保元二年(一一五七) (再任)
*(一一五一)頼長、興福寺の別当を私邸に召し、僧徒の武装を禁止する
 *(一一五三)頼長、自ら院別当になる。
三九代 恵信   保元二年十月(一一五七)~長覚一年(一一六五)
*(一一六五)二条天皇の葬儀の主導を巡り、比叡山と興福寺が争い続き延暦寺の訴えで、興福寺の別当恵信を辞めさせられる。興福寺の僧徒、延暦寺の座主の流罪を求め強訴をする。
四〇代 尋範   長覚二年五月(一一六四)~承安四年(一一七四)
 *(一一六七)興福寺別当尋範を襲い、大乗院など焼いた前別当の恵信を伊豆に流罪。
*(一一七三)興福寺僧徒、多武峯の坊舎を焼く。
  延暦寺、興福寺僧徒互いに争いを繰り返し蜂起する。南都十五カ寺の寺領を没収する。
四一代 覚珍   承安五年八月(一一七五)~安元一年十月(一一七五)
四二代 教縁   安元一年十一月(一一七五)~治承三年四月(一一七九)
四三代 玄縁   治承三年四月(一一七九)~治承四年(一一八〇)
四四代 信円   養和一年一月(一一八一)~文治五年五月(一一八九)(一)(大)
四五代 覚憲   文治五年五月(一一八九)~建久六年十二月(一一九六)
+ 延暦寺や東大寺の座主別当の詳細な記述に比べ興福寺の記録は余り残されていない。度重なる戦火、焼失が記述を失わせたのかもしれない。
 


参考資料
岩波書店、日本史事典、日本史年表
中央公論、日本の歴史
吉川弘文堂、日本の名僧
新人物王来社、日本仏教宗派事典、日本史名僧ものしり百科他





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『古事記に見る神々の分布と世界観』川村一彦

2014-04-10 05:31:08 | 例会・催事のお知らせ
「古事記」に見る神々の分布と世界観         川村一彦

「古事記」と「日本書紀」は、ほぼ同時代に編纂され日本の古代を解く鍵として古くよりその真偽を論じられてきた。
 何故同じような国史を記紀に分別し編纂しなければならなかったが、大きな謎の一つではあるが一般的には「日本書紀」は国外向けの国家の成り立ちを、「古事記」は国内向けの天皇家の私史として考えられている。
 まだその意図は解明されていないが、その評価については当初は「日本書記」が主書として「古事記」は「日本書記」の参考書程度の評価が江戸時代より「古事記」が見直され「記紀」では「古事記」が優先されて古代の謎解きの主書となっている。
 何より「古事記」の面白さ興味深さは「日本書記」に登場しない神話の世界の展開に有る。しかも出雲神話が多くの物語を登場させ、各氏族の祖神に繋がってゆく所に有る。
 まず「古事記」に見る天地開闢は五柱アメノミナカヌシノカミ、タカミムスヒノカミ、カムムスヒノカミ、ウマシアシカヒヒコチノカミ、アメノトコタチノカミの別天津神でこの神々には出雲神話に登場する神もあれば、神話の世界で大きな力や影響を与える上で特別に重要な神々ではない独り神である。
 次に登場する神世七代はクニノトコタチカミ、トヨクモノカミの独り神とウヒデニノカミ、スヒデニノカミ泥土の神格化の夫婦神と、ツノクヒノ、イククヒノカミ成長を神格化の夫婦神と、オホトノジノカミ、オホトヘニカミ性器を神格化の夫婦神と、オモダルノカミ、アヤカシコネノカミ美と愛の誘惑の神格化の夫婦神最後に「イザナギ、イザナミ」の国生み神生みの夫婦神があってこじきの世界が展開される。
 イザナギとイザナミに高天原の神々より漂う地上の世界に国を固めること命じられ天空に浮かぶ「天の浮橋」に立って「天の沼矛」で海をかき混ぜ、矛の先の雫の塩で自分たちが舞い降りる国土を造る。
 最初に造ったオノコロ島に降り立ち「天の御柱」と神殿「八尋殿」を建て交合し島々を造った。イザナギとイザナミは「大八島」淡路之島、伊予之島、隠岐之島、筑紫之島、壱伎之島、津島、佐渡島、秋津島と6つの島々を生んだ。
 
この天地創造である国生みの物語は、仏教の須弥山世界観に似ている。
「具舎論」に拠れば、須弥山を取り巻いて7つの金の山の鉄囲山があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。
風輪の上に水輪、その上に金輪があって、その最上層部をなす金輪の上面に大地と底に接する際となっており、これを金輪際と言う。
 我々が住むのは海水をたたえた金輪際に浮かぶ「贍部洲」であり須弥山の中腹に日天、月天が回って、中腹の四大天が浮かぶ四州を守っている。
 イザナギとイザナミの国生みは海に浮かぶ島々を造る所は、神話の創造と似ている。
 国生みを終えたイザナギとイザナミは神々を生みだす。
「古事記」には35柱を生み出したと記されているが、実際は17柱の神を生んだ。海、川、など水に関わる神と風、木、山、野などと船と食物、火など生産に関わる神々が出現した。神の子が神を生み増えていったが、イザナギとイザナミの生んだ神、火の神カグツチを生みイザナミは陰部に大やけど覆い苦しみ病床に苦しみながらも、嘔吐や糞尿から鉱山や土、6神を生み亡くなってしまう。イザナミの亡骸を比婆さんに葬った後、イザナミを死なせた原因のカグツチをイザナギは十拳剣で首を撥ねてしまう。
 殺されたカグツチの血や臓器から17柱が生まれる。
死んだイザナミは黄泉の国に行ってしまう。
 亡くなったイザナミが忘れられず黄泉の国より連れ戻そうとイザナギは手を尽くすがイザナミは黄泉の国の食物を口にしたため元には戻れず、黄泉国の神に掛け合った。約束を条件にイザナミを待った。だが待ちきれず変わり果てた醜いイザナミの姿を見てしまい、黄泉国から逃げ出しイザナミと決別、黄泉国の穢れを祓う為に禊をした。 
その禊でイザナギの装飾から12柱水中から6柱最後に顔を洗って生ま現れた神こそ「古事記」の神話の主人公「天照大御神、月読命、須佐之男」の三貴子の誕生となった。

「古事記」に出てくる死後の世界は穢れた黄泉の国で神話の世界には神々が住む「高天原」「葦原中国」(地上)「根堅洲国」(根の国)「黄泉国」の4つの国から成り立っている。
 「高天原」は神々が鎮座する天津神の世界。「葦原中国」は地上で峰々に鎮座する「国津神」が君臨する世界。「根堅洲国」(根の国)は地底の世界にスサノオが国津神の祖として棲むとされる。「黄泉の国」は不浄の国穢れた死後の世界にイザナミが住んでいるとされている。
 この世界観は仏教に出てくる六道の世界に似ている。
仏教では一番上段の世界が「天道」は天人が住む世界で、人間より優れた存在とされ、空を飛ぶことが出来、享楽の内に暮らし、煩悩から逃れ、寿命も長生きするとされている。
「人間道」は人間が住む世界で、四苦八苦に悩まされる世界とされている。
「修羅道」は阿修羅が住む世界で、終始戦い、争うと言う。
「畜生道」は牛馬など畜生の世界で、本能のままにいき、仏の教えを受けられない世界と言う。
「餓鬼道」は餓鬼が腹を膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れられない飢えの悩まされる世界と言われる。
「地獄道」罪を償わせる為の世界で地獄の責めに遭わされる世界と言われる。
こう言った仏教の六道の世界と「古事記」に出てくる四つ世界を造り「神々の威厳」の世界と役割と、棲む世界を分けて世界観を造っている点は似ている。
 
三貴子の天照大御神・月読命・須佐之男の三柱はアマテラスの天津神系の正統性とスサノオの国津神系の亜流との対比する展開で、国津神の国造りに天津神天孫が統治する物語が天皇家に繫がる日本の史記を綴ったものと考えられる。
イザナミが亡くなってイザナギの禊の最後に生まれたスサノオが父のイザナギに海の統治を命じられたが従わず、母の国に行きたいと泣きわめき乱暴者に高天原から追放される。
 葦原中国に追放され出雲の国に活路を見出し、国造りに専念し多方面に平らげて、スサノオの子孫オオクニヌシやコトシロヌシ、タケミナカタと渡来系の神々と先住氏族の祖神と峰々に河川に地主神として鎮座、国津神として鎮まっていった。
まず最初のスサノオの国造り拠点となった出雲国では地元に棲む「ヲロチ退治」に結婚と定着し八十神の受ける試練に耐え「稲羽の素兎」を助け、オオクニヌシの家族を形成していった。こうしてオオクニヌシは葦原中国を統治をした頃、天上の高天原から使者がやってきた。
アマテラスオオミカミの子神アメノオシホミミを地上に派遣をするが失敗、次ぎに豪腕タケミカズチとアメノトリフネを使者と出した。
オオクニヌシニ国譲りの直談判をするが、オオクニヌシは隠居に身、子神コトシロヌシに聞くように伝え、コトシロヌシは姿を隠し、弟タケミナカタは力で決することになり、タケミナカタはタケミカズチに握りつぶされ信州は諏訪湖辺りまで逃げ降伏、諏訪湖付近で鎮座し、オオクニヌシは国譲りの条件に巨大社殿を造る事で「国譲り」を了承した。

天津神の地上に天孫降臨する「日向三代」ニニギ、ホオリノミコト、ウカヤ、ウカヤフキアヘズノミコトが物語れ、国津神の妃と交わり融和を図り、天孫後継内の身内争いを繰り返して、初代天皇イワレヒコ(神武天皇)が日向の高千穂をヤマトに向かって東征する。
イワレヒコと兄のイッセイは日向国を立って、豊国の宇沙を経て筑紫国で一年滞在する。さらに北上し安芸国多祁理宮に七年滞在、更に東に吉備国で八年滞在し浪速の渡しを過ぎ、白肩の津を登美の豪族にイッセイが亡くなってしまう。体制を立て直し紀伊国を迂回し、熊野で神(先住氏族)と戦い苦戦をしながら大和に到達する東征は対立氏族や部族を融和、戦いを重ねて大和に到達したとことは誰もが周知の所である。

「古事記」には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
一 六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。
二 天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は①大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、②大和から能登、越中、越後へ、③大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。大和国一ノ宮は大神神社でオオクニヌシと同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。大和を拠点の天孫アマテラスも天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。
三 先住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀ったり地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。
四 一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和した神々。
五 渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期の推定七万五千余りが、弥生時代には五十九万五千余りを考えた場合大陸より多くの人工の流入が考えられる。征服者の天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。

        
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『河内王朝と継承の謎』④川村一彦

2014-04-09 05:14:25 | 例会・催事のお知らせ
応神天皇(誉田別尊(ほむたわけのみこと))父王仲哀天皇の第四子で母は神功皇后である。皇宮は軽島(かるしま)の豊明宮で天下を治められた。在位四一年、没年一一一年巨大な誉田山古墳に葬られた。
神功皇后が新羅を征伐した年、遠征先の筑紫の蚊田(かだ)で生まれたとされる。応神天皇に関しては神功皇后の編で述べているが、麛坂(かごさか)王(おう)、忍(おし)熊(くま)王(おう)の反乱の制圧で王朝交代したと推測される。
戦前には皇室の万世一系が国是であったので、王権の交代は公表はできなかったからであり、研究者の自由な立場から、『古事記』『日本書紀』に出てくる神話の時代から神武天皇、欠史八代を経て、三輪王朝の時代より実在の可能性を検証しつつ、なぞらえる根拠の事項はないかと模索をしてきた。
後継者争いが単なる兄弟の王族内の争いであった、と言うことは別にして、神功皇后と応神天皇のように、ヤマトに帰還すると先帝の兄皇子二人が軍を挙げ待ちうけている事変については、身内争いでない旧勢力と新興勢力の戦いと位置づけられるであろう。
その後に於ける継体天皇の不自然な皇位継承は、歴然とした別の系統の王朝交代と思われている。
八幡宮の祭神は応神天皇である。八幡神が歴史に登場するのは『続日本紀』であり、記事に伊勢神宮と奈良大神(おおみわ)神社と並んで八幡が記載されている。
日本の神社十二万余社の内、四万社余りが八幡宮の総本社、宇佐に祭られている宇佐八幡宮である。
この九州は、神功皇后の九州の征伐と新羅派遣の基地の関係があり、関わりの深さを窺える。その後神仏習合の影響を受け「南無八幡大菩薩」として日本国中に広まって行った。
また源氏の守護神である義家は、「八幡太郎」として武勇の祈念神仏であるが、祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神(ひめおおかみ)の三神であり、祭神が仁徳天皇、仲哀天皇、玉依姫(たまよりひめ)に入れ替わる八幡宮もある。
『日本書紀』には、新羅を討ち九州からの帰還の際、浪速に向っている時に船が回り出した。そこで武庫に還って占ったところ、天照大神・稚日女尊(わかひるめのみこと)・事代主命(ことしろぬし)・住吉三神が鎮座する土地を指示するお告げがあった。このお告げに従ったため神々の保護を受け、大和の兄王の麛坂(かごさか)王(おう)、忍(おし)熊(くま)王(おう)の反乱に遭うものの、この戦いに勝利した。これにより応神天皇が正統性のある皇孫であることを『紀』では強調している。

『古事記』には、応神天皇(ホムタノスメラギ)が軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)で天下を治めたこと、品陀眞若(ほむだのまわかの)王の女と結婚されたことが記される他、多くの妃から二十六柱の御子が産まれている。
これらの御子の中から大雀命(おほささぎのみこと)が王位を継承されたことが記載されている。応神天皇の和風諡号(しごう)は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)で河内王朝の始祖としての位置付けに、后妃の生んだ多くの皇子、皇女を詳細に記している。
応神天皇は、後継の問題で大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おほささぎのみこと)に「お前達は年下の子と年上の子とどちらがかわいいか」問われた。そこで大山守命は、「年上の子のほうが可愛いと思います」と答えた。
大雀命は「年上の子は成人しておりますので、気にかかることはありませんが、年下の子は成人していないので可愛く思われます」と答えると、「大雀命よ、お前の言ったことは私と同じだ」「大山守命に山と海部を管理し、大雀命に私の統治する国の政治をしなさい。宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)は皇位を継ぎなさい」と命じられた。これにより、三人の異母兄弟のうち宮主(みやぬし)矢河枝比賣(やかはえひめ)(丸邇臣出身)の生んだ皇子が皇位を指名された。
* 矢河枝比賣(やかはえひめ)は王仁(わに)の女で、奈良市の北部一帯を拠点とした大豪族である。王仁氏が天皇を迎えての大宴会の「歌」から、宇治から葛野、近江にかけて有した王仁氏の様子が分かると言う。
応神天皇が日向国から召された、美しく麗しい髪長比売(かみながひめ)が難波津に着いたのを見て、大雀命(おほささぎのみこと)は感動され、武内宿禰に頼み、天皇に「私に下さるように」取り成しを求め、天皇の許しを得た結果、髪長比売は皇子に与えられた。
*この辺りの記述、女を与えられた話は、応神天皇と仁徳天皇の同一人物ではないかと言う説の根拠の一つして考えられる。
「百済の朝貢」説話には、応神天皇の御代に、海部(あまべ)、山守部、伊勢部を定めたこと、また剣池(つるぎのいけ)を作ったこと、新羅の人々が渡来したこと、武内宿禰はこれらの人々を率いて、参渡(まいわた)りの堤池として百済(くだら)池(いけ)を作った。
百済の国王の照古(せうこ)王は、牡馬(おま),牝馬(めま)一頭ずつを阿知吉師(あちきし)に託し献上してきた。天皇は照古王に太刀、大鏡を献上した。
*この阿知吉師(あちきし)は阿直史等の祖先である。
この頃百済との交流があった。「渡」は百済を指す。百済池か奈良北葛城郡付近。
「大山守命の反逆」説話では、応神天皇が崩御された後、大雀命が天皇の指示に従って天下を宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)に譲られたが、皇子の大山守命は、皇位を自分が継ぎたいと思い、弟皇子の宇遅能和紀郎命を殺害しょうと秘かに軍勢の準備をした。
大雀命は、兄王が軍勢を準備しているのを知って使者を出し、弟宇遅能和紀郎命に告げた。弟王は直ちに伏兵を宇治川の岸辺に置き、その山の手に絹の幕を張りめぐらし、幔幕を上げて仮宮に見せかけた。
その中に弟王に見せかけた替玉を坐らせ、御座所が良く見えるように飾り、船に仕掛けを設け、兄王が川を渡る時、船に潜んでいた弟王が船を傾かせ、兄王を滑らせて川の中に落とし、川辺で潜む弟王の軍勢が一斉に攻撃した。兄王は川に流されて訶和羅(かわら)埼まで流れ着いて沈んだ。大山守命の死骸は那羅(なら)山に葬った。
この謀反以後、大雀命と宇遅能和紀郎命が互いに皇位の譲り合いをしている際、宇遅能和紀郎命が亡くなられ、大雀命が皇位についた。仁徳紀には自殺したとされている。

『日本書記』応神天皇(ほむたのすめらぎ)は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の第四子で、母は気長足姫(おきながらしひめ)尊(のみこと)という。母神宮皇后は新羅を討たれた年、筑紫の蚊(か)田(だ)でお生みになった。
「武内宿禰兄弟説話」には、武内宿禰と弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の争いがあって、弟は兄を欺いて天皇に讒言し、「武内宿禰が天下をねらう野心があります」と告げたため、天皇は武内宿禰を殺すことを命じた。
武内宿禰は嘆いて「手前は元より二心がない……」武内宿禰に似た臣下の壱岐の真根子(まねこ)と言う者が身代わりに死に、秘かに筑紫に逃れ、船で南海を回り、紀伊の港に帰り、朝廷にたどり着き、罪のないことを弁明した。
天皇は神祇に祈り「探湯(くがたち)」を命じ、甘美内宿禰(うましうちのすくね)と武内宿禰が探湯を行い武内宿禰が勝った。
*「探湯」は熱湯に手を入れ、ただれた者を邪とする。
「弓月君(ゆつきのきみ)、阿直岐(あちき)、王仁(わに)」説話に、百済王は縫衣(きぬぬい)工女(おみな)を奏上した。来米(くめの)衣縫(きぬぬい)の祖先である。弓月君が百済からやってきて奏上して「私は自国の一二〇県の人民を率いてやって来たが、新羅人が邪魔をして加羅国に留まっています」といった。そこで葛城(かつらぎの)襲津彦(そつひこ)を遣わしたが、三年経っても帰ってこなかった。
百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉じた。平群(へぐりの)木菟宿禰(つくのすくね)・的(いくはの)戸田宿禰(とだすくね)を加羅に遣わして「襲津彦が帰ってこない、お前立ちが行き新羅を討ちなさい」と命じられ、木菟宿禰らは兵を率いて新羅の国境に臨み、新羅の王は恐れその罪に服した。そこで弓月の民を率いて襲津彦とともに帰ってきた。
*この説話は古事記に出てくる百済の朝貢に似ている事項である。百済国との交流が盛んであったのか。
「兄媛の嘆き」説話には、天皇が難波の大隅宮に居られた時、妃の兄媛(えひめ)が西方を望み嘆かれた。兄媛は吉備臣の祖先の御友別(みともわけ)の妹で、故郷を懐かしみ父母に会わせて欲しいと天皇に願い出た所、天皇は許しを出された。
その後天皇は淡路島で狩りをされ、淡路から吉備に行かれ、小豆島で遊ばれた後、葦守宮(あしもりのみや)に移り住んだ。吉備の御友別(みともわけ)が食事で天皇をもてなした。それで吉備国を割いてその子供たちに治めさせた。川島県(かわしまのあがた)を稲速別(いなはやわけ)に、これが下道臣の祖先である。
次に上道県に中子の仲彦に、これが上道臣(かみつみちのおみ)、香屋臣(かやのおみ)の祖先である。次ぎに三野県(みののあがた)を弟彦に、三野臣の祖先である。その他にも天皇から賜った者が吉備国の元となった。
「武庫の船火事」説話に、古船を焼いて全国に配ったところ五百の船が献上され、武庫の港に集められた。ところが新羅の使者の船が武庫に居て、そこから出火延焼で多数の船が焼けた。新羅王は驚き、工匠(たくみ)を奉じた。これが猪名部の祖先である。

「仁徳天皇」
『古事記』第十六代天皇、仁徳天皇はただ一人の「聖帝(ひじりのみかど)」と記され、父は応神天皇で母は品陀眞若王(ほむだまわかのおう)の女、仲姫命(なかひめのみこと)、第四子であり名は大雀命(おおささぎのみこと)という。
大雀命は高津宮で天下を治めた。葛城の曾都毘古(そつびこ)の女、石之(いはの)日売命(ひめのみこと)を皇后として、生まれた皇子は、大江(おおえ)の伊邪本和気命(いざほんわけのみこと)、墨江(すみのえ)の中津(なかつ)王(おう)、蝮(たぢひ)の水歯別命(みづはわけのみこと)、男浅津間(おあさづま)若子宿禰(わくこのすくね)命の四人、髪長比売(かみながひめ)妃から生まれた御子は二人、八田(やたの)若郎女(わきいらつめ)妃から生まれた御子は生まれず、宇遅能(うぢの)若郎女妃からも生まれず、御子は会わせて六人である。
「聖帝の御世」の説話には、渡来した秦氏を使い、茨田(まむだ)堤、茨田の屯倉(みやけ)造り、和珥池(わにのいけ)、依網(よさみの)池を造り、難波の堀江を掘って、治水をし、小橋江(をはしのえ)を掘り、住吉の津を定め開発を進められた。
高い所に立って「民の釜戸に煙が上がっていないのを見て」民の貧しいこと知り、三年間租税を免除された。それ故、宮殿は荒れ果て雨漏りしたが、修理もされずに凌のがれていた。
三年後国見に立たれ、国中に煙が立ち昇ったため、民に課税された。これを讃えて「聖帝の御世」というのであう。
*和珥池(わにのいけ)は富田林付近と奈良池田町辺り。依網池(よさみのいけ)は大阪東住吉区か松原市辺り。茨田堤(まんだのつつみ)は寝屋川辺りと、大阪鶴見にも茨田横堤の地名がある。
「皇后の嫉妬と吉備の黒日売」説話では、皇后石之日売命は、嫉妬されることが多く、天皇が召される妃たちを宮殿に入れなかった。天皇は、吉備の海部直(あまべのあたへ)の娘の黒日売(くろひめ)が、容貌が美しいので天皇がお召しになったものの、黒日売は皇后の嫉妬の深さを怖れて、国元の吉備に逃げ帰ってしまった。天皇は淡路島に行った折、黒日売会いたさに島伝いに吉備に行かれ、暫しの間、黒日売との日々を楽しまれた。
その後、皇后石之日売命が酒宴に奉る御綱柏(みつながしは)を採りに紀伊国に行かれた折、天皇は八田若郎女(やたのわきいらつめ)を召して大宮の中にいれられた。この際の皇后の嫉妬から、お二人は不仲になられたが、「聖帝」と言われた天皇も女性には積極的であったようである。
*『日本書紀』に記された応神天皇の「兄媛の嘆き」の説話と、『古事記』にのる仁徳天皇の「皇后の嫉妬・黒日売」とは共通する箇所があって、仁徳天皇と応神天皇とが同一視される由縁になっている。

『日本書紀』では、仁徳天皇の皇位に就かれる経緯について、古事記とほぼ同じ様な筋書きが描かれている。
「民の竃に煙」説話は、民の暮らしに対する天皇の心配りを説き、「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民が根本である」と、人民と君との苦しみや富は共有することを強調され、名君であることを知らしめている。
「池堤の構築」説話も、古事記とほぼ同様、治水工事の模様が詳細に描かれ、神の占いや「人身御供」も出てくる。新羅人の朝貢が有って、この工事を完成させた他、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉じた記事がある。
この年に高麗国の客をもてなされ、軍臣百寮を集めて高麗が奉じた盾、的を試したが、多くのものが射通することが出来なかった。ただ的臣(いくはのおみ)の祖先の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の盾を射抜いた。
その後治水工事は、宇治の栗隅県(くるくまのあがた)、河内一円に堤を築いた。
上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦の四箇所の原を潤し、四万項(しろ)余りの田が得られた。
*この工事は治水も新田開発も有ったのだろう。この頃に新羅、高麗国の交流と朝貢があったと伝えている。『古事記』では渡来した秦氏を使い工事が進められたと記されている。『日本書記』には朝貢の「鉄」が出てくるので、盾、的と描かれているが、工事用の土木用具も含まれていたであろう。
新羅の朝貢が、前回より六年なかったので促した所、新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他の品物合わせ八十艘であった。
「皇后との不仲と八田皇女の立后」説話は、「八田皇女(やたのひめみこ)を召し入れ妃としたい」と仁徳天皇が皇后に申したが、皇后は承知されなかったので、皇后が遠出をされた隙に宮中に入れられた。このために天皇と皇后とは不仲になり、皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)は葛城の故郷に帰り、二度と宮中には戻らず、筒城宮(つづきのみや)で亡くなられた。
皇后は奈良山に葬られ、三年後、八田皇女が皇后になられた。
「鷹甘部(たかかいべ)の定め」の説話は、紀角宿禰(きのつぬのすくね)を百済に遣わし、始めて国郡の境の使い分けや郷土の産物を記録することを行った。そのとき百済王の王族酒君(さけのきみ)に無礼があったので、紀角宿禰(きのつぬのすくね)が百済王を責めた。百済王は恐れ入って酒君を鉄の鎖で縛り、襲津彦(そつひこ)に従わせて進上した。
「新羅・蝦夷との紛争」の説話には、新羅が朝貢しなかったこと。上毛野君の祖先竹葉瀬(たかはせ)の弟を遣わして、貢物を奉じないことを問われた。その途中で白鹿を獲た。帰って天皇に奉じた。
しばらくして竹葉瀬弟の田道(たじ)を遣わされ「もし新羅が抵抗したら兵を挙げ討て」と命じた。新羅人は毎日挑戦をしてきたが、策をもって新羅軍を潰した。その後蝦夷(えみし)が叛いた、田道を遣わして討たせた。蝦夷のために破られ伊峙(いじ)の水門(石巻)が死んだ。その後蝦夷が襲ってきて人民を脅かすので、田道の墓を掘った。中から大蛇が出てきて蝦夷に食いつき、蛇の毒で多くの蝦夷が死んだ。
その後五年後、呉国(くれのくに)・高麗国(こまのくに)が朝貢した。
天皇が崩御、百舌鳥野(もずのの)陵(みささぎ)(堺市大仙町)に葬られた。

「履中天皇」『記紀』には、父は仁徳天皇、母は磐之媛(いわのひめ)尊、大兄去来穂別(いざほわけの)尊(みこと)といい、皇后石之日売(いはのひめ)(記)若郎女(わきのいらつめ)、皇妃黒媛(くろひめ)、皇宮磐余(いわれの)稚桜宮(かざくらのみや)、在位六年、陵墓は百舌鳥(もずの)耳原(みみはらの)南陵(堺市石津ケ丘)。拠点は大和、河内の住吉。丹比(たじひ)で即位してからは,羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘黒媛をめぐり、弟住吉仲皇子(なかつみこ)と軋轢が生じ、皇子は臣下に助けられて大和の石上(いそのかみ)神社に難を逃れる。弟の瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)〔反正天皇〕の救援で助かり、住吉仲皇子は仲皇子の下臣に殺させる。謀反に加わった、阿雲連(あずみのむらじ)濱子(はまこ)、倭直(やまとのあたい)吾子籠(あごこ)を罰し、天皇を救った者など、蘇我満智(そがのまち)、物部(もののべの)伊莒弗(いこふの)、平群(へぐりの)木菟(つくの)、円(つぶらの)大使主(おおみ)ら四人を国政に参画させた。仁徳天皇の没後、後継を廻り兄弟同士の後継者争いが次々と表面化していった。

「反正天皇」記紀に父は仁徳天皇、多遅比(たちひの)瑞歯別(みつはわけの)尊(みこと)と称し、母は磐之媛、皇后津野媛(つのひめ)、皇宮丹比(たじひ)柴籬宮(しばがきのみや)。在位五年、四二年、陵墓百舌鳥耳原(もずのみみはらの)北陵(みささぎ)(堺市北三国ヶ丘)。
説話には、名前にあるように多遅比(たちひ)瑞歯別尊に入れられる。「歯」が生まれたとき既に生えていて長さ一寸、幅二分、上下が整い、身長が九尺二寸半、淡路島で誕生し宮都は丹比柴籬宮(しばがきのみや)とされ、葛城一族の影響が多かったと見られる。反正天皇に関しては記述、資料が少なく実在性の薄い天皇とされている。

「充恭天皇」雄朝津間(おあさづま)稚子宿禰(わくこのすくね)尊。父は仁徳天皇、母は磐之媛、皇后忍坂(おしさか)大中姫(おおなかつひめ)、在位四二年間、皇居遠飛鳥宮(とおつあすかのみゃ)、陵墓恵我(えがの)長野原(ながのはらの)北陵(大阪府藤井寺市国府)。
葛城地方の影響のあった天皇で、病弱のため、皇位の継承を固辞していた。後継の皇子中でも評判は芳しくなかったようだが、在位四二年間の政治の手腕は評価され、治世の事績も氏族の姓の乱れを正すため、甘樫丘(あまかしのおか)に「深湯瓮(くかべ)」を据えて,臣下の名乗る氏姓の真偽を判定した。「盟神深湯(くがたち)」(応神天皇時代に行なわれた)の神判である。
その後の皇位継承で、太子の木梨(きなし)軽皇子(かるのみこ)が決まっていたが,同母兄妹の近親相姦で人心が離れ、弟穴穂皇子(あなほのみこ)が継ぐことになるが、兄の皇子は『記』では伊予に流され、後を追った軽大娘(かるのおおいらつめ)と共に自死したという。
*強大な権力と争いに兄皇子が負けたのであろう。

「安康天皇」『記紀』に、充恭天皇の第二子、穴穂尊(あなほのみこ)、母は忍坂(おしさかの)大中姫命(おおなかひめのみこと)、皇后中蒂姫(なかしひめ)命、没年五六歳、在位四年、皇宮石上(いそのかみ)穴穂宮(あなほのみや)、陵墓菅原(すがわらの)伏見(ふしみ)西陵(奈良市宝来)。石上に宮居を構えた初めての天皇と記され、在位年数は短く、石上周辺の豪族和珥氏と深い関係ではないかと言われている。
天皇が弟の大泊瀬皇子に皇女を世話した際、根使主(ねのおみ)の虚言を信じて大草香(おおくさか)皇子を殺してしまった。その後皇子の妻中蒂姫(なかしひめ)命を皇后にするが、後に皇子の七歳の息子目弱王(まよわのおおきみ)に事実を知られ、天皇が寝ている際、目弱王に殺される。死んだ天皇には世継ぎがなく、その後王権は次々に変わって行く。

「雄略天皇」『記紀』に依れば、充恭天皇の第五子、大泊瀬(おおはっせの)幼武尊(わかたけるのみこと)、母は忍坂大中姫命、皇后は草香(くさかの)幡梭姫(はたひひめ)皇女。没年六十二歳、在位二十四年間、泊瀬(はっせの)朝倉(あさくら)宮、陵墓丹比(たじひの)高鷲原(たかわしのはら)宮(大阪府羽曳野市島泉)。『宋書』『梁書』にも倭の五王に最も有力で実在視されている天皇で、周辺国を攻略し勢力拡大した形跡が残されている。国内の説話も多く残されていて、眉輪王(まよわのおおきみ)、葛城円大臣(つぶらのおおおみ)、市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)(仁賢天皇・顕宗の父)、御馬皇子(みまのみこ)らを積極的に粛清し、志貴(しきの)大県主(おほあがたぬし)、吉備上道臣(かみつみちのおみ)、下道臣(しもつみちのおみ)、伊勢朝日郎(あさけのいらつこ)らの反乱謀反を鎮圧したと伝えられる。天皇の資質として「名君」「暴君」の両面を兼ね備えていた。
説話には引田部赤猪子の若い頃に美しい乙女に何時か宮廷に召抱える約束を八十年後、老いた老婆となって天皇に会う話や、葛城山で一言主神と出合った話など記されている。

「清寧天皇」父、雄略天皇、白髪武広国(しらかのたけひろくに)押稚(おしわか)日本根子尊(やまとねこのみこと)、母は葛城韓姫(かつらぎのからひめ)、没年四十一歳、在位五年、皇宮磐余(いはれの)甕栗宮(みかくりのみや)、陵墓河内坂門原陵(大阪府羽曳野市西浦)『古事記』に依れば雄略天皇の皇子の白髪(しらにの)大倭根子(おほやまとねこの)は磐余の甕栗宮で天下を統治された。
この天皇には皇后がなく、皇子も生まれなかった。説話には生まれながらに「白髪」であったと言う。母は葛城円大使王で娘韓媛(からひめ)を雄略天皇が暴力的に、無理やり入廷させて生ませた皇子と言われた。その後の皇位継承で問題を起こす元となった。

*大和盆地の巻向付近には、崇神王朝(三輪王朝)の王権交替説が強く残されているが、それは今までの万世一系の論理を覆す説である。
その推論に従えば、応神天皇(河内王朝)以後、河内を中心に治水、土木工事がなど盛んに行われたと『記紀』にも述べられているが、河内に実在するあの巨大古墳群、羽曳野、古市の応神天皇陵と、堺の仁徳天皇陵と指定される大仙古墳遺跡については、その巨大古墳造営の記述が全く見出せない。
また天皇の妃の記録として、各地の豪族の女性についても『記紀』に記される他、大陸との交流、新羅、百済、高麗の朝貢の様子も記されている。さらに国内に様子については、蝦夷の反乱を窺わせる記述も掲載されている。
前述の通り、仁徳天皇の没後を境にして、皇位継承を廻り、兄弟同士の争いが熾烈に繰り広げられたと考えられるが、このような争いから、二十五代武烈天皇を河内王朝の最後として、応神天皇五代の末裔とされる継体天皇に皇位を簒奪されるという、王権の交替があったのではないだろうか。そして、この継体王朝になったため、多くの人力を総動員させた河内王朝のシンボルともいうべき、巨大古墳造営の記述が抹殺されたのではないだろうか。多くの謎を残す古墳群である。





17代
履中天皇(339~405)            飯豊青皇女

15代     16代    18代               24代
応神天皇(200~310)   仁徳天皇(290~399)   反正天皇(352~410)   市辺押磐皇子    仁賢天皇(449~498) 

25代
23代      武烈天皇(489~506)
顕宗天皇(450~486)
20代
安康天皇(401~456)          皇女  皇女(手白香皇女=武烈天皇の妹)
19代
充恭天皇(374~453)
21代
雄略天皇(418~479)   清寧天皇(444~484)
26代
吉野毛二俣・大郎子・乎非王・汗非王        継体天皇(450~531)
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『倭の五王と記紀の不一致の謎』川村一彦

2014-04-08 06:40:21 | 小論文
「倭の五王」と「記紀」の不一致の謎
                       川村一彦       
わが国の古代を語り知るが上で未解明で多くの謎で包まれた「魏志倭人伝」で「邪馬台国」と「卑弥呼」は未解明で謎の中、一五〇年後の中国の史書に「倭の五王」について記述が残され、同時期の「記紀」に比定、目される天皇の接点を検証、邪馬台国候補の纏向遺跡より、佐紀古墳群から河内は古市古墳群から百舌鳥古墳群へ、葛城勢力の関与を窺わせながら、河内王朝の存在想定と、未解決の再考察と「倭の五王」の符合性と接点を探るものである。

「三輪王朝」から「河内王朝」
邪馬台国から大和王朝成立の、連続性及び経過についての歴史的説明はついていないが、纏向遺跡郡辺りと、箸塚古墳が卑弥呼の墓と仮定して、魏書の記述から一五〇年間後の倭の五王の「讃王」413年の東晋への貢物の間に何が想定できるか、倭の五王の出現の五,六代の欠史八代の天皇が、その鍵を握り、「記紀」に見る欠史八代は信憑性や実在性に不明な点多く、架空が一般的な評価であるが、僅かな記述の中に古代のなぞを解く大きな手掛かりやヒントが秘められているのではと思われる。
推定ではあるが、邪馬台国有力候補の纏向遺跡の卑弥呼の墓とされる「箸塚古墳」の祭祀の倭迹迹日百襲媛命は欠八代の七代孝霊天皇の皇女であるが、この時期が「魏志倭人伝」の魏国の使者の到来と重なったのではないだろうか。
欠史八代の後期の期間が初期ヤマト王朝の時代で倭の五王の空白の期間ではないだろうかと思われる。

欠史八代の記載事項が少なく、一般的には便宜上「記紀」の編纂に盛り込んだのではと推測される。93歳から123歳と当時の寿命として考えられないほどの長寿であり、各天皇の政治活動の実態記載がない。ただ氏族の系譜を記されており、皇宮、陵墓も橿原市から御所市に渡って展開されている。近年卑弥呼の墓と目される「箸墓古墳」祭祀される「倭迹迹日百襲媛命」は孝霊天皇の皇女とされている以上、邪馬台国と何ら関係があって統一されて、初期ヤマト王朝に継続されて行くのではないだろうか。
ある意味では国家形成の政変、混乱、淘汰、統一への舞台となった所で、曖昧な部分の編纂となったのではないかと推測を私見ではあるが想定する。

では初期ヤマト王朝と目される天皇と皇宮、御陵は何処の存在すのだろう。
欠史八代の後にその存在性の高いとされる「崇神天皇」「景行天皇」宮、御陵など集中する柳本古墳群などがある。

第10代「崇神天皇」柳本古墳群の中に崇神天皇の陵墓、宮が残されている。その中に纏向遺跡も含まれるが、ヤマト王朝の起源をから河内王朝までの波乱を検証するに初代ヤマト王朝の起点的存在の「崇神天皇」は昨今卑弥呼の墓と称される「箸墓古墳の記述に倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモソヒメ)が亡くなった時に、大市に墓が造られたと言う。
崇神天皇の世に災いの疫病が蔓延したときに、「倭迹迹日百襲媛命」(ヤマトトトヒモソヒメ)とに大物主神が憑き「災いはわが子大田田根子を祀らせれば鎮まる」と告げた、大物主の言うとおりにすると疫病は収まったと言う。
またワトトヒモソヒメが「武埴安彦」の反乱予知し崇神天皇は撃退したと言う。
こうゆう風にワトトヒモソヒメは巫女的な役割にも担っていたようである。
又大物主の妻となって物語りは、何時も大物主が夜にしかやって来ないので、朝には顔見せて欲しいと頼み、神は「朝には箱に入っているから、驚かぬように」翌朝は子をあけて姫は驚き声を上げてしまった。
「お前は恥をかかせてやろうと」飛び去り、後悔をした姫は悔いて座り込み、その拍子に尻餅をつき箸が陰部に刺さり死んだという。
その墓が大和盆地で最も古い古墳とされ、卑弥呼の墓ではないかと近年取りざたされて、科学的実証でその史実性を認められつつある。
没年119歳、在位68年、皇宮磯城瑞籬宮、古墳柳本行灯山古墳。

第十一代垂仁天皇の時代は、在位年数99年の割りに大きな政変は無く神話として兄サホビコの謀反で后サホヒメの裏切りが有って後継の皇子ホムチワケが口がきけない障害を持って生まれてきたは魂の欠陥と思われ、不倫をした母サホビメの祟りとされて手を尽くすが、出雲の神オオクニヌシの祟りをお告げがあり、ホムチワケを出雲に向かわせ参拝した所突然ことを喋りだしたと言う。
これは出雲の豪族との紛争か治世に問題があったのかも知れない。垂仁天皇の政治は古墳の埴輪と土木の記述、土師氏の祖先とされる出雲出身の野見宿禰の角力が語られている。皇宮は纏向珠城宮、陵墓は尼辻宝来山古墳、139歳に没する。

第十二代景行天皇は神話の中では評判が芳しくなく、多くの妻と80人の皇子を設けて、そのうち三人の皇子が後継者と目されていた。その一人のオホウスが天皇の命で美しい姫を連れ帰すように指示されたが、その姫を妻として父王を欺いた。父王は弟のヲウスに諭すように言い告げた。
長い間、顔を見せないので尋ねた所、「夜明けに厠に待ち伏せ、捕まえて掴み捻り潰した」と答えた父王はその粗暴性に敬遠し、九州のクマソタケル兄弟を討ち取ることを命じた。叔母のヤマトヒメから御衣と御裳と剣のお守りを受け取り九州に、酋長のクマソタケル兄弟を女装し騙まし討ちをして殺害をした。
その功績で「ヤマトタケル」の名を与えられた。その帰りに出雲の国はイズモタケルがその脅威を振るっていたのを退治せんが為に、友情を装い策略でイズモタケルを切り殺してしまう。
この勇敢な英雄伝説は九州の熊襲、出雲国勢力の反乱の平定を意味すると思われる。
大和に戻ったヤマトタケルを待ち受けていたのは、労いの言葉も無く「東征」を命じられる。
自分だけに何故役目を与えられるか、出発前に会う叔母ヤマトヒメに胸に内を打ち明け「草薙の剣」を貰い受け東国に、伊勢、尾張、相武国で騙まし討ちに遭い苦境に、叔母に貰った袋から「火打石」でその場を凌ぎ、更に東に走水(浦賀水道)で嵐に遭い船は前に進めず妻オトタチバナが自ら海に身を投じて海神を鎮めた。
「草薙の剣」をミヤズヒメに預け伊服岐の山の神に行く途中に「白猪」をやり過ごし先に進むと、その「白猪」が山の神だった。
あしらわれたことに怒った「白猪」はヤマトタケルに「雹」を降らせ打ち負かした、傷を負ったヤマトタケルは伊勢国は「能煩野」辺りから力尽き息絶えて「白鳥」になって天に舞い上がり河内国を経て天高く飛び立っていった。
このヤマトタケル伝説は大和王権が未支配の地が残っていたことを意味し、未開国を平定するヤマトタケルの英雄伝に伝え残すものである。

第十三代成務天皇には継子が居なかった。在位六〇年皇宮は志賀高穴穂宮、107歳で没し政治の業績の記事戦乱も少なく、近江に都があった。陵墓は奈良市山陵町、
ただし「タラシ」の名前に付いているのは景行天皇の大足彦(タラシ)忍代別尊以後続く、深い意味があるのだろうか。
成務天皇に継子が無くヤマトタケルの皇子が第十四代中哀天皇引き継がれた。ここに来て直系が途絶えて、在年数九年と年齢不詳、気丈で謎の多い神功皇后がヤマト王朝を牽引して行く。

第十四代仲哀天皇はヤマトタケルの皇子が継子となり、后に神功皇后で記事には九州北部、穴門(山口長門)の記事が多く明らかにタラシ系の伝説の原型なる、神功皇后の影響と言えよう。皇子タラシナカツヒコ仲哀天皇は即位後九州へ遠征中に変死をとげてしまった。理由は神功皇后に神のお告げがあって、「西のほうにある、金銀宝財で溢れた国を与えよう」神のお告げに随わず「神を疑った」にあって怒りを買い変死をしたと記されている。後年の「白村江の戦い」の皇極天皇の客死に似ているが、兎も角朝鮮半島に行く途中の出来事で有った様で詳しくは分からない。
神功皇后が朝鮮半島への遠征の執着するわけは、神功皇后の出征の由来にすることが暗示をしている。

* 「神功皇后」の出生の逸話、新羅で日の光を陰部に射し、やがて身篭った女が「赤い玉」を産んだ。ある男子の赤い玉を貰い受けた。国主の子から牛殺しの疑いをかけられて「赤い玉」を差し出し許しを乞う。赤い玉は大きな娘になったが、驕れることに罵られ「祖国に行きます」と小船で逃げ出し難波に住み着き「アカルヒメ」と呼ばれるようになり「多遅摩」に戻って、八つの宝が持ち込まれ「出石神社」に祀られている。そして娘を貰い子孫に神功皇后が出ることになった。


「河内王朝の誕生」
成務天皇亡き後、神のお告げに従ったのか、神功皇后の新羅に遠征、見事に新羅を従えた。帰国途中で皇子(応神天皇)を出産した。
所が大和に帰る途中に皇子の腹違いの兄の反乱に遭い、麛坂王、忍熊王との跡目争いと言うより王権交代は熾烈を極め、これを神功皇后と応神天皇がまた打ち破り、皇子ホムタワケが即位する。
その戦いがヤマトから河内王朝への基点となったと言われる。
この頃には「タケウチスクネ」が活躍、禊をしょうと琵琶湖、若狭国を回った。
ホムダワケの即位の手続きが若狭の角鹿の神の名と交換し即位が承認された。

* 「古事記」説話の若狭まで行って禊を行なって名前を交換で即位が承認、この地の氏族の渡来系神社と祭神との影響があったのか。

即位した応神天皇には後継者に近淡海国で出合った美しい娘の間にウヂノワキイラッコが居た、その他にオホヤマモリとホサザキの異母兄弟が居た。
表面的には後継争いはなかったが裏面では作為を凝ら死、大王ホムダワケ亡くなると約束通りオホザキは弟のウヂノワキイラツコに後を譲った。
これを不満とした兄のオホヤマモリは納得せず軍勢を集め、ウヂノワキイラツコは川を渡るときに待ち伏せに遭い殺されてしまい、那良山に葬られた。
残った二人は互いに皇位を譲り合いをしている間に弟のウヂノワキイラツコが若くして亡くなってしまった。

オホサザキ仁徳天皇は即位した。聖帝の名の高い天皇は難波は高津宮で天下を治めたと記され、地水工事、堤、池など大規模な工事が起こされ今も地名に茨田の堤が残っていて河内湾は治水が悪く、民は苦しみその救済に年貢を3年間免除など数々の功績の話が残されている。
一面聖帝オホサザキは女性問題で后の嫉妬で悩ませる天皇であったらしい。后のイハノヒメは葛城氏出身で葛城氏との影響も有ったらしい。
陵墓は世界最大の堺市大仙町、143歳没した。

仁徳天皇の死後、即位をしたイザホワケ第17代履中天皇の治世は波乱に満ちていた。即位の祝宴で寝込んだイザホワケの宮殿にスミノエノナカツミコは火を放ち、イザホワケは危うく家臣に救われ、策略をもって弟スミノエニマカツミコを打ち取り、在位六年64歳で没した。

その次に第18代反正天皇ミズハワケであるが記事も少なく在年数五年と短くタジヒノミズワケと河内は丹比芝籬宮にて即位した。六十歳で没し、陵墓は堺市北三国ガ丘。

その次に王位に就いたのは第19代允恭天皇ヲアサヅマワクネは持病の為と辞退し続けたが断りきれず即位、遠飛鳥宮で政務を執った。新羅からの薬のお陰で病は改善されたと記され、氏姓制度に取組んだと伝えられ、全ての氏を甘樫丘に集め「盟神探湯」(手を湯に浸けさせ偽る者に誓約をさせる)氏姓を改めさせた。
 ミズハワケは後継者ヲキノシカルノミコに定め七十八歳で没した。陵墓は藤井寺市国府。在位42年。

第20代安康天皇は石上に宮を構え在位年数四年と短く56歳で没し奈良市は蓬莱に陵墓がある。
*仁徳天皇の皇子3人の天皇が皇位を継承争いに終始し、複雑な天皇家の後継争いに、実の兄妹が禁断の愛に陥り、兄のキナシノカルノミコと実妹は伊予に流刑で二人は自害で終末を迎える。あと継いだ安康天皇も誤解と策略の絡んだ柵で、前代未聞の天皇が殺害される事態で河内王朝の中でも短期間で終わる。そんな短い安康天皇の王権の間にも朝鮮半島の影響行使に派遣と東晋、宋、南斉、梁国に使節を送らなければならなかった。
またその他についても記述も記事も少なく謎の多い河内王朝後期であった。
安康天皇には後継者の継子も無く弟の雄略に皇位は引き継がれる。

第21代雄略天皇は在位24年間に多くの記事を残され精力的に天下の静動を見ながら国力を蓄え、支配地を広めていったと言う推測され、積極的に大陸に使者を送り「宋書」にある「倭王武」は雄略天皇と比定され、新羅、百済の関係も深め、国内においては均衡の取れた豪族の支配、人脈の布陣をしていたと思われる。
 またその評価については「悪、徳」の両面を甕備えた大王と言えよう、雄略天皇が王権に就くまでには対立候補の兄クロヒコ、シロヒコに二人に残忍な殺害をしたと伝えられ、その非情さの一端も窺える雄略天皇と複雑な後継争いが続いた。
* 応神天皇から仁徳天皇へとヤマト王国から河内に拠点を移し、国内的にも統治拡大と強力な外交を進め中国との摩擦を避けながら、高句麗の南下を阻止せんと「河内王朝」を確立し大和盆地の自然要塞から外交、交易の立地条件の良い内海の難波の津に一大拠点を築き、中国の文化吸収と、朝鮮半島の影響力を重視した政策を推進して行ったが、ここに来て熾烈な後継者争いに、大和へと主軸を移さなければならなかった。
   
「倭の五王」
「記紀」からの比定される「倭の五王」の中国の記述では倭王の名は「讃王」・「珍王」・「済王」・「興王」・「武王」になっている。
倭の五王の年表に拠れば下記の通りになっている。
◎413年、東晋王朝に「倭王讃」が安帝に貢物を献ずる。「晋書」安帝紀。
◎421年、宋王朝に「倭王讃」朝献し武帝より「倭王讃」除受を受ける。「宋書」倭国伝。
◎425年、宋王朝に「倭王讃」司馬の曹達を遣わし、貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◎430年、宋王朝に「倭王讃」貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◎438年、宋王朝に「倭王珍」記述による「倭王讃」が没し、弟珍が立つ、自ら「使持節都監倭・百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の六国緒持安東大将軍倭国王」と称し、聖史記任命を求める。四月「倭王珍」安東将軍国王と認める。「宋書」倭国伝」
◎443年、宋王朝に「倭王済」宋・文帝に朝貢をして「安東将軍倭国王」とされる。「宋書」倭国伝。
◎451年、宋王朝に「倭王済」7月、安東大将軍を進号する。「宋書」倭国伝。
◎460年、宋王朝に「倭王済」12月、孝武帝へ遣使、貢物する。
◎462年、宋王朝に「「倭王興」孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。「宋書」孝武帝紀、倭国伝。
◎477年、宋王朝に11月、遣使して貢物する。「宋書」順帝紀。これより先、興没し弟の武が立つ、武自ら「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の大将軍倭国王」とする。「宋書」順帝紀。
◎478年、宋王朝に「倭国王」上表し、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の緒軍事安東大将軍倭王」とする。「宋書」順帝紀・
◎479年、南斉王朝に「倭王武」高帝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍に進号。「南斉書」倭国伝。
◎502年、粱王朝に「倭国武」4月梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。

日本の比定される天皇としては「応神天皇」、「仁徳天皇」、「履中天皇」、「反正天皇」、「允恭天皇」、「雄略天皇」、「雄略天皇」である。
中国の呼び名から日本の天皇名に類似する点、和号の称号でも接点を見つけることは出来ない。
時代考証から推測するに「日本書紀」には天皇の系譜から「讃」=履中天皇、「珍」=反正天皇、済=允恭天皇、「興」=安康天皇、「武」=雄略天皇の説が有力視される。
この内、「済」「興」「武」は一般的に一致すると思われているが、「讃」応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・「珍」仁徳天皇・履中天皇と意見が分かれる。

* この頃の日本の王朝はヤマト王朝から拠点を大和盆地の北辺りの佐紀古墳群の辺りから古市、百舌鳥古墳群のある河内王朝へと移しつつあると所かと思われ、邪馬台国から空白の150年が日本の支配権が、目下有力視されている纏向遺跡辺りの大和王権初期の地点で「箸塚古墳」卑弥呼の墓と推定するならば、大陸に交流を持って外交で朝鮮半島に支配を求めるヤマト王朝の安定したこと、ヤマト王朝が達成されて、尚内紛か権力争いで河内に活路を見出す新王朝の出現も視野に入れて、倭の五王を考えなければならない。
* 「魏志倭人伝」による日本の支配は「邪馬台国」の女王卑弥呼が記載されていて、その後150年を経て中国の史書に倭の五王の遣使が国交を始める。
貢物、朝貢と接触を図り、朝鮮半島への中国の王朝に承諾を得るためにの思惑があった。
413年から502年までに東晋、宋、南斉、梁王朝に対等な関係の国交を臨んだが中国の高麗国などの覇権を巡り日本の思惑通りには行かず、八十年間余りで国交が消滅する。
倭の五王は代が変わっても遣使を送り、朝鮮半島への影響力と支配を認めさせようと画策した。
「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国緒軍事安東将軍倭国王」と言う肩書きを貰ったが、実際は百済、新羅より格下の将軍称号で、最後まで百済への支配を認めなかった。
* 150年振りに中国への外交を開始した倭の五王は倭国の王名、天皇名、「記紀」の掲載名で呼ばれていなかったのか、呼ばれなかったのか、名乗っても中国風呼び名に改名され扱われたのかもしれない。
* 中国での天皇の和風諡号を何故使用されず、讃、珍、済、興、武と呼ばれたか、倭国も中国の時の王朝が使い、代々受け継がれてきたと思う。
 しかも侮蔑した名をつけて日本を従属国の扱いをしょうとした。邪馬台国、卑弥呼も「邪」,「卑」の名称も目下の扱いしたようだ。
* 一方的な中国の記述なので遣使との遣り取りを詳しく述べられておらず、各王朝の史書の記述も信頼性に乏しく、なかなか合致する項目がない。







  
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『神仏習合と廃仏毀釈』2・川村一彦

2014-04-07 05:11:16 | 小論文
「神仏習合と廃仏毀釈の謎」           川 村 一 彦
明治四年、今から140年余り前、日本が明治維新と言う史上にない大変革に近代日本に邁進する中に「廃藩置県」と「神仏分離令(通称)」が発令された。
それまでの日本は仏教伝来依頼、神仏は共栄共存をしてきた。
世界古今東西、外来宗教と既存宗教の軋轢、紛争は世の常であるが、日本人の英知言うべきか、旨く融和、融合し、神仏習合が聖徳太子、馬子の統治によって仏教が正式に導入され西暦593年に四天王寺が建立されたと記されている。
以来1400年余り大きな争いにもならず融和、伝統文化を形成し。歴史を刻んできた。
日本の津々浦々に神社と寺院が隣り合わせ、また道を一本隔てて建立されている光景を良く見るものであるが、明治維新までは神仏一体の社寺だったが、明治初期の神仏分離令によって切り離されたのである。
現在日本には神社が8万8千社有って、寺院は7万5千寺が有ると記されている。
多分明治以前は神仏分離がなされていないので十万社寺は無かったろう。
聖徳太子の飛鳥時代に仏教到来した時には官寺、氏寺かで一般の信仰の対象としての堂塔、仏像ではなく国家祈願、氏族の祈願の寺院だったと思われる。
国家管理の寺、僧は朝廷の許可なしでは寺院の建立も出家も出来ない。
従って既存の宗教神道とは争いもないし、神道も神事や催事、国家祈願の為のものだったとすれば紛争の起こる理由はない。
奈良時代の聖武天皇は総国分寺の本山として東大寺を建立、仏教による鎮護国家を目指した。

「本地垂迹」
平安時代に入って「最澄」「空海」に出現によって官寺から一般信仰の対象となって、宗派が出来て、山岳信仰や各地の神社との融合に「本地垂迹」と言う神道と仏教の共存のあり方が生まれてきた。
神道が仏教に一歩、歩み寄り、仏教も神道に融和し互いに化身、裏表の権化として、公家から庶民まで浸透して行った。

「修験道と権現」
神仏習合の先駆けと言えば奈良時代に成立したといわれる役小角が開祖とされる「修験道」を上げる事ができる。
 森羅万象、生命や神霊が宿ると日本の古神道の一つの「神奈備」が磐座と言う山岳信仰と習合し、中国の陰陽道、道鏡が結びつき成立し形成された日本独自の宗教と考えられる。
 開祖の役行者(小角)は7世紀ころ大和は葛城山を中心として山岳信仰を確立し、「神変大菩薩」の称号で多くの謎と伝説の宗教者である。
 役行者の創立した修験道の根本寺院とされ金峯山寺の本尊は蔵王権現として信仰され大峰山から熊野三山にかけて修験者の先駆けの霊地、聖地となった。
大峰山は聖地中の「聖地」、修験者の霊峰なのである。
平安時代、時の権力者の藤原道長の自筆の15巻の経巻を銅の筺に収め埋経した。
公家、貴族の頼長、師通などは峻険で至難の登頂に身を清め邪心を払い、霊峰に蔵王権現に救いを求めた。
今日唯一女人禁制を敷く大峰山は、熊野と続く極めの「奥駈」がある。その熊野大社への道には歩むごとに身よ清めて神仏の一つ一つへの信仰を高め、山所権現、若一王子、九十九王子と神仏習合の神々と仏達が迎えてくれる。
熊野本宮は現在は山間にあるが、明治二十二年の大水害に熊野川の中洲にあった社は悉く流され、その跡地に「大斎原」(おおゆのはら)と日本一高い鳥居が建っている。
また一遍上人のこの地に感得した言う大石碑が建っている。筆者も訪れてかってはこの地に諸国より集まった人々は朝野の隔てなく熊野街道を光景を彷彿とさせる。
社殿の祭神、本地仏は下記の通りである。
 上四社、熊野牟須美大神=千手観音。速玉之男神=薬師如来。家都美御子大神=阿弥陀如来。天照大神=十一面観音。
中四社、忍穂耳命=地蔵菩薩。瓊々杵尊=龍樹菩薩。彦火火出見尊=如意輪観音。鵜葺草葺不合命=聖観音。
下四社、軻遇突智命=文殊菩薩。埴山姫命=毘沙門天。弥都波能売命=不動明王。稚産霊命=釈迦如来。
これらは神の神域に融和した仏教が主導権を握って行き、諸国に熊野詣の組織網を造り、本地垂迹を進めて神々は仏の化身として扱い、上の威光や神罰を巧みに活用し穢れ忌避の考えが展開され、全国展開して行き、公家から一般庶民まで浸透して言った。
熊野には別当職を置き、検校職を設置し僧侶が取り仕切り、本来の古神道の意味合いが薄れて行き、その反発として神本地垂迹が生まれたが、長年の全国的に広まった権現と本地垂迹が江戸時代後半から国学者や本居宣長のように「古事記」を見直し、神国日本の復古を願う人々の流れを造り「廃仏毀釈」への道を歩んだ。
 
熊野三山で熊野那智大社は十三所権現、那智山権現として参道の長い階段の右に西国三十三所1番札所青岸渡寺があって、左に大鳥があって熊野那智大社へと続き明治維新の神仏分離令で神社と寺院が分離されたことが窺い知れる。
 那智大社は那智の滝が重要な信仰の聖地、霊地で神霊と、祭神熊野夫須美大神(イザナミ)が勧請され、熊野本宮と同じように上四社、中四社、下四社に神々と仏の習合した本地垂跡の化身が一体と成している。
また観音巡礼の青岸渡寺の補陀洛山の世界と相まって霊地聖地を造って行った。

熊野速玉大社は「熊野速玉大神」(イザナギ)祭神と祀られ、上四社、中四社、下四社にそれぞれ神々と仏が化身として表裏一体と成して祀られている。
三山成立後は徐々に神官や禰宜が存在しない、組織的な仏教を主体に社僧が牛耳り、「熊野権現」化が進み修験者の霊場となっていった。
 三山を管理するのは「三山僧綱」が統括していった。
また公家、貴族の深い信仰が熊野三山を支えて霊地巡礼が拍車を掛け「伊勢に七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り」と言われ、「蟻の熊野詣」とまで言われた。
明治の神仏分離令後は仏教の形跡は消え、僅かに青岸渡寺の観音霊場と「大斎原」の一遍上人の大きな石碑が残っている。

その他に各地に次々と神仏習合の聖地霊地が生まれて言った。
 九州は英彦山は修験道の聖地である。祭神は神話の国に近いのか神道伝説に「鎮西彦山縁起に「役行者」が登場する。天照大神から彦山権現に変化してゆく、本地垂迹の化身するが1千年以上続いた神仏習合も神々と堂塔とは分離されている。
四国一の霊峰は石鎚山で西日本一の標高一九八二M、日本七霊山として古くより知られ、役行者の強い影響を受けて、熊野権現の包括されている一面がる。維新の神仏分離令以降は石鎚神社と寺院は一時廃寺されたが復興されている。
秋の宮島も世界遺産に登録され、厳島神社と弥山の水精寺の信仰が一体化していたが、神仏分離令後分けられ,往時を偲ぶことができる。
その他に山岳信仰では白山、立山、御嶽山があって神仏習合の聖地である。
また富士山、日光、恐山は根強い地域の伝統ある信仰を得ていて、東北に行くと「出羽三山」が神仏習合の霊地聖地で明治まで多くの人の修験者の信仰の場所だった。
「月山」月山神社(月読命)=月山権現で本地仏は阿弥陀如来。
「羽黒山」出羽神社(伊氐波神)=羽黒権現で本地仏は正観音菩薩。
 「湯殿山」湯殿山神社(大山祇神、大己貴神)=湯殿山権現で本地仏は大日如来。
熊野、英彦山、出羽の日本三大修験山と言われ、神仏分離令の以前は「別当寺」として羽黒山では山内15坊を数えた。月山では多くは廃寺になったが、多くの阿弥陀仏や地蔵尊の石碑が残されている。湯殿山には大日坊、本道寺、など真言宗寺院として今日は残っているが往時を偲ばせる山門のみが当時の姿を偲ばせる物である。

「別当寺」
別当寺は江戸時代以前に置かれていた、神社を管理する為に置かれた寺で、神前読経を神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を社僧といった。
別当は別に執務する仕事があるが兼務すると言う意味で、別当寺は神社の権現である神仏習合の本地垂迹説により「神社と寺は同一視」されて神社の最高権力者として、宮司はその下の地位に置かれた。
* 戦前までは神社で般若心経を唱えていて、一般国民は拘りもなく寺社に祝詞、読経の祈願を掛けていた様である。

* 別当寺の置かれた背景に、戸籍制度に寺に檀家制度に利用し管理させていたが、寺社領を保有し、通交手形の発行などに一つの村に一別当寺で寺社宗教施設の役割を負わせたのかも知れない。

「神宮寺・神護寺」
神社と共生をして成り立っていた神宮寺は檀家を持たなかった為に、神社、大社と言われるような神道の運営を把握し時代によっては、どちらが主体か、従属かは判断は一律には言えないが、大きな神社には堂塔の多く境内に配置、神宮寺と称し、寺院が従属の例もあれば日光東照宮のように大社であっても、輪王寺の僧侶が把握管理をしていた。神社抜きで神宮寺が成り立たず、また鎮守社は寺院の存在なしでは成り立たず、相方互助関係にあった。
神宮寺については四国八十八ヶ所の札所の中に一直線に長い石段の上には神社があって、その石段の中ほどに左手に札所の寺院があるのを見た事が有る。
また私の母方の在所の恩智神社の長い石段の途中に右手に感応院を知っている。各地の神宮寺は下記の通りである。

◎稲敷市に神宮寺。舟橋市に神宮寺。白井市に神宮寺。香取郡神崎の神宮寺。
上越市の神宮寺。十日町市の神宮寺。長野松本市の神宮寺の二寺院。松本市の須々岐水神社の神宮寺。佐久市の神宮寺。軽井沢町の神宮寺。湖西市の神宮寺。小浜市の若狭神宮寺。豊橋市の神宮寺。鈴鹿市の神宮寺。松阪市の神宮寺。三重県多気町の神宮寺。宮津市の籠神社の神宮寺の成相寺。長浜市の長濱神宮の舎那院。泉佐野市の日根神社の神宮寺は慈眼院。奈良市は神宮寺は興福寺。奈良は桜井市は平等寺。出雲市は日御碕神社の神宮寺。尾道市は神宮寺。阿南市の神宮寺。大町町の神宮寺。などがある。

「八幡神の神仏習合」
現人神である聖武帝が仏教に帰依する、矛盾した話ではあるが、東大寺建立に当たって宇佐八幡より守護神として勧進している。
そのとき様子は宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰を付けた輿に乗って入京した。
北九州は豪族国造宇佐氏の氏神だったが、数々の奇端を現し大和朝廷の守護神となった。東大寺に八幡社から初に分社された社は東大寺大仏殿南方の鏡池付近に鎮座したが、平氏による戦禍に焼失し、現在の位置に遷座された。
明治の神仏分離によって東大寺から独立した。
奈良時代末期の「宇佐八幡神託事件」では道鏡の天皇の位の野望に、「宇佐神宮」に朝廷は和気清麻呂を使者の送り「宇佐八幡の宣託で無道の者の掃除すべし」を伝え失脚させた。朝廷は八幡神を応神天皇の神霊とし、伊勢神宮に継ぐ皇祖神と崇敬されていた。
そして朝廷は西暦781年には鎮護国家の仏教守護の神として「八幡菩薩」の称号を贈り、神仏習合として広まっていった。後に本地垂迹において「阿弥陀如来」が八幡神の本地仏とされた。
日本三大八幡宮の一つの京都は石清水八幡宮は鎌倉時代のもう弘安4年の蒙古襲来の折りには、西大寺の僧叡尊は一門の300人の僧と延暦寺、園城寺の持戒僧700人が加わり7日間昼夜を問わず「東風を持って吹き返せ・・」と仁王経、勝王経、法華経など読経は峰々谷間に響き渡った。この読経で人々は「神風」と叫んだと言う。
石清水八幡宮は明治の神仏分離令まで神仏習合の霊地として、山内坊舎40を数え「南無八幡大菩薩」が読経され鎌倉時代には僧兵が牛耳っていた。

「神宮寺と鎮守社」
神宮寺は神社の管理をする為に境内に堂塔を建てて僧侶が神社を取り仕切り神人を
信者を取り込み寺院経営に寄与させていたのだろう。
主客が力関係で神社に寄生する形で存続を図ることも有れば、神社に帰属する寺院もある。神宮寺のように、神社の参道の脇に神宮寺として建立されている寺も少なくない。
あくまでも、神宮寺と鎮守社は時代の趨勢によって、主客転倒は世の常で、明治維新の廃物稀釈を期に王政復活により、神国日本の嵐に、江戸時代の神社の従属から逆転し、神棚は仏壇より上の神棚に鎮座する明治維新であった。混在した神仏共存は明治以降、無理やり分離されたことは否めない。

「地主神と守護神」
 日本の二大仏都と言えば比叡山と高野山、中でも比叡山延暦寺は京都の鬼門に当たり、「鬼門除け、災難除け」の社として崇敬され名神大社として、また二十二社として社格が高いが、一方比叡山延暦寺を建立し、比叡山の地主神である大己貴神、大山咋神を祭神として当社を守護神としても崇められている。
 最澄が入宋の折に中国天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君に習って山王権現として延暦寺と結びつけ山王神道を説いた。
明治の神仏分離令前は山王権現として釈迦の垂迹とされ、徳川家康に仕えてい政僧天海が山王一実道を展開させ家康の霊を東照大権現として神号で「日光東照宮」を祀る事を主張し、この時の山王権現は大日如来であり天照大神と説いた。
筆者の著書の「平安僧兵奮戦記」に比叡山の僧兵が延暦寺の守護神の日吉社の神輿を担ぎ朝廷に強訴を繰り返し寺派の要求を突きつけ覇権を争った。
南都の興福寺も春日社の神木を担ぎ比叡山の延暦寺に対抗した。
 また神與を担ぎ神の威光を利用し、神罰を恐れた朝廷は強訴の要求を呑まざるを得ず、各地に広まる神輿を担ぐ習慣はこの強訴の神輿から端を発している。
一方南山の高野山も地主神との関わりに空海は、この地に真言道場を開に当たり丹生都比売神社の祭神地主神である、狩場明神に借り受けて高野山を開いたといわれ仏道興隆と神祇信仰の融和を願い真言密教の守護神として、山上伽藍に「御社」を勧進した。

「廃仏毀釈」
明治三年に出された詔書「大教宣布」と神仏分離令の発令が「廃仏毀釈」の運動に拍車を掛け、より過激になっていた。明治政府は当初の意図とするところ、神仏を分離を目的としていたらしく、多くの要因で過剰な「廃仏毀釈」が各地に起きていった。
神仏分離だけには終わらずに寺院の廃寺、仏像の破壊は凄まじかった。
今までの寺領は国に没収され経済的に窮地に追いやられ、俄か神職や軍属に成る者も有れば、仏像を売り払って逃亡する者まで現れた。
大阪住吉大社は神宮寺の大きな堂塔も破壊され、暴力的な破壊に諸国の仏教寺院は消えていった。
修験道の出羽三山も「廃仏毀釈」が始り、多くの坊舎が壊されていった。千葉県の鋸山の五百羅漢はすべて破壊された。三重県は伊勢神宮の膝元、全国に比べて寺院の数は少なく、興福寺は貴重な文化財といえる仏像は壊され、五重塔が「廃仏毀釈」で25円で売りに出された。
徹底に破壊されたのが薩摩藩の寺院が1,616寺院が廃され、還俗した僧侶2966人を数えたと言う。財産や職を奪われた僧侶の3分の1は軍人になったと言う。
地域によって差は有ったものの美濃国では仏教の施設が無くなって、神道になることを余儀なくされ、現在でも葬式も神式で行なう家庭は少なくないと言う。
明治三年に富山藩では廃仏、領内313寺院を各宗一寺合わせ8カ寺に統合する為廃仏が行われた。明治五年には修験宗の廃止、本山、当山、羽黒山とも天台、真言に帰入、吉野金峯山寺、湯殿山、月山、で廃仏。神仏習合の寺院などは悉く廃止、破壊の標的にされ、逃れる為に仏像を秘かに隠した。
俄かに鳥居を設けて神道を装う寺院も出て、浄土真宗では明治政府に廃仏毀釈による被害を訴えた。
また明治の美術の岡倉天心は、「廃仏毀釈」からの復興に尽力を尽くし立ち上がり、千年以上の貴重な美術、文化財に、仏像の修復に奔走し政府に惨状を訴えた。

 神官や国学者が復古には平田篤胤派や水戸学に神仏習合への不純視が仏教の排斥に繫がったと見る向きも有る。一方国学者の本居宣長の影響も大きいと思われ、維新の王政復古と相まって疾風の如く短期間日本の全土に吹き荒れ狂った。仏教の受難の神仏分離令で有った。
また長年に渡る仏教の神道への支配と搾取が一挙に噴出したことも大きな要因でもあった。
歴史的に見て大きな犠牲を払ったが、神仏分離は、それぞれの思想、主旨を融和する事無く純粋に自力で信仰による社会、個人の救済に大きな寄与となり、誤解のない宗教活動が明治以降展開され、本来の姿、形勢が成されたのではないかと思われる。
また国学者の本居宣長の「古事記」の再発見、再考は日本の古代歴史に大きな一石を投じた事に功績がある。意図的な王政復古を願った訳ではないと思う。 




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